やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

やはり、冷夏、か…

2009-07-30 | やまがた抄


すっかり雨続き、曇天続きの天気になってしまひ、ズッキーニは大きくならず、隣りに植ゑたスイカも発育はいまひとつー。

安売りの店で、確か2ポットで150円くらゐで買ったものですが、ひと坪ほどに広がった葉陰に3個ほどが実をつけてゐました。

大きい方がまだ20センチほどですので、折角ですから、もうすこし大きくなって食べやうと思ひますが、それまでに、カッと暑くなるでせうかー。

気候の様は、十数年前の、米不足に陥った冷夏の様相を帯びてきてゐますがー。

置賜三十三観音/第十番、宮ノ観音

2009-07-27 | 出羽百観音、を訊ねる
置賜方面に出かけて、ふと思ひついて行き当たりばったりに訊ねる。

県内でも有数の神社のすぐ横にあるとはわからず(ここの神社のHPは、大将軍のスケジュールでいつもお世話になってゐた! 山形では、大将軍への畏怖が脈々とあり、県外の方は”それ、何?”と驚く!)

神社の方が有名なせゐか、観音堂も存在するだけといふ感じで、なにかすがるやうなものは漂ってはきませんでした。
が、とても美しい神社の姿に歓心しきりです。

















夏野菜

2009-07-23 | 大岡山界隈


毎日、籠にひと盛りほどの野菜がとれます。

トマトは好物ですので必ず食べますし、ナスもまあ色々に加工して食べられるのですが、キュウリはクワガタではありませんので、さう生でガリガリと食べることもできず、浅漬けくらゐではなかなか消化してゆきません。

それでも、まあ、自産自消で、新鮮で甘味のある野菜を食べてゐます。
今日は、大暑です。

昔、ロリンズでー

2009-07-21 | 1970年代…


ソニー・ロリンズを久しぶりに聴く。

高校の同級生で、ジャズに滅法詳しい友人がゐた。
フォークやロックを聴いてゐた小生がクラシックに出会ったのが二十歳ころ。
ブルノ・ヴァルターによるブラームスの4番だった。
こんなに、厳しい音楽があるのかと! と、二、三枚のウロコが落ちた。

数年して、ジャズを聴き始めた。
オムニバスのLPで、マイルス・デビスの「マイルストーン」だった。そのモード手法に、また、二、三枚のウロコが落ちた。

小生がジャズを少しずつ聴きだしたころ、友人とロリンズかコルトレーンか、との話になった。ダルマだったか、角だったか、ウヰスキーを間において酩酊しながら話してゐた。

くだんの友人は絶対的なロリンズ派で、ロリンズの名盤を何枚も聴くべきだ、と半ば強引に教へてくれた。
小生も、「サキソフォン・コロッサス」や「ウェイ・アウト・ウエスト」は聴いたけれど、実はいまひとつピンとこなかった。
そして、まだ数枚のアルバムきり聴いてゐなかったにも関はらず、「俺は、コルトレーンの方が…」と小さくいふと、友人は烈火の声で「ダメだ! あれは、ジャズではない」と、小生をいさめた。


1960年代半ばに録音されたこのアルバムは、音色も技巧も文句のつけやうもないのだけれど、その音楽は、時間の経過にすっかり劣化してしまってゐる。
小生は、今もコルトレーンを聴き続けてゐるけれど、やはり、ロリンズを聴くことは、ない。

ロンドン稿

2009-07-18 | 音楽を
NHKにて、メンデルスゾーン生誕200年のガラ・コンサートの模様を報じてゐました。

今年の2月、ライプティヒのゲヴァントハウスにての演奏会の様子。
プログラムでは交響曲3番《スコッチ》のロンドン稿での演奏であると説明があり、興味深く聴く。

なんでも、日本人女性の研究者が、ロンドンの博物館だかでそのロンドン稿を見つけ、詳細に調べて発表したものだといふ。

初めて聴く演奏ですが、なるほど、最終版にくらべて荒削りな部分があり、小生はこの版の方が面白いと思った。

演奏は、リッカルド・シャイー/ゲヴァントハウス管弦楽団。
シャイーの演奏には、それほど感動した記憶もありませんが、すっかり巨匠風の風貌になり、ひとときは低迷したこのオーケストラを立て直しした感がありました。

曲の開始、練りあはされたやうな弦の美しさに感動し、また画面からも、かなり多国籍なオーケストラになったことがわかります。









(画像は、NHKの番組から)

騒がしい、です

2009-07-16 | 雑記
メトロポリタンの選挙が終ったら、政治屋さんたちの、節操のない動きがTVを騒がしくしてゐます。

時代劇や小説でみるお家騒動のやうに、見る分には面白く、ハラハラドキドキ、ですが、さてこの国がどこへ行くのかと思ふと、まったく悲しい気持ちになります。

爪に灯りをともす、やうな生活を送ってゐる小生等には、やはり、きたる選挙には、鉄槌の一票を!といふ気持ちにもなります。



と、そんな騒がしい世の中をよそに、ハーブ園では蝶が羽根を休めてゐました。












置賜三十三観音/第十四番置霊観音&番外亀岡文殊観音堂

2009-07-13 | 出羽百観音、を訊ねる
過日、同じ日に訊ねた観音堂。

第十四番置霊観音

大きな山門の姿は見知ってゐましたが、初めて訊ねる。

お寺様は大きなもので、写真を撮ってゐると、墓参の檀家らしき方が
「何処からござった?」と聞く。
「山形市、ですがー」といふと、「ほう、山形から写真撮りにー。ここはそんなに有名な寺かー!」と驚き喜んでをられた。

境内の入口に菩提樹の樹があり、強く甘いにほひが風にながれる。また、沙羅の花も咲き、ひとつの物語が演出されてゐる。

観音堂は整備されたばかりらしく、妙に立派でしたが、雪深い地での数多のひとの願ひを一身に受け入れてきたことを思ひながら、静かに手を合はせる。




















帰路に、横の道を通ったので、亀岡文殊、を訊ねる。
あるところで、番外としてゐたので、その興味もありました。

日本三文殊のひとつで、南東北では学問祈願の場所としてつとに有名です。

小生の子供達が社会人になるまでは、初参りの場所でした。また、受験時の祈願でも訪れたところです。十回以上は来てゐるでせう。

風情、風格のある場所で(参道部分の出店の商売も凄いですがー!)、夏も冬も絵になるところです。

小生は特に、坂の途中にある羅漢像群がすきで、色々なものを持った修行僧の表情豊かな姿に、成る程と感心しきりです。
















クレンペラーのバッハ

2009-07-11 | 音楽を


オットゥ・クレンペラーのバッハの管弦楽曲集はCDへの買ひ替へをすることなく、その後幾度かレコード店で探した時は見つからず、そのうちネットでー、と思ひつつそのままになってゐました。

時間調整にふと立ち寄った山形市の店が改装セールをしてゐて、偶然中古CDで求めました。

何と、心揺さぶる、バッハでせう!!

20年ぶりくらゐに聴きましたが、改めて、感動、です。

巨匠の死の数年前の録音ですが、彼の《マタイ受難曲》やミサ曲と同様、まさしく
”私はこんな演奏にしましたが、何か文句がありますか!?”と云はんばかりの、クレンペラー以外には絶対に無理な演奏です。

昨今の古楽器奏者にはきっと、大時代なー、と一笑され、相手にもされない演奏。
おそらく、バッハも、考へも望みもしなかっただらう演奏(冬はコーヒー店の室内で、夏は野外で演奏されたらしいです)。
3番でのティンパニはまるで遠雷のやうにドロドロと響き、有名なアリアは葬送曲のやうに暗く、2番の出だしはフランス風序曲には程遠くー。

けれど、このバッハは、何とこころに響いてくるのだらう!!

もちろん、きっと、これはすでにバッハではないのかもしれない。
バッハの曲想を、はるかに突き抜けてしまってゐる。

だが、クレンペラーの演奏にある”見かけの美しさは要らない”哲学が、あまたある演奏を撃破する。


そして、ふと、黙阿弥と重なってきました。

明治維新を迎へ、”江戸時代の遺物の歌舞伎などやめてしまへ! これからは演劇だ!”と強引に改革する薩長の新政府の役人たち。
その言葉に、黙阿弥は一切を語らずに現役引退を決め、だんまりの生活に入る。
けれど、世の中の求めに応じてふたたび書いた名作の数々ー。

『天衣紛上野初花』に代表される、時代の底辺で生きる男と女や悪党を、切実な心情と抒情を混ぜ込みながら、”薩長の田舎侍の役人どもよ、お前さん方は知るまいが、どっこい、昔の江戸はよかったぜ”、とばかりに今に脈々と残る傑作を描いた黙阿弥。

そんな、遇うこともなかった二人の芸術家の、意地の美学が、薄暮のやうにクロスしてゆく。

小暑、過ぎて…

2009-07-10 | 大岡山界隈
小暑過ぎて、夏も間近です。

岩の陰で、ヤブコウジの小さな花が咲き、
すっかり殖えたホスタ(このあたりでは、ギンボ!といふ)の花も色付き、
夏の野菜が採れはじめてゐます。
やっと、トマトも採れ頃になりました。
100均で買ったバジルの種も充分に育って、やっと美味しくトマトが食べられます。

小生にも、小生の周りにも、
色々な悩みや問題が尽きないけれど、
さりとて、棹さしてもうまくゆくとも限らず、
まあ、流れに添って、流されてゆきませう、か。














『青年ヒトラー』

2009-07-07 | 本や言葉


『青年ヒトラー』(大澤武男/平凡社新書)といふ本を読みました。

映画『アドルフの画集』もさうでしたが、ヒトラーの、貧しく、暗く、光の見へない、けれど、驚くほどに潔癖な凛とした心情の青年時代は、彼の最後の日々と共に、尽きることのない興味を誘ふ。

今の、世の中を動かしてゐる(と、彼等は思ってゐるのかしらん)浅はかな感じのする政治家さんとは、明らかにその切実たる心情が違ってゐて、彼の起こした未曾有(みぞう)の惨罪は許されないものの、極悪人は極悪人としての吐露されるべき悲しい心情には、やはり、追ってみたいのがある。