やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

防御体制ー。

2006-06-30 | 大岡山界隈


燕達の巣の下で見てゐると、元気に口を開けてゐたので、
脚立を使ってカメラを近づけたら、いきなり防御体制になってゐました。






感心、です。
親の注意に忠実、のやうです。


ほんの数十秒見てゐただけですが、早くも親鳥が飛んできて、
フォバリングのやうに巣の前に立ちはだかり、夫婦で小生を威嚇しました。

感動しました。
動物の本能とは、素晴しいものです。






山形弁

2006-06-29 | やまがた抄

知人が仕事の件で来所し、「これ、うちの会社の新しいチラシー」と見せてくれました。

社長の方針なのでせう、バリバリの山形弁でのキャッチ文、でした。

いくつかをご紹介。
(東京弁に直す必要は、敢てないのですがー)





(こんな金額で、出来るんですよ!)




(トイレだけではなくて、他も含めて、皆工事されたらよろしいのではないでせうか?)



今時の若い人は、山形弁と東京弁を上手く使ひ分けますが、
小生も、それに英語を加へてのトリプリンガル(小生造語?)になるべく、
頑張ってゐます。

小生、生まれも育ちも山形ではありませんが、
15年を過ぎて、変な山形弁を話しつつ、
今もって、言葉の持つ多様性にいつも感激してゐます。

ある意味、東京弁しか話せない人は、不幸ですなあ。







「義にあらず」、を読む

2006-06-28 | 雑記

『義にあらず-吉良上野介の妻』(鈴木由紀子著/PHP研究所)といふ本を読みました。



       

作者は米沢出身の方で、その地を活かして、理不尽な殺戮にあった、吉良上野介義央の姿を妻の立場で追ったものです。
吉良上野介義央の妻、富子は米沢藩の上杉家から嫁いだ人、です。

小説的な手法をとりながらも、一寸中途半端な形で、構成としては不満足でしたが、詳細な取材のデータには驚きました。


小生、以前から、吉良上野介を支持する会を知人とふたりで勝手連をしてゐまして、この本もさういふ意味で大変面白く読みました。

身びいきなところを差し引いても、大筋は、この本の内容に近いものではなかったのではないかしらん。
刃傷事件にしても、時の将軍が天皇家の人達を迎へる大切なイヴェントの時に、原因は闇の中にしても、結果的には突然キレテ、職務放棄をし、人に切りつけた、といふ事実は、今に考へても、言ひ訳ならないやうなことだったのでせうから。

以前、高倉健が主演した「四十七人の刺客」(?)なんて映画は、まさに、ヤクザの出入り同様のさまで、最初に、抹殺ありき、でした。
本の中でも、映画にあったやうな、忍者屋敷のやうな住まひの様子はすべて史実ではないとされ、逆に、数寄を好んだ建物だった、とされてゐます。


そして、この本で興味深かったのは、刃傷事件の浅野内匠頭の母方の叔父が、20年ほど前に同じやうな事件を起こしてゐた、といふ史実。
また、夫妻を結んだ役に、年末の茶会を催した山田宗偏が深く関はってゐた、といふこと(小生、宗偏流なものでー)。


戊辰戦争の原因や結果と同じく、如何に史実が歪んで加工され、残されてきたか、
「忠臣蔵」の話も、殺された側や、遁走した側からみると、意外に真実の姿の一端が見へるのかも知れません。



(写真は、表紙)



甘茶、が咲く

2006-06-27 | 大岡山界隈


紫陽花よりひと足早く、甘茶が咲きました。








もとをたどれば、同じヤマアジサイなのでせうが、
我が家のは成長が遅く、花も左程たくさん付けません。

それでも、冬の最中の移植に耐へて、
沙羅と、椿との間で、楚々と、ふたつ、みっつの花を咲かせてゐます。












モリコーネ、の映画音楽を聴く

2006-06-26 | 音楽を


エンニオ・モリコーネの映画音楽作品集を聴きました。


        


何気なく聴いたのですが、結構、渋い選曲になってゐて、
勿論、最初期の”マカロニ・ウエスタン”ものの曲も入ってゐましたが、
最近の作品の、息の長い旋律を多用した、魅力的な曲が多く、すっかりと聞惚れてしまひました。


最近、ヨーヨー・マがモリコーネの作品を演奏したCDを聴いたばかりで、


        


なるほど、彼が惚れた訳が改めてわかりました。

「ミッション」や「ワンス・アポン・ナ・タイム・イン・アメリカ」、「ニュー・シネマ・パラダイス」等々、そのロマンあふれる、朗々たるカンタービレの旋律は、やはり、チェロにぴったりなのでせう。



それにしても、モリコーネといひ、ニーノ・ロータといひ、イタリアの映画音楽の多彩でなんと魅力にあふれたことか!


かうして書いてゐるうちに、
また、ジュリエッタ・マッシーナの「カビリアの夜」が見たくなった!




(写真は、ジャケットから)

















燕の家族ー。

2006-06-25 | 大岡山界隈


どうも、産まれたヒナは、4羽らしい。






物音がすると、餌をねだって、頭より大きいやうな口ばしを巣から出す。
蚊の啼くやうな、声も聞こえだしました。

日曜日だからでせうかで、親鳥も一緒のところを撮ることが出来ました。
それでも、小生の方向を警戒して、にらみ付けてゐるのがよくわかります。






親鳥は、当然(?)母鳥でせうから、父鳥はー、といふと、さっぱり姿を見せません。
時折、気が向いたやうに姿を見せてゐますが、
しっかりと餌を運んでゐるのか、”義務”で確認に来てゐるのかー。

「どの世界でも、父親って同じー」
と、力説する家人の言葉に、言葉すくなに反論はしてはみたものの…。


ここには、必死になって、”命”を育てる、生き物の本能があります。
人間は、日本人は、いつから、こんな姿を忘れてしまったのだらうか?

昨今、小生等には、理解への努力はするとしても、同情し難い事件が続いてゐて、
親が子を殺し、子が親を殺し、
果てに、投棄する、火を付ける、といふ、昔であれば、末法のやうな世界に突入してゐるかのやうです。



我が家でも、紆余曲折はありました。
父親としての小生も、先のオヤジ燕の如くー、ではありましたが、皆、それぞれにきっと消えないだらう小さな傷を受けながら、何年先になるかわからない、巣立ちの時へ向かって這ってゐます。
























残念なカヴァーアルバム。

2006-06-24 | 音楽を


こんなアルバムがありました。


         


小生の好きな、ロバータ・フラックが、結構カラオケで小生も16番くらゐにはしてゐる高橋真梨子の曲をカヴァーしたアルバム、です。

面白さう、と思って聴いたのですが、残念な結果でした。
今どき、こんなに、見事に失敗する例も珍しいのではー。

抜群の歌唱力を持つロバータ・フラックが、高橋真梨子の曲を歌へないわけがないし、勿論、なぞった歌ひ方ではなく、自分のスタンスで歌へるはずですが、聴き終はって面白くない。

何故なのか、自分でも不思議に思って歌詞等を読んでみると、妙に日本的な心情を反映させて英訳してゐるきらひがある。
そして、そのややウエットな心情に、何としたことか、R・フラックが合はせるやうな歌ひ方をしてしまってゐる。

これでは、プラスかけるプラスながら、見事なマイナスの結果になってしまふ。

おそらく、日本側から仕掛けた企画だったのでせうが、R・フラックにとっては、やらずもがなの一枚になってしまったのではないでせうか?




(写真は、アルバムより)







花咲かフェア、へ行く

2006-06-23 | やまがた抄

寒河江市で開催中の、「花咲かフェア」を覗いて来ました。
入場無料、です。

天気も曇りで丁度良いかな、と思ひましたが、会場へ着く頃には真夏の日差しになってゐて、結構楽しめるところですが、早々に帰ってきました。



以下、会場の様子です。






気持ちのよいテラス。













名前は不明ですが、如何にも幸せさうな、バラ。



















水辺の花も少しありー。













当然、サクランボもありー。



リンゴも、実り始めー。






人形も、イナバウワー!!















燕のヒナがー。

2006-06-22 | 大岡山界隈




燕のヒナが、数日前に生まれたやうです。

近寄ると、親鳥が威嚇するやうにこちらを睨みつけますので、
スゴスゴと遠くから写真を撮りました(また、ピンボケ、です)。

3~4羽分の黄色い口ばしがわづかに見へます。
鳴声が殆んど聞こえないのは、元気がないからなのか、最初はそんなものなのかー。
小生と同じで、父親の働きが悪いから、えさが少ないのか。

庭先にも、虫や昆虫は沢山ゐるはずですので、せめて、腹いっぱい食べて無事に育ってー、と思ふばかりー。






クレッセント/ジョン・コルトレーン

2006-06-21 | 書棚のジャズアルバムから
         

          


今年は、ジョン・ウィリアム・コルトレーンの生誕80周年の年ー。
つまり、当たり前のことながら、存命であったならば、80歳!
(ロリンズは、最近引退したばかりなのにー)

そしてまた、彼の命日が、近づいてくる。


「クレッセント」
1964年、4月、6月録音。

最近、このアルバムへの評価がきはめて高い。
コルトレーン教の信者たる小生にとっては、他の評価等はどうでもよいのですが、
ある意味、コルトレーンの音楽を冷静に聴く時代にはなったのでせう。


1964年、春と初夏ー。

「至上の愛」まで、あと、半年。
「アセンション」まで、あと、一年。
「エクスプレッション」の世界まで、あと、三年。
そして、その直後の死ー。


タイトル曲の出だしから、紛れもない、コルトレーンの音。

何故、こんなにも、哀しいまでの音色なのだらう。

この時期のクァルテットは、鉄壁の前期絶頂期にあったはずです。


ここには、フリー・フォームの姿は微塵もなく、
ジミー・ギャリソンのベースや、エルヴィン・ジョーンズのソロも大きく割かれてゐる。
その、ソロを受けて出てくるコルトレーンの音は、確かに、瞑想的で、精神性の強いものになってゐる。


きっと、間違ひなく、コルトレーンはこの世界に戻ってくるつもりだったに違ひありません。

死出の旅路を前にしての、ひと時の休息のやうに、音を濁すこともなく、吐露するやうなソロを展開することもなく、仲間たちとの共演を楽しんでゐるかのやうです。

巷間云はれるやうに、「エクスプレッション」や、その後発表された録音の世界のやうに、田園的な安らかさに満ちた演奏です。



コルトレーンが、
「神になりたかった」、と云ったかもしれない。
「神への使ひになる」、と云ったかもしれない。

そのことは、この「クレッセント」を聴くと、或いは意図的に流布された話なのでは、といふ気になります。
それ程、ここでのコルトレーンのサックスの響きは、純音楽的に昇華の直前まで来てゐるやうな気がします。


もしー、があったとしても、
コルトレーンが、残滓のやうに、朗々とスタンダード曲を吹いてゐる姿はなかったらうし、やはり、勁い美しさの、違ふヴァリエイションを見せてくれてゐたはず、です。


それにしても…、と7月の、彼の早すぎる死を思はない訳にはいかない。





(写真は、LPより)