やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

輪の先 2

2006-11-14 | 神丘 晨、の短篇
        
      


 波留子は、ペットボトルのお茶を飲み干すと、小さくため息をついた。
 コンビニで買った時にはよく冷えていたのに、お客からの電話を受けている間に温くなってしまっていた。ダッシュボードの上になど置かなければ、こんなに温くもならなかったはずだった。些細なことを悔んだ。
 長袖が苦にならないままで夏が終わったと思ったら、九月の中旬になって酷い暑さがぶり返してきた。農家の知人は、天候に翻弄される毎日に半ば呆れたように空を見上げていた。
 すべてがこんな調子だ。いいことなんて、ひとつも起こる気配もない。
 波留子は、耳元にまだ残っているお客の声を掻き消すように車のドアを開けた。契約するつもりだったがやめるわ、と電話口であっさりと云われた。ランスの会へ収めるお布施が、波留子の生活に影響を与えはじめていた。すでにお布施ではなく、要求に近いものになっていた。スーパーのパートを止め、生命保険の営業を始めたが、生来の口数の少なさが災いしてうまくはゆかなかった。
 昼休み時間を過ぎた公園は、駐車している車もまばらだった。波留子は所在無げに駐車場を歩いた。
 公園を囲むように山並が見えていた。夏をやり過ごした木々は、一様に葉を茂らせ、今年の生育を充分に終わらせたように見えた。
 春先には、山の斜面に山桜が見えていたはずだったが、今はその木が何処にあるのかもわからなかった。あの木を見つけるには、来年まで待たなければならないのか。あの山桜は、それで充分満足している。誰に見つけられるでもなく、誰に愛でてもらえるわけでもなく、自らに与えられた周期を繰り返す。
 ベンチの横に枯れかかったような椿の木が二本見えた。共に大きな木だが、揃えたように中央の幹が枯れていた。
 今の生活は、何の意味も無い…。
 宗教に頼るには、それに身を任せるには、自分自身にそれなりの覚悟と決意がなければ入ってゆけない。
 ランスの会がどうという問題ではない。私の問題なのだ。私が、何と向かうかの問題なのだ。
 覚悟と決意…。
 そういえば、そんなことを云っていた人がいた。波留子は、枯れかけたような椿を見つめながら記憶を整理した。
 あのマンションの人だ。
 急いで車に戻ると、波留子は携帯電話で番号案内を呼んだ。確か、しまもとこうぼう、というのですが、と尋ねる電話口の先で、嶋本工房をお知らせします、という間延びした声が流れていた。
 数回の呼び出し音の後、嶋本ですが、と落ち着いた声がした。
「あのー、いつかそちらへお邪魔したランスの会の瓜生といいますが」
 波留子は、台本を読むように一息に云った。
「やあ、暫くです。元気でー」
「一日で結構ですから、お休みの日にお付き合いをしていただけませんか?」
 波留子は、嶋本の声を遮るようにひと息に云い切った。

 
「狙いすましたように、何もない季節に来てしまいましたね」
 嶋本孝次郎は、笑いながら、わびるように云った。中尊寺の境内は観光客もまばらだった。あと一週間で師走にはいる、十一月の末だった。
 雪なら雪でよかった。勿論花の季節であれば、申し分もなかった。確かに何もない季節だった。北上川から吹き上げてくる冷たい風を避けるように、波留子は薄手のコートの襟を立てた。
 嶋本は時おり立ち止まって、杉の根元を写真に収めていた。
「何を撮っているんですか?」
 波留子は、すこし手持ち無沙汰に聞いた。
「いや、花も何も無いから杉の根でもと思ってー。しかし、この雪で捻じ曲げられた杉の根は凄い。生きるって事は、こんなに周りにいじめられるものだ、と云っているような曲がり具合だな」
 嶋本は、ひとしきり写真を撮ると「仏像を見に行きましょう」といって先を歩き出した。
 中尊寺へ来るまでの車中で、嶋本は世間話に終始した。現在の自分の仕事の状態、山形の商店街の景気の具合―。
 波留子は、時折あいづちを打ちながら、もどかしい思いをしていた。山形の商店街の物の売れ行き具合なんて、自分にはどうでもよかった。
 九月の末、やっとの思いで嶋本へ連絡をとったのだ。その時、嶋本はこころよく波留子の願いを聞いたが、現場の仕事が忙しく、結局十一月の中旬になって「中尊寺へ行きましょうか」という連絡がきた。
 波留子が、疲れ果てる寸前だった。
 嶋本は、入場券を波留子に渡すと建物に入っていった。
 薄暗い通路の先が人ごみになっていた。嶋本の姿は無かった。波留子はその集団のなかにまぎれていった。
 大きな展示室に入ると、柔らかな照明の中に像があった。阿弥陀如来像だった。
 その三体の姿を目の前にしながら、いく人もの観光客の口からため息のような声が場内に漏れていた。波留子も、何の説明も無いままにその像と対峙して、小さく声をあげた。二、三歩下がると三体の像が一堂に見られた。波留子と像との間を関西弁を話す一団が通りすぎていった。
 金箔ははがれて黒い生地が露出していたが、像全体を形つくっているゆるやかな曲線が場内の喧騒を消していた。穏やかな姿だった。 
 波留子は、場内の隅で、小さく手を合わせた。

「いい能舞台でしょう」
 嶋本は、杉の切り株に腰を下ろすとそう云った。胸元からタバコを口にくわえ、「ああ、この一帯は禁煙だったんだ」と慌てて胸元に仕舞った。
 波留子は、目の前の古びた建物のどこが素晴らしいというのか、見当も付かないでいた。
「宝物館の阿弥陀如来像は有無をいわさず素晴らしいが、金色堂は興醒め以外の何ものでもないな。それに比べると、これは建物としてはあちこちに傷みはあるが、北上川を望むこんな崖っぷちで能を見たいと我儘を云った当時の人間のしゃれっ気に感服するな」
 能舞台の横には小さな社があった。その前に二メートル程の大きさの草で編んだ輪が立っていた。
「嶋本さん、あの草で出来ている輪はなんですか?」
「ああ。確か、茅の輪だと思うけれどー」
「ちのわ?」
「神事のひとつで、夏に行う行事なんだけれどもー。正月から六月までの罪や穢れを夏に祓って、残りの半年を無事に過ごせますようにと、あの輪をくぐるんです。忘れているのか、観光用に残してあるのか」
 二人の前を、老夫婦が低い声で話しながら通り過ぎた。
「あの、嶋本さんはお独りなんですか?」
 言葉の継ぎ穂を失って、波留子は急に聞いた。
「わたしですか?」
 嶋本は、波留子の顔を見ずに、茅の輪をくぐっている老父婦の姿を見ながら返事をした。手を添えながらゆっくりとくぐり抜ける姿を、眩しそうに見ていた。
「確かに、独りになってしまいました。いずれは皆一人になるのでしょうが、自分でもこんなに早く独りになるとは思わなかった」
 嶋本は十年前に起きた交通事故の話をはじめた。
 何の変哲も無い、梅雨明け間近の日曜日だった。
久しぶりに福島の爺ちゃんの所へゆくか、と前日に嶋本が話すと、妻の妙子は、そうね、しばらく実家にも行ってなかったわね、父さんも喜ぶわ、と笑った。三年前に妻に先立たれた義理父の、気弱な話し振りが気にかかっていた。
福島市内の実家で半日を過ごし、妙子が仙台で買い物をして帰りたいと言うので高速道路に入った。少し疲れた? という妙子の問いかけに、嶋本は、ああ、と言った。パーキングエリアで飲み物を買ったときに、運転は妙子に代わった。
 白石を過ぎたあたりで、突然横殴りの雨になった。大丈夫か? と嶋本は心配したが、あと少しだから、と妙子はハンドルを握り締めて前を見ていた。2人の子供は、後部座席で気持ちよさそうに寝ていた。
 前を走る車が少し左に寄ったな、と思ったときにその車はガードレールに接触した。妙子は、反射的にハンドルを右に切った。その時、追い越し車線を走っていた車が嶋本の車を弾き飛ばした。嶋本には、叩きつける雨の中を裸で転がってゆくような感触だけが残っていた。
 妻の泣き叫ぶ声と救急車のサイレンが錯綜した。
 一ヶ月後、私は二人の子供を殺してしまった、と妙子は蔵王山の谷に身を投じて命を絶った。嶋本も、二ヶ月の入院ののちに職場の建設会社へ戻ったが、左手と足に後遺症が残り、それまでの部署だった営業が急にうまくゆかなくなっていた。上司が他の部署への配置換えをしたが、すでに新しいことをはじめる気力は無かった。
「本当に、何もかも嫌になりました。自暴自棄になっても、何も得るものはないと頭ではわかっていても、それを抑える気持ちがおこってこない。結局、会社は辞めました。食べていくだけならと、自分で仕事を始めたんです」
 能舞台を見つめながら、嶋本は淡々と話した。その話し振りは、十年前の事故と、その後の他人には云えない苦しみを昇華し終えたから話せるような穏やかな話し方だった。
「まるで、ユダのようだ、と思いましたよ」
「ゆだ?」
「事故は仕方がない。あのときの雨や、後続の車を責めても何も帰らない。幾度も、幾度も何故運転を代わってしまったのかと自分を責めたときもありました。それらがひと段落したら、手元に金があったんです、保険金です。その時、そう思ったんです。何に使える金でもない。もし神というものがあるとすれば、人間をどこまで弱くさせれば気が済むものか、まるで私への踏み絵のように保険会社から金が振り込まれたんです」
 そこまで自分をせめなくても、と波留子は穏やかに話す嶋本の横顔を見ながら思った。
 裏手の竹林が、通り過ぎる風に鳴いていた。軋むような音も聞こえた。
 私は、この人を好きになろうとしている。
 波留子は、久しくなかった自分の中に起こっている意志を感じた。
「そう云えば、会の活動は?」
 嶋本が顔を向けて聞いた。波留子は、その目線から逃げるように、社から帰る老夫婦の後姿を追った。
「止めたんです、私」
「そうですか。それで、良かったのかも知れません。詳しいことは分からないけれど、信仰というものを押し付けるのは、いや、布教というのだろうが、ろくなものを生まない。そうですか、止めましたか。ウム。それで、良かったのかもしれません」
 さて、と声を出して嶋本が腰をあげた。
「私、くぐって来てもいいですか?」
 波留子は、立ち上がった嶋本に云った。
「何をですか?」
「あの輪です。季節外れでも、まだご利益が少しでも残っているような気がしますから」
 波留子は、嶋本が少し頭をかしげる姿を残して小走りで社へ向かった。
 茅の輪の横に簡単な由来を書いた板が立っていた。嶋本が云っていたのと同じだった。そして、くぐり方が書かれてあった。
 波留子は、「いいですよね」と社に向かって云うと、輪の下の方から茅を数本抜き取った。それを胸のあたりで大事そうに持つと、ゆっくりと輪の中に入った。最初は左にまわり、戻ると今度は右に回った。そして、再び輪をくぐると、左へと回った。
 回り終えると、社に向かってゆっくりとお辞儀をした。そして、振り返ると嶋本の姿を探した。
 嶋本は、能舞台をカメラに収めていた。舞台の背に描かれた青松は、色がはがれ、老木のようになっていた。
「さあ、行きましょうか」
 嶋本は、近づいてくる波留子に向かって云った。

「ガイドさん! 何でこの坂は、月見坂と言うんやろね? こんな大きな杉の木だらけの坂では、月どころか、空も見えないと思うがね」
 波留子たちの前を、観光客の一団が道をふさいでいた。
 ガイドの女性は、待ってましたとばかりに振り向くと説明を始めた。
「皆さん! 藤原の時代は何年前のことだかわかりますか? そう、かれこれ八百年以上も前のことです、この地が京都に匹敵するほどに栄えていたのはー。はっきりとした年代はわかりませんが、この参道にある杉の木は、樹齢約三百年。つまり、中尊寺が栄えていた時にはこれらの杉は苗にもなっていなかった、という訳です」
「ガイドさん、まるで得意満面やな」
 嶋本は、観光客の反応を可笑しそうに聞いていた。そして、その団体客の最後尾にまぎれるように坂を下っていた。関西方面から来たのだろう、言葉に特徴があった。
 波留子は、手にしていた幾筋かの茅を見つめていた。そして、急に公園の椿の樹を思い出した。
 あの二本の椿の木は、もう枯れてしまっただろうか。
 残っているとしたら、枯れた枝は、かろうじて若葉をつけた枝を道連れにしようとしているのか。
 何とか新芽を出していた枝は、枯れた枝を見殺しにしようとしているのか。
 気がつくと、あたりが静かになっていた。波留子は、ひとりで坂を下っていた。
 嶋本は、十メートルほど先を歩いていた。観光客にまぎれて話しながら歩いていた。嶋本と観光客たちの笑い声が杉の梢に消えていった。 
 聴いてみようか、と波留子は思った。
 嶋本が云っていた、受難曲を聴いてみようか、と思った。音楽のCDなんて、ここ何年も買ってはいなかった。どの演奏がいいのか、嶋本に尋ねてみよう。そう決めると、波留子は嶋本の後姿をまっすぐに見つめて坂をくだり始めた。

(完)


輪の先 1

2006-11-13 | 神丘 晨、の短篇
       
  

 九時から始まった支部長の話は五分前に終わった。いつも十時には教会を出なければならなかった。
 梅雨が明けたというのに、八月になっても上着が必要だった。肌寒さすら感じるような雨が降り続いていた。
「瓜生兄弟、今日も一日しっかりと業に励みましょう。貴方を拒絶する人は、すべて、イエス様を拒絶する人だと思って歩いてください。すべて、マリア様を拒絶する人だと思ってください。見も知らず、名前も知らない人の拒絶の一言が、貴方を強くする一言だと思って歩いてください」
 教会の車返しで、空を恨めしそうに見上げていた瓜生波留子の背中を押しながら、今本君恵が云った。
 教会というには、余りにも粗末な建物だった。ランスの会の山形支部長が自宅の敷地の一角に立てたプレファブだった。二階建てで三十坪の大きさだ、と波留子は聞かされていた。建物とは不釣合いに大きい車返しの屋根が付いていた。錆付いた鉄骨の外階段を上がると教会があった。
 ランスの会はイコンをその信仰の対象にしていた。雑誌程の大きさの、イエスとマリアの像が正面にかかっていた。説教台は木製だったが、信者用の椅子は細いパイプの椅子だった。
 入会して日の浅い波留子は、山形支部に何人の信者が属しているのか、まだよくは知らなかった。二十人くらいは顔を合わせた気がした。
 一階はサロンのように使われていた。その横には、瓦屋根が反りかえった大きな家があった。支部長の自宅だった。別棟になっている駐車場には、ドイツ車が二台納まっていた。雨よけの為に囲ってある階段の波板が、可笑しいくらいに貧しく見えた。
「瓜生兄弟! 朝からそんなくらい顔ではいけませんね」
 今本の弾んだ声が聞こえていた。波留子は、その声に急かされるように朝の打合せ会で決まった車に乗り込んだ。
 教会は山形市西部の山裾にあった。辺りは水田と、山の斜面には
葡萄棚が続いているだけだった。時雨を思わせる雨を突いて、波留子は他の信者と共に今本君恵の車に乗り込んだ。

 波留子がランスの会に入ったのは、半年前だった。
自分で考えても苦笑するような、信心とは無縁の四十数年だった。県北の商業高校を卒業し、山形市内の信用金庫に就職し、叔母の家で結婚までの月日を過ごした。無口だけれど、真面目そうだからという叔母の勧めで瓜生雄治と結婚した。結婚と同時に信用金庫は辞めた。二十五の時だった。自動車の部品工場に勤めていた夫とは、十五年の生活の後に別れた。
 今にして思えば、離婚するほどの理由でもなかったのかもしれない。夫の雄治は山形の飲み屋街の女に入れあげて、すでに三年ほど前から家には寄り付かなかった。月末にアパートの扉の小窓に汚れた茶封筒が入っていた。生活費だった。そんな行為が三年近く続いていたが、結局、波留子が雄治の姿を見ることはなかった。波留子が一度実家に戻ってからはそれも無くなった。
 実家の母親は何とかしてよりを戻せと云っていたが、波留子にはそんな気力は残っていなかった。子供が出来なかったことが、あるいはそれが夫を他の女に走らせた一因だったのかもしれないが、波留子の気持ちに余計な揺れを作らせなかった。
 その後に、付き合った男もいたが、長続きはしなかった。
八ヶ月前に分かれた男は、波留子を抱いた後に、いつも「粗末な胸だな」と云って煙草を吸っていた。暫くすると、連絡が取れなくなった。結局、生活を切り詰めて貯めた銀行の金は、そのほとんどが無くなっていた。
 その時、小さな胸を両手で抱えて、波留子は粗末な人生だな、と思った。
このまま、全てが終わるような気がした。いく通りもの、幾十かの選択肢があったはずなのに、自分は何故こんな粗末な人生しか歩くことが出来ないのか。
この先、自分の回りで変化するものがないような気がした。
 このまま終わってしまうのか?
 不安が恐怖心に近づいたときに、パート先の今本から会の話を聞かされた。「何でも話し合える会だから」と、ランスの会への誘いを受けた。波留子は見たことも、聞いたこともない会だった。
二度目に足を運んだときに、波留子は「入りたいと思います」と小声で云った。
「大丈夫ですよ。貴方が変わりたいと思う気持ちを持ち続けていれば、それをイエス様が見放すはずがない。ただし、その気持ちが無くなったときには、その怒りは途方もない力で貴方を襲うと思ってください。もうそれは、私の力では抑えようもない位のちからになりますからー」
 支部長の富長は、励ます言葉とは裏腹に、肩を落として座っている波留子の足元を嘗め回すように見ていた。

 そのマンションは、今本と二度ほど回ったところだった。確か、一軒も話が出来なかった覚えがあった。
「聖書についてー」と話し出すと、「今は忙しいから」と、にべも無く玄関のドアを閉められた。
 管理人の目を盗むようにしてエレベーターに乗り込むと、最上階のボタンを押した。
 エレベーターの扉が開くと、激しい雷雨になっていた。横殴りの雨が廊下のコンクリートを叩いていた。波留子は、その雨を浴びたように気落ちしながら廊下の端へ向かった。
 ドアに、〈工房しまもと〉とプレートが掛けてあった。以前に回ったときには無かったような気がした。
 チャイムを押すと、直ぐ隣で声がした。待つ間も無くドアが開いた。
「あの、聖書についてお話をー」
 云い終わって目を上げると、男が頭を傾けて立っていた。波留子は慌ててバックの中から聖書の冊子を取り出した。
「そうですか、こんなひどい天気の中を大変だ」
 男は、三角定規で肩をたたきながら、真直ぐに波留子の顔を見た。
 左手が、かすかに震えていた。
「ランスの会の方ですよね? そう云えば、円山さんはお元気ですか?」
 男は、玄関横にあるキッチンの換気扇を回しながらタバコを吸っていた。コーヒーの香りが漂っていた。
「円山? 円山兄弟をご存知ですか?」
「ああ。以前に改造の工事をさせてもらったことがあります。とても立派な方でした。いつも家族で回っていたな」
 十帖ほどのフローリングの部屋に、大きなテーブルが置かれていた。奥の部屋には、カタログが整然と並べられた棚がいくつも見えた。
「工事が終ったときに、無事に終わらせてくれた、ささやかだが、と言って聖書を貰いました。
その時はちょっと面食らいましたが、今でも大事にとってありますよ」
 不思議な人だ、と波留子は思った。
会の人たちがいつも云っている、むやみに自分を拒むような様子が少しもない。円山さんのことも知っているという。歳は自分よりは五、六歳上だろうか。三角定規を持っているから、図面を描く仕事なのだろうか。
「時間があれば、コーヒーでも飲んでいきませんか? アイディアが出なくて一息つこうかなと思っていたところなんです。この空模様の下を休み無く歩くのでは、身体も冷え切ってしまうでしょう」
 「それが私たちの使命ですからー」
 ええ、と小さく云った波留子の声は、後ろにいた今本の声にかき消された。むやみに中に入ってはいけない、という決まりもあった。
「そうですか。まあ、時間でもあるときにまた寄ってください。その時にでも、ご馳走しましょう」
 男の声が、波留子の中に入ってきていた。
 何の抵抗も無く、入ってきていた。
今本が、波留子の背中を二度押した。
「あの、聖書についての説明をー」
「ああ、それは結構です。貴方や、貴方の会に何かあるということではないのですが、自分なりの考えがありますから」
「自分なりの?」
 今本は、後ろでいらいらしているようだった。その気配を無視するように波留子は聞いた。
「マタイ受難曲を聴いたことがありますか?」
 男は、コーヒードリップが落ち終わるのを確認すると唐突に云った。
「マタイ受難曲? マタイって、あのイエス様に従っていた弟子のマタイのことですか?」
「そうです。色々な人が作曲していますが、バッハが作曲したマタイ受難曲のことですが、聴いたことは?」
「いえ、私はー」
 波留子は横目で今本の顔を見た。すきにしなさい、という顔つきで横殴りの雨を見ていた。
「私も貴方も、いや他の人を一緒にしてはまずいか、いずれにしてもあと百年も生きられるわけでない。変な男に騙されたと思って、そのうち三時間を作って聞いてみてください。
この曲には、聞く者に対して、一種の覚悟を求めるような凄さがあります。それまで生きてきてしまった人生を自ら悔やみ、これから生きてゆかなければならない人生に対して、覚悟を求めるようなー」
 波留子は、狭い玄関先で男の声を聞いていた。低いが、よく通る声だった。その声は、山形支部長の声よりは波留子の中に何の抵抗も無く入ってきた。
「いくら回るのが修行とはいっても、休みの日はあるのでしょう?
神様だって、週に一度は休みなさい、といって日曜日を作ってくれたくらいなのだからー。そのうち、時間をとって聞いてみてください」
男の話を聞き終えると、今本が波留子の背中をつついた。戻る、という合図だった。
 ありがとうございました、と云うと、波留子と今本は隣りのドアへ向かった。 


(続く)



アルバム

2006-07-10 | 神丘 晨、の短篇

         



「それならやはり、『ワルツ・フォー・デビィ』だろ?」

ジャズ好きな友人が、得意そうに云った。
久しぶりに会って、酒を飲んでゐる時だった。
私が彼に、ビル・エヴァンスのアルバムならどれがいい、と聞いたからだった。

「このライブの直後、ベーシストがね…」
彼は、身を乗り出して話を続けてゐた。

私は、さして音楽といふものには興味がなかった。
別に改まって音楽を聞いたからといって、気持ちが休まることもなかった。
仕事の打合せの時、ホテルのロビーで音楽でも流れてゐれば商談が進む。
その程度でよかった。

「『ユウ・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』っていふアルバムはどう?」
「ウム?!」

友人は、驚いたやうに私の顔を見た。
「お前、素人の割りに、ずゐぶん渋いアルバムを知ってゐるな!?
 あれは、いいアルバムだ。
 一度すべてを流し去ったあとで、音楽が鳴ってゐる。
 持ってゐるのか?」

昔、ひとりの女に「聴いてみてー」と渡されたものだった。
それから、彼女とは一切の連絡がとれなくなった。




















黄昏

2005-12-16 | 神丘 晨、の短篇
 なんということになってしまったのかー。

 ヨハネス・ブラームスは、仕事部屋の小さな窓を見ながら、ため息を飲み込んだ。
 新たな若葉を付けたばかりの木々の間から、小さな沼が見えた。水面は五月の光を散らし、幾筋かの光が窓のガラスに当たっていた。
 遅い冬が終わったのは、ひと月ほど前だった。
 保養地バート・イシュルの高台にある別荘の中で、ブラームスは身じろぎもしないで外をみていた。神が現在の自分に許しているのはそのことだけだ、というように椅子に深く身体を預けていた。
「だんなさま、食事は如何されますか?」
 小さなノックの後に、メイドのエリザベートの声が続いた。部屋の中のブラームスにやっと聞こえるほどの、か細い声だった。
「有難う。しかし、今は何も欲しくはない。暫くしたら、薄めのコーヒーをもって来てはくれないだろうか。今は、それだけでいい」
 エリザベートは気を使って、物音ひとつ立てないで部屋の前を去った。

 長旅の疲れが身体の中まで溜まっていた。
 六十歳を過ぎた身体には、四十時間近い汽車の旅は確かに応えた。いちどウィーンに戻ったが、そのまま逃げるように別荘に潜り込んだ。ボンから戻って一週間が過ぎたが、身体の節々の痛みは増すばかりだった。
 好きなこの地で一ヶ月もゆっくりすれば痛みは和らぐかもしれない。しかし、この歳になって空いてしまった気持ちの隙間は埋めようも無い気がした。このまま、歳を重ねてゆくのは、耐え難い苦痛以外の何ものでもなかった。

 結局、クララの葬儀に立ち会うことは出来なかった。
 訃報の連絡がウィーンの住所に送られてしまったのは仕方のないことだった。
しかし、なんとした事だろう。
 よりによって、私は何故あの時期にこのイシュルにきて仕事などをしていたのだろう。別に急がれていたコラールでもなかった。書けなければそれで済んだ仕事だった。もう、ほとんどの仕事はなし終えてしまったはずなのにー。

 六十三歳になったブラームスの元へ、クララから祝いの手紙が来たのは三週間前だった。
 たった、三週間前だ!
 三週間前には、クララから私の元へ、祝いの手紙が届いていたのだ!
 それがどうしたことだ。今は、もうクララはこの世にはいなくなってしまった!
 ブラームスは、羽根ペンを一度持ち、無造作に目の前の窓に向かって投げつけた。

 クララからの手紙は、ブラームスの誕生日の二日後に届いた。祝いに駆けつけた友人たちは、まだ幾人かはブラームスの元にいた。
 音楽評論家のマックス・カルベックは、誕生日の祝賀に真っ先にブラームスの家を訪れ、クララの手紙が届いた時もまるで大事な花束を持つようにブラームスの元へ届けた。
「ヨハネス! 最愛のクララからの手紙だ! 彼女は病の床にありながら、ご覧よ、こうしてしっかりと貴方の誕生日を忘れずに手紙を送ってきた! クララに乾杯! クララに祝福を!」
 すこしおどけるようにしながら、カルベックは封筒をブラームスに渡した。カルベックの姿を可笑しそうに見ながら、ブラームスはその手紙を受け取った。小さな老眼鏡を鼻に乗せると、ゆっくりと封を切った。

―心からのお祝いを
 心から愛する貴方のクララ・シューマンより。
 もうこれ以上、うまく書けません。
 でも、あるいは間もなく、貴方の…

 ブラームスは、覗きこむようにして待っているカルベックに手紙を渡した。目を凝らすようにして手紙を読み始めたが、暫くすると小さくため息をついた。
「ヨハネス? 貴方は、この手紙が読めたのかい? 私にはとても読めない。最初の数行は何とか判るが、その後はまるでー」
 そう言って、手紙はブラームスの元へ戻された。
 確かに手紙の文字は幼子の悪戯書きのように曲がり、そして時折鉛筆の文字はかすれていた。
 ブラームスは、すこし口元に笑みを浮かべると、ゆっくりとロッキングチェアを動かした。

 私には、みんな判ったよ、クララ。
 貴方の字は四十年間も慣れ親しんでいるのだ。例え一本の線で書かれていたとしても、例えひとつの円で書かれていたとしても、すべてそれは私への言葉なのだ。
しかし、とブラームスはその手紙の文字を見ながら、老いたクララの姿を思いやった。確かに、その文字の弱さには、かつての勝気なクララの姿は微塵もなかった。数年前に、ローベルトの交響曲を編曲し、「そんな勝手なことは許されません!」とブラームスに激しく抗議したクララの姿はなかった。
 
 ブラームスが息せき切ってフランクフルトに着いたとき、クララの葬儀は既に終わり、その亡骸は夫ローベルトに寄り添うべくボンに運ばれた後だった。
 ブラームスは再び駅舎に向かい、太った身体を硬い座席に沈めた。車窓からは、冬が終わったばかりの南ドイツの景色が流れてゆくだけだった。
 なんということだ。
 私は、クララの亡骸にひと目も逢えないままで、残りの日々を過ごさなければならないのか。
 あなたに対して、それほどの罪を犯してしまっていたのか。
 
 ボンにたどり着いたブラームスは、迎えの知人の手を払うように「クララの所へー、クララの棺へ」と、うなされるように言った。
いつもは太った身体をいたわるようにゆっくりと会話をするブラームスが、まるでうわ言のようにクララの名前を呼び続けていた。
 ブラームスの姿をいち早く見つけたのは、クララの孫のフェルディナントだった。
「ヨハネス様! ヨハネス様! こちらでございます!」
 ブラームスの手を取ったフェルディナントは、既に涙が止まらなかった。
 孫のフェルディナントに五月七日がブラームスの誕生日であることを言われて、クララは脳卒中の病床にもかかわらず、「それは大変!」と鉛筆と紙を持ってこさせた。フェルディナントは、そのときのクララの顔色に少し赤みがさしたのをはっきりと覚えています、とブラームスの手を取りながら話した。
 ブラームスは、「有難う。クララの分も含めて、改めてお礼を言います」と言った。差し出した両手の甲に大粒の涙が落ちた。

 小さな酒場の景色が浮かんできた。薄汚れた酒場だった。
低い天井に木製の古い梁がむき出しになり、壁の漆喰はすでにその白さを失っていた。場所は解からないが、間違いなくハンブルクの酒場だ。
 私を生み、しかし決して私を受け入れることのなかったハンブルクの町!
父親の姿が見えた。十人ほどの楽団の隅で、下を見ながらコントラバスを弾いていた。ヨハネスの姿も見えた。化粧の濃い娼婦達に囲まれながら、小さな身体をピアノに向けていた。遠慮のない笑い声が酒場の中に充満していた。
「ヨハネス坊や! そんなしみったれた曲じゃなくて、もっと愉快になる曲を弾きなよ!」
 ブラームスを可愛がったジプシーの女たちは、いつもそう言いながら豊かな胸をブラームスの顔に押し当てていた。
 喧騒と、酒の匂いが充満していた。
 貧しい日々だった。本当に貧しい生活だった。
しかし、貧しいことは、決して苦痛ではなかった。
少し傾いた木造のアパート。低い天井の下で暮らした日々は、先も見えない日々だったが、今の私のように、こんなにも心が痛みはしなかった。

 結局、私のせいなのだ。
 クララを失ってしまったのは、間違いなく私のせいなのだ。
 考えれば、私はこの歳になるまで、自分の妻と、その妻と暮らせるような家も持たなかった。持てる時間も、財力も余るほどに持ち合わせていたのにー。
 クララを迎え入れる事だって、きっと出来たはずだ。如何にクララが喪に服すと言っても、ローベルトが亡くなってもう幾十年もたっていたのだ。
 結局、臆病なだけだったのか。
 ローベルトや、クララのお陰は勿論あったが、今の私は、私の力でここまで来たのだ。確かに、敬愛するモーツァルトのような軽やかで、けれどとてつもなく深みのある音楽は造られなかったけれど、しかし、私を、私の音楽を支持してくれる若い人たちも幾人もいる。
 三週間前にも、カルベックが怒ったように言っていた。
「ヨハネス、貴方は余りにも自分を責めすぎる。確かに、貴方の完璧な性格はわかる。それがあったからこそ、貴方の作品は、全てが傑作の誉れが高いものばかりだ。
しかし、考えてもみてください。貴方が出版を許した弦楽四重奏曲は何曲? たったの三曲だ。しかし、破棄されたものはおそらく二十曲以上はあったのだろう。私が見る事を許された幾つかの曲ですら、既にあのベートーヴェンを上回っていたかもしれないというのにー。それを貴方は、まるで暖炉にマキを入れるように、いとも簡単に破棄してしまった。
 既にあの厭わしいワーグナーも去り、貴方は名実共にこの世で随一の作曲家になっているのです。
 貴方の作り出す一音一音が、やがては人類の財産になるのです。どうか、埋もれている作品があれば、ぜひ見せてください」
「有難う、カルベック君。
しかし、今さらそれを言ったところで、私の性格が変わるものでも、貴方の言われた楽譜が灰の中から蘇って来るものでもない。言っておくが、私はいたずらに楽譜を処分した訳ではない。作品の数なんてものは私には意味の無いことだ。僅かでも破綻のある作品を自分のものだといって、世に出すのは死ぬより辛いことなのだよ」

 窓から差し込む光が、天井に幾筋もの帯を作っていた。
 ブラームスは、クララの棺の埋葬を思い浮かべていた。フェルディナントに手を添えられてたどり着いた墓地では、既に埋葬が始まっていた。
「クララ! 待っておくれ。 クララ!」
 泣く様な声に、参列の人たちが一斉に振り向いた。ざわめきが止まらなかった。
 その間をかき分けて、ブラームスは、転がるように棺の元へたどり着くと、ひとかけらの土を棺の上に乗せた。

 これだけか!
 たったこれだけか!
 四十年間も貴方を慕いながら、最後に私に許されたのは、貴方への悔みも伝えられず、このひとかけらの土だけか!

 ブラームス先生ですよね、と確認しあう声が参列の夫人たちから幾度も聞こえていた。




「空木」

2005-11-08 | 神丘 晨、の短篇
   3

「少し遅くなったけれど、恒例の芋煮会をしましょうよ」
 仕事仲間の北村澄子から電話があった。十月も末になっていた。
九月の半ばから十月の中旬にかけて、馬見ヶ崎川の河川敷には朝早くから色鮮やかなシートが敷かれ、数多くのグループが場所の陣取りをしていた。さすがに十月も下旬になると、その姿を見かけるのもまばらになった。鍋や酒の温かさより、川原をなめてくる風に冷たさが増してきた。千都子も数年前の芋煮会で、鍋も程々に蔵王の温泉に浸かりに行ったことがあった。
 千都子は、駐車場に車を止めると腕時計を見た。十一時になったばかりだった。朝のうちに空を覆っていた低い雲はなくなり、小春日和のような天気になっていた。正面に見える山は、松の緑と最近増え始めている落葉樹の紅葉が相半ばして、なだらかな姿を見せていた。
 十二時には河原の駐車場に集まってください、という北村の電話だった。十時に入れたお客との打合せは三十分で終わってしまった。増築の仕事だった。来年の春には工事をしたい、とのことで夏から打合せを進めていたが、親の具合が悪く、しばらく延期したいと言われた。千都子は、フロントガラスの正面に見える山をぼんやりと見ていた。
―マーラーの交響曲第二番〈復活〉より、本日は時間の関係で後半部分をお届けします。第四楽章「原光」と終楽章です。
 説明が終わると、車のラジオから厚い弦の響きに乗って女性が押し殺したような声で歌い始めた。歌詞も言葉も解らなかったが、何かせっぱ詰まったような歌い方だった。その声が、千都子を説くように音楽は少しずつ規模を広げていった。
 CDを買ってみようかしら、と思いながら、目の前の景色がいつもと少し違うような気がした。
 車を降りて辺りを見回した。再び目の前の生垣をみて「あら」と小さく声をあげた。
駐車場を囲うように伸びていたタニウツギがほとんど切られていた。一部は撤去され、代わりにツツジの株が既に用意されていた。
千都子は、腰ほどの高さに切られた生垣の前で、その切り口を見つめた。
いつだったか、友人たちと山菜取りに行ったときに、タニウツギの花を取ってきた。枝垂れる枝に、鮮紅色の鮮やかな花が幾つも付いていた。家の駐車場からその枝を持って玄関に向かうとき、隣りの老婆が大声を上げた。
「染井さん、何を持ってきたのや!」
 老婆の濁った眼は、千都子の右手をじっと見ていた。白内障を患っていると聞いていた。
「えっ? 何って、山でワラビを少しー」
「なぐって、その花よぉ」
「花? ああ、山の斜面に咲いていたから、少し頂いてきました。元気がいいから、事務所にでも飾ろうかと思って」
「そだな花、家に持ってくるものでない。それは縁起が悪い木だ。その花を家に入れると、その家が火事になる。あんたの家は燃えてもいいかもしれんが、おらィの家はいい迷惑だ」
 老婆の突然の言葉に、千都子は手に持っていた枝を地面に落とした。
 翌日、会社で植物図鑑を調べた。確かに一部の地方では忌み嫌われる風習のようなものがある。幹が一部空洞のようになっているので、骨拾いの箸や、死出の旅人の杖になる、といわれているところもある、と書かれてあった。
 あんな話はただの迷信だ、と千都子は幹の切り口を見つめながら思った。数センチほどの太さの幹の中央部に、白い発泡スチロールのようなものが詰まっていた。
 公園と道路の間に幾種類もの木が植えられていた。桜の木や、椿が多かった。気をつけてみると、ウツギの横の椿が枯れかかっていた。細長く伸びた枝先に、小さな葉をつけていた。花芽はひとつも無かった。
 きっと生命力の強い木なのだろう。だから公園を管理している役所も、伸び放題にならないツツジに切り替えたのだろう。
 こんなに切られても、きっと直ぐに枝を伸ばしてくるわ。
 千都子は、切り口を上に晒したウツギの姿を見ながら、春先に勢いよく伸びていた枝の姿を思い出した。こんなに切られても、きっと見る間に隣りのツツジを駆逐してしまうに違いない。
 芹沢が、アワダチソウという外来種の草の話をしていたのを思い出した。道路沿いで見かける雑草だった。外来種特有の旺盛な繁殖力の元が、根から出る分泌物なのだと言っていた。しかし、回りの草々を駆逐してしまうと、今度は自らの分泌物で中毒をおこして自滅してしまう、と言っていた。
「見事な生きざまね」
 千都子は、芹沢の話を聞きながら、感心した様に言った。
 ウツギという名前にどういう字を当てたのか、千都子は思い出せなかった。辞書で調べるのは味気ないと思った。やはり、芹沢に会って聞きたいと思った。
 今は、それでいいと思った。河原の方から名前を呼ぶ声が聞こえて、千都子は振り向いた。

                                    完

「空木」

2005-11-07 | 神丘 晨、の短篇
   2

「社長、どうかしたんですか?」
 小原由理子の声に驚いて、千都子は右手のマウスを押した。パソコンの画面から図面が消えた。慌ててカーソルの矢印を〈戻る〉のところへ移動させた。
「ビックリするじゃない」
「だって、さっきからフリーズしちゃってるんですから」
 由理子は、壁紙のサンプルに付箋を付けながら言った。
「この前の蔵王のペンションの話、うまくいかないんですか? あれが入るといいなと思っていたんですけれど」
 由理子は、千都子を助けるかたわら、会社の経理もみていた。
「大丈夫よ。予算は少し厳しいけれど、同行してくれた芹沢さんがうまく間にはいってくれて、来月には受注になるわ」
「何だ、うまくいってるんじゃないですか! でも、芹沢さんて、一寸訳が解らないけど、頼もしいところがありますよね。しっかりと自分の世界というか、牙城を守っている感じがするけど、妙に人なつっこい所があるような気もするし。職人さんっていう感じだな」
 由理子には、芹沢は協力業者のひとりだった。
「社長、一緒になってくださいよ、芹沢さんと。インテリアとエクステリアと、そうなれば〈工房プランツ〉も鬼に金棒だわ」
 由理子は、いかにも可笑しそうに笑いながら言った。
「何をバカなことを言ってー。人様を商売の道具にするものじゃないわ。内と芹沢さんがお付き合いを始めて、まだ一年にもなっていないのに」
 由理子は舌を出しながら、「三田さんの所でクロスの打合せをしてきます」と言って事務所を出た。
 芹沢は、もう結婚するつもりはない、と言っていた。死別なのか、生き別れなのか、千都子は知らなかった。酒が入っても、芹沢は自分の過去を話さなかった。そして、先の話もしなかった。
 千都子は、そんな芹沢の姿に「ずるいわ」と幾度も声をあげた。その姿を非難するより、芹沢の存在感が千都子の中で上回っていた。
 交通事故で死んだ夫の会社をひき継いで十年が経っていた。小さな会社だったが、千都子には維持して行くだけで精一杯だった。その心労を掻き消すように、数人の男と付き合いをもった。
 千都子が芹沢と付き合いだして一年ほどだった。知人から紹介された山形市内の改装工事の現場で庭の改修をしていた。
 知人は「センスは良いけれど、一寸変わったヒトでね」と付け加えた。千都子は、壁紙の打合せを進ませながら、庭の芹沢の姿を盗み見ていた。
 芹沢は、椿の根元に下草を植え込んでいた。ひと株ひと株時間をかけて選び、 ゆっくりと植え込んでいた。その姿が眼に焼きついて、千都子は翌日知人に連絡先を聞いた。庭の改修も同時に頼まれたからー、と言った。住まいは仙台の郊外らしかった。

「話がしたいの、時間作れる?」
 千都子は、由理子が事務所を出るのを見届けると芹沢に電話を入れた。
「話? 時間? 何かトラブルでも起きたか、それとも気まぐれ?」
「茶化さないで。少し、頭が痛いのだから」
 千都子の声に、芹沢は恐縮したように、すまんと言った。
「貴方も共犯者なんだから」
「穏やかでないね」と言いながら、芹沢は曜日と時間を指定した。
 娘の章子は、日曜日から千都子を避けていた。昨日、千都子の携帯電話に章子からメールが入っていた。
今付き合っている人と会って話がしたい。私だってこの前のことの説明を亮平にしなければならない。その前に私自身が、お母さんが付き合っている人と話をし、説明を受けなければならないと思う。
私の義理父になるのかもしれないのだから。
 千都子は、章子の申し出をもっともだと思った。しかし、どうやって芹沢に話したらいいのかを考えると、自分の決めかねる気持ちだけが前に出てきた。

 三日後、山形駅で千都子の車に乗ると、芹沢は「俺が運転するよ」と言って高速道路に向かった。月山の裾を降りきると、竹林のある寺に着いた。
 毛氈の敷かれた縁側で、千都子は柱に身体をもたせてため息をついた。開け放たれたガラス戸の空間に枝垂桜が見えていた。
―まるで、額縁の中の絵のようだ。
 苦笑しながら、千都子は回りを見渡した。観光客らしき姿は無かった。枝垂桜の奥に小さな滝が見えた。静か過ぎる境内で、その水の音は千都子を苛立たせた。
―確かに、こんな所に五年も居れば、男も女も無くなるかもしれない。芹沢は、それを言いたくて連れてきたのかもしれない。
 芹沢は、千都子の視線の先で写真を撮っていた。池の水面を覆うように咲いている黄色の小さな花だった。
「何を撮っているの?」
「コウホネだ」
「こうほね?」
「ああ。河の骨と書く」
「花の愛らしさに比べて、随分とグロテスクな名前ね」
「ウム。水連の一種で、水の中の茎が骨のようなのでそんな名前がついたらしい。物の名前には、好き嫌いはあるかもしれないが、皆その由来があるものだ。それを甘んじて覚えることが大事なような気がする。今時の住宅地の名前のように、安易に何とかが丘とか付けて気持ちを良くしているのは、役所の連中だけだ」
「何か、役所の人に恨みでもあるような言い方ね。でも、今は仕事を取るのが大変なのよ。お客さんが欲しがっているものがすべてよ。
余計な講釈は邪魔になるだけー」
「確かに貴方の言うとおりだ。だから俺はー」
「だから?」
「いや」と言って、芹沢は広縁を離れ、境内の散策路をゆっくりと歩き始めた。時々止まって木の根元にカメラを向けていた。
 何の話も出来ない。これは、私の問題なのだ。あの人と章子が会ったからといって、私の気持ちが変わるわけでもない。章子が芹沢と話したからといって、私の気持ちが変わるものでもない。
 千都子は、自分自身にすこしうんざりしながら畳の上に身体を投げ出した。章子が送ってきたメールの日付は、明後日だった。



「空木」

2005-11-06 | 神丘 晨、の短篇
   1

 ペンションでの打合せは二時間ほどで終わったが、オーナーがランチを出すから、という誘いにずるずると食堂で時間を潰してしまった。屋根を叩く音で外を見ると、白い粒が地表で跳ねていた。
 オーナーの坂井は、驚きもせずに「今年は冬が早いな」と外を見た。染井千都子は、隣席の芹沢に「近くのホテルに泊まってしまいましょうよ」と小声で言った。
 千都子は、助手席に身体を沈めて小さくため息をついた。フロントガラスの中で、山の稜線が鮮明になってきた。
「そういえば、今日は大事な用事があると言っていなかったか?」
「誰が?」
「誰がって、貴方しかいないだろう。変だな、今日の君は」
 西に傾いた日差しが山の斜面を照らしていた。千都子は、娘の章子にいわれていた言葉を思い出していた。
「今度の日曜日に亮平君が来たいってー。何か、話があるらしいから、午前中は家に居てね」
 具体的には何も話さなかったが、結婚の相談で来るらしいことは千都子にも察しがついた。
「大丈夫よ。土曜日は、蔵王のペンションで改装の打合せがあるけれど、日曜は何も予定がないから。亮平さんにスーツ姿でいらっしゃいって言って置いて」
 千都子がそう言うと、章子は安心したように大きな声で笑っていた。
「食事は?」という芹沢の声に、千都子は頭を振った。ゆっくりと腕時計を見た。二時を過ぎていた。
 芹沢を山形駅まで送り、山形市郊外の家にたどり着いたのは三時半だった。章子の軽自動車が見えた。
 千都子は、少し下を向きながら玄関までの飛び石をなぞった。
 山茶花が咲いているのが眼に入った。今年は随分と早いな、と思いながらドアを開けた。章子が立っていた。
「何時だと思っているのよ!」
「ご免なさい、遅くなっちゃって」
「遅く? お母さん、こういうのは遅いというのじゃなくて、無責任というのよ! 母親のすることなの!」
 逃げるように居間に入る千都子の後姿を、章子の声が追いかけてきた。何を考えているのよ! という声が聞こえた。
「亮平に何て言えばいいのよ。せっかく一張羅のスーツを着て、神妙に待っていたのに、昼を過ぎても帰ってこない。亮平、呆れるように帰ったわ」
「だから、ご免ってー」
「また男の人と居たんでしょ!」
「えっ!」
 千都子は、章子の刺すような言葉に前を向けなかった。
「いつからなの! 米沢の人はとっくに別れたみたいだったけれど」
「私が誰と付き合おうと、何回付き合おうと、貴方には関係ないわ」
 千都子は、ソファーに身体を沈めると、居間の壁に向かって言った。フリードリッヒ展のポスターが貼られていた。以前付き合っていた男と一緒に、東京に見に行ったものだった。小さく描かれた人物が、暮れてゆく空を眺めていた。
「何それ? どういう理屈なの。私は何もお母さんに手枷足枷をつけるつもりで言うのじゃないわ。母親として、せめて大事な約束くらい守ってもよかったんじゃないかって、それだけよ」
 章子は、千都子の前に立ちはだかって言った。ポスターの景色に逃げたかった。
「貴方、大事な用事だなんて一言も言わなかったじゃない」
「そんな! 亮平が改めて来るってことは、結婚の申し込みに決まっているじゃない。お母さんだって、ちゃんとスーツでいらっしゃいって言っていたじゃない。だから、亮平も着慣れないスーツを着て半日も待っていたのに。そんな言い方ってないわ!」
 千都子は、自分の気持ちが落ち込んでゆくのが分かった。無理な話だった。自分の娘に、天地が替わっても通らないような屁理屈を言っていた。
 章子が呆れたように居間のドアを閉めたとき、建物を震わすような音に紛れて千都子は床にへたり込んだ。


秋の路

2005-10-16 | 神丘 晨、の短篇
「いつまで、かうして一緒に歩けるかしら?」
女は、男がカメラのシャッターを切り終はった時に云った。
「今年は紅葉の色が昨年より悪いな、冷夏だったせゐだらうか」
男は、さう云ふとカメラを提げた手を少し振りながら歩き始めた。

「いつまでかー。どちらかが死ぬまでだらう」
「あら、ここで死ぬ訳でもないし、それに私、あと十年もしたらこんな山路歩けなくなるわ」
「いいさ。私が車椅子を押してやるさ」
「無理よ。私も歳をとるけれど、あなたも同じ年月を過ごすのよ」
「さうか、すっかり忘れてゐたな」
「ばかね」

女は、男との、ざれ言のやうな会話を楽しんでゐた。
明日になれば、ばかばかしく思へる会話だった。
毎年、晩秋の山路を男と一時間ほど歩いた。
それだけだったが、女はいつもそこで秋に別れを告げ、その年に別れを告げてきた。

「さっきの話だけれどー」
女は、男の後姿に話しかけた。
「やはり、車椅子を押してでも連れて来てくれますか?」
男は、振り向きもせずに「いいよ」と云った。



枯れ椿

2005-09-15 | 神丘 晨、の短篇

女は、公園に逃げ込むやうに入ると、ベンチに深く身を沈めた。
男とは、いつものやうに「左様なら」とは云はないで別れた。
女が、唯一男に頼んでゐることだった。
それを聞くのは最後の一回でいい、と思ってゐた。
「少女のやうな頼みごとだな」と男は笑って約束した。
逢ふたびに、互いをいとおしむやうな別れは嫌だった。
その気持ちを引きずるだけで、一層の辛さがました。

女が顔を上げると、枯れかけたやうな椿の木が見へた。
中央の幹を見放したやうに、ひこばゑが出てゐた。

この木は枯れ果ててゆくのか。
それとも、再生してゆくのか。
男と別れられない自分が惨めだった。
結論を出せない自分の弱さに嫌気がさした。

でも、一年後にこの公園に来て、答へをださう。
女は、椿の根元を見つめながらさう思った。

逃花

2005-09-06 | 神丘 晨、の短篇
「バラ、お好きなんですか?」
女は、男の後姿に声をかけた。

男は、公園の入場券を二枚求めたにも関はらず、ひとくれの枝も見ずに
園内を通り過ぎやうとしてゐた。
女には、その急ぐ姿が不思議に思へた。

女の声に呼応したやうに立ち止まった男は、煙草に火をつけると
「どうも、好きではないやうです」と云って笑った。
言葉の意味がわからず、再び訊ねやうとした時、男はベンチ横の灰皿で火を消すと
先を急ぐやうに歩き出した。
散策路の先に、三層の天守閣が見へた。

東北の小さな領地に建ってゐたものだった。
建造当時のままに再現されたそれは、真新しい木材の香りに包まれ、
漆喰の壁に初夏の光りが吸ひ込まれてゐた。

無言のままの男に、「さっきのバラの話ー」と云ひかけた時、
「昔、バラが命の次に好きだった人と死に掛けたことがあった。
 それ以来、やはり、バラは不得手でー」と男は云った。

女は、男の話を投げ捨てるやうに眼下に見へるバラ園を覗きみた。