やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

フェッリーニの映画…

2007-11-29 | 映画雑感



フェッリーニの初期の三部作を続けて見ました。

『道』『カビリアの夜』『崖』、です。

『道』は、映画館、TV、DVDを含めて数十回目? 
『カビリアの夜』は二十年ぶり?くらゐかしらん。『崖』は初めてみました。

なんといっても、ジュリエッタ・マッシーナのファンで、あとは、晩年の『ジンジャーとフレッド』が好きです。

『道』は、とくと有名な名作ですので、改めていふほどのことはありませんが、
ラスト・シーンに流れる曲が、粗暴なだけだったザンパノへの、聖母のやうなジェルソミーナからの天の声(悔い改めなさい、と云ってゐるやうなー)に聞こえてきます。
幾度見ても、マッシーナの天才的演技に感心し、フェッリーニと彼女が作り出した世界に胸をうたれます。
フェッリーニの作品には、いつも、教会の祭事のシーンがながれますが、きっと、監督は、ある意味、あの儀礼的な信仰を信じてゐなかったのかもしれません。

『崖』は、チンケな詐欺師の末路を扱った映画で、ジュリエッタ・マッシーナがさほど出演してゐなかったので少し残念でしたが、青年時代のフェッリーニの実話に基づいた話といふことで面白いものでした。
こちらのラストシーンも、『道』のラストの裏焼きのやうな、仲間割れにあって山中に棄てられた中年詐欺師の、無残な姿が、なかなか印象的でした。

『カビリアの夜』は、なんといっても、ラスト・シーン、です。
絶望的な状況の果ての、ジュリエッタ・マッシーナの笑顔!


フェッリーニ作品を解説してゐるサイトがありました。こちらです。

初雪、でした

2007-11-19 | やまがた抄


所用で、山形市内のホテルに泊まり、なるほど夜のうちに雪は舞ってゐましたが、
朝には、すっかりの雪景色でした。

いつも、11月の中旬ころには、顔見世興行のやうにさらっとは降るのですが、
結構、しっかりとした5センチほどの積雪になりました。
幸ひにも、天気予報を全面的に信用して、昨日のうちにタイヤの交換は済ませてをいたのですが(それでも、4台はキツイ、です)ー。

一昨年の豪雪、昨年の無雪、ときて、
今年は、雪の多い、冷え込んだ冬になると聞いてゐます。

さすがの、地球の脳波も、少しづつ狂ひだしてゐるのかもしれません。

小生等に出来ることは、慎ましい生活を続けることくらゐ、かしらん。


モーツァルトの…

2007-11-18 | 雑記
偶然に、モーツァルトに関しての本を二冊読んでゐました。

ひとつは、『モーツァルトの手紙』(高橋英郎著/小学館)。




膨大に残るモーツァルトの手紙は、全集にもなってゐて、確か、4、5巻にも及ぶものだったやうな気がしますが、この本はそのダイジェスト的なものであり(それでも、500頁近い)、自他共に認めるモーツァルト愛好家の高橋氏が愛情と尊敬をこめて手紙と共にモーツァルトの生涯をたどってゐる。

モーツァルトの破天荒な手紙はとても面白い。
有名な話でもありますが、スカトロジー的な会話や手紙は、あの映画『アマデウス』でも描かれてゐるごとくです。
愛する妻への手紙での、男性性器や女性性器の濫発。
ひとり演奏旅行のはざ間、(おそらく)オナニーをしながら書いてゐるらしい手紙。

けれど、まう、その頃、モーツァルトの音楽は、ギャラントなだけの貴族向けの音楽を突き抜けて、数百年の時間に耐へる深遠で透明な音楽に向ってゐました。
著者の高橋氏も、そのあたりを力説してゐます。
ある意味、そんなアンビヴァレントなモーツァルトの姿を愛すべきだとー。



まう一冊は『コンスタンツェ・モーツァルトの物語』(レナーデ・ヴェルシュ著/小岡礼子訳/アルファベータ刊)。




いふまでもなく、アマデウス・モーツァルトの奥さんの話です。
モーツァルトの死後、50年の歳月を生き延び、80歳で亡くなった彼女が、その最晩年の一日、昔を思ひ返すといふ設定の小説です。

悪妻として有名なコンスタンツェですが、以前読んだ本でも感心したのですが、そればかりではなく、まあ、功罪なかばといふところが真実のやうです。
そして、小生も以前から調べたりしてゐるのですが、モーツァルトの遺された二人の息子にとても興味があります。
次男のクサヴァーは、父親と同じアマデウスといふミドルネームに押しつぶされたやうな生涯をおくり、小生がとても関心をもってゐるカールは、それなりの音楽的才能を自らの意思で閉じ、ひとりイタリアのミラノで役人としての生涯をひっそりと終える。華やかな時もあったかもしれませんが、カールは残りの生涯をミラノの町でおくり、パパ・モーツァルトの遺品だったクラヴィーアを大切にしてゐたといふ。


『原子心母』

2007-11-11 | 1970年代…


ピンク・フロイド『原子心母』

ずゐぶんと久しぶりに聴く。
三十四、五年ぶりくらゐかしらん。

高校生の時は、いはゆるフォークとロックばかりを聴いてゐて、
いち時期吹き荒れてゐた学園紛争の中で、
小生等も、授業のボイコットや色々な要求を学校側に出し、
けれど、それらの騒ぎもあとかたもなく終焉してしまふと、
週末には、ひとりでデモに出かけてゆきました。
(いはゆる、70年安保の、騒がしい時代でした)

3人のグループを作ってゐたときもありましたが、小生はギターが下手で、
仕方なく(涙…)ヴォーカルの担当だった気もします。

牛の尻と乳が印象的なジャケットの作品。

今聴いても、その組曲は素晴しい、と思ふ。
コーラスが、如何にも時代がかった雰囲気を除けば、綿密に構成された曲想や音作りが少しも色あせない。
確か、悪友仲間にやたらと詳しいのがゐて、彼の影響があったのかもしれない。

三年後くらゐに、ブルノ・ヴァルターのブラームスの4番に出会ったやうな気がする。



アダージオ

2007-11-04 | 音楽を


小澤征爾指揮/ボストン交響楽団によるマーラーの全集では、第九番の演奏が二枚のディスクにまたがってゐます。
第一楽章から第三楽章までが一枚に、そして、二枚目に終楽章のアダージオが収められ、残りの部分に、未完に終った第十交響曲の最初の楽章(アンダンテ-アダージオ)が収められてゐます。

1910年4月、50歳のマーラーは、ニューヨークで第九番を完成させた足でヨーロッパへ戻り、その年の晩秋には第十番にとりかかってゐます。

マーラーの第九番の演奏では、ブルノ・ヴァルターやバーンスタインやバルビローリらの演奏が小生も好きですが、なかでも、あの、肩で息をしながら、声も絶え絶えに終る終楽章のアダージオが聴き処でもあります。
まさに、グスタフ・マーラーの、告別の響きのやうでもあります。

けれど、小澤征爾のディスクのやうに続けて聴いてみると、否、そんなことはなく、確かにこの時期、マーラーはヨーロッパとアメリカとを往復する演奏活動、そして、最愛の妻アルマとの確執に心労し、健康の悪化もあったやうですが、スケッチに終った残りの楽章(第二楽章スケルツォ、第三楽章煉獄または地獄、第四楽章スケルツォ、終楽章フィナーレ)の構想をみると、文字通り最期の作品になっただらうそれにふさはしく、きっと私小説的な壮大な作品になっただらうことが予測されます。

弟子や研究者たちがスケッチを補足し、完成版をつくり、現在ではその演奏もあまた出てゐますが、小生は、マーラーの色々な演奏を聴きだして30年ほどですが、一度も聴きたいと思ったことはありませんでした。
それでも、さうか、マーラーはこの先も確実に生きながらへやうとしてゐたのか、と改めて思ふと、この晩秋に、その仮の完成版も聴いてみやうと思ってゐます。