やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

歳をとると…2

2012-05-06 | 1970年代…
評論家の天野 祐吉さんがいつも指摘してゐるやうに(この方の、独特の視点には常に感心します)、最近のTVは、さっぱり面白くなく、ふと、むか~しの名作が無性に見たくなります。

それが、『木枯し紋次郎』の市川崑監督が演出した最初のころの話と、倉本聰脚本の『前略おふくろ様』ー。
(ともに、見るには限定のDVDを買ふしかなく、でもとても高く、願ひは叶ひません)

徒然に動画を見てゐたら、『前略おふくろ様』の名シーンが幾つかありました。
このドラマは、どのシーンも傑作なのですが(脚本、俳優、演技が三位一体となった稀有のドラマー)、その中でも、小生も特に印象に残ってゐるシーンが、やはり、UPされてゐました。

①:第一期の白眉のシーン。確か、バックには、ラフマニノフの曲が流れてゐたと思ふのですがー。
前略おふくろ様、第23回


②:必ずでてくる、利夫と半妻さんのからみのシーン。いつも、屈折したマザコンの半妻さんの、母を思ふ気持ちが切なかったー。
前略おふくろ様3回、利夫と半妻からみ1


③:恐怖のうみちゃん!
前略おふくろ様


④:さりげない名シーン
前略おふくろ様8回、オニオンク?ラタンスーフ?


このドラマの舞台は、東京・深川と、山形です。
倉本聰が山形県に疎開したといふこともあるらしく、確か山形弁は出てこなかったのですが、ドラマを見てゐた当時は在京でしたが、とても愛着があります。

 

歳をとると…

2012-04-07 | 1970年代…
歌は、演歌と民謡以外はどれでも好きで、カラオケでも、いつも、外見に似合はない選曲をするので、座中からブーイングがでます。

以前に、山形市の割烹飲み屋で、確か、中森明菜の歌を歌って、店の女将のヒンシュクを大いに買ひ、その店に出入り禁止になりました(今でも、その女将のつりあがった眼を覚えてゐます。仲間の人たちも、その店には再度行きにくくなって、酔ふと、お前のせゐでなじみの店を一軒無くした、と今でもその咎を責められますー)

昨年、柳ジョージが亡くなって、まだ若かったはずなのに…、と思ってゐました。
好きな歌ひ手でした。
一時期、車の中は、彼のテープでいっぱいでした。
そのころは、車も、真っ赤なクーペ(今は、死語に近いスタイル)でした。

深い雪の冬が終って、急に彼の声が聴きたくなり、CDを借りに行きました。


FENCEの向こうのアメリカ [良音質  歌詞 ] 柳ジョージ



何故か、寺尾聰の声も聴きたくなりました。

寺尾聰 ルビーの指環




昔、ロリンズでー

2009-07-21 | 1970年代…


ソニー・ロリンズを久しぶりに聴く。

高校の同級生で、ジャズに滅法詳しい友人がゐた。
フォークやロックを聴いてゐた小生がクラシックに出会ったのが二十歳ころ。
ブルノ・ヴァルターによるブラームスの4番だった。
こんなに、厳しい音楽があるのかと! と、二、三枚のウロコが落ちた。

数年して、ジャズを聴き始めた。
オムニバスのLPで、マイルス・デビスの「マイルストーン」だった。そのモード手法に、また、二、三枚のウロコが落ちた。

小生がジャズを少しずつ聴きだしたころ、友人とロリンズかコルトレーンか、との話になった。ダルマだったか、角だったか、ウヰスキーを間において酩酊しながら話してゐた。

くだんの友人は絶対的なロリンズ派で、ロリンズの名盤を何枚も聴くべきだ、と半ば強引に教へてくれた。
小生も、「サキソフォン・コロッサス」や「ウェイ・アウト・ウエスト」は聴いたけれど、実はいまひとつピンとこなかった。
そして、まだ数枚のアルバムきり聴いてゐなかったにも関はらず、「俺は、コルトレーンの方が…」と小さくいふと、友人は烈火の声で「ダメだ! あれは、ジャズではない」と、小生をいさめた。


1960年代半ばに録音されたこのアルバムは、音色も技巧も文句のつけやうもないのだけれど、その音楽は、時間の経過にすっかり劣化してしまってゐる。
小生は、今もコルトレーンを聴き続けてゐるけれど、やはり、ロリンズを聴くことは、ない。

闘ひ

2008-11-03 | 1970年代…
          

『光の雨』、そして、『草の乱』といふ映画のDVDを見ました。

前者は、連合赤軍が、浅間山荘事件へたどり着くまでのプロセスやリンチの様子を二重、三重の劇中劇に仕立てたもので、けれど、さっぱり面白くなかった。
劇中劇仕立ての是非はともかくも、
そして余りにも凄惨な事件だったといふことを差し引いても、リアリティがない。

確か、1970年代の日本は、もっと、はるかに政治の時代でした。
それに関はるか否かは別として、当時の若い世代は、もっと絶望的で、もっと希望を持ってゐた。
そして、とても違和感があったのが、映画のなかの服装。
当時は、もっと貧しく、そしてもっとダサい服装だったはずです。

紹介のサイトはこちら

後者は、明治時代初期の秩父事件を描いたものですが、これも面白くなかった。

”さうかなあ?”といふ印象で、これではまるで、国定忠治の世界である。
そして、乱を起こした農民達が粗暴な打ち壊し屋になってしまってゐる。

紹介のサイトは、こちら


そして、その頃の小生は、相模原米軍基地闘争にひとりで参加してゐて、逮捕はされなかったものの、座り込みのゴボウ抜きのあと、機動隊に連行され、盾の角で殴られ、数キロ先の河原に隔離され、することなく岩の上で空をみてゐました。

そのあと、何を思ったか、秩父札所三十四観音の巡礼に出かけました。
徒歩と、レンタサイクルで三十三札所まで回り、最後の札所は残して来たのですが、それを叶ふことは、まう出来ないのかも知れません。

『原子心母』

2007-11-11 | 1970年代…


ピンク・フロイド『原子心母』

ずゐぶんと久しぶりに聴く。
三十四、五年ぶりくらゐかしらん。

高校生の時は、いはゆるフォークとロックばかりを聴いてゐて、
いち時期吹き荒れてゐた学園紛争の中で、
小生等も、授業のボイコットや色々な要求を学校側に出し、
けれど、それらの騒ぎもあとかたもなく終焉してしまふと、
週末には、ひとりでデモに出かけてゆきました。
(いはゆる、70年安保の、騒がしい時代でした)

3人のグループを作ってゐたときもありましたが、小生はギターが下手で、
仕方なく(涙…)ヴォーカルの担当だった気もします。

牛の尻と乳が印象的なジャケットの作品。

今聴いても、その組曲は素晴しい、と思ふ。
コーラスが、如何にも時代がかった雰囲気を除けば、綿密に構成された曲想や音作りが少しも色あせない。
確か、悪友仲間にやたらと詳しいのがゐて、彼の影響があったのかもしれない。

三年後くらゐに、ブルノ・ヴァルターのブラームスの4番に出会ったやうな気がする。