やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

新山観音/置賜三十三観音第十八番

2006-08-31 | 出羽百観音、を訊ねる


県南部のお客様へ伺ふ前に、昼食場所がてら立ち寄る。
「鶴の恩返し」の民話話が伝はる里です。


狭い道路の隅に車を置いて、階段を上る。







立派なお寺様ですが、観音堂はここにはなく、
境内を一度はずれ、細い道を探す。








観音堂へ導く、九十九折りの細い参道。








上りきると、杉木立の中に、鳥居と山門が見へる。










足の病にご利益があるといふことで、
ワラジが沢山奉納されてをり、



巨大なワラジも、望みの大きさを表すやうに奉納されてゐた。

       

山門には一対の赤仁王がにらみ、
その横には、数知れぬ小さな木仏が段を飾る。



この観音堂は、小高い頂の上にあり、
200百年以上の前、景観の素晴しさに地元の人が観音堂を創ったといふ説ですが、
真意の程は別にして、
鳥居付近からは、置賜盆地の豊かな景色が望めました。













      


ぶり返したやうな残暑の中、
平日で訪れる人もなく、
望める置賜盆地の一角で最近死んだ友人を思ひながら、
九十九折りの石段を下る。


















茜雲

2006-08-30 | やまがた抄






茜雲の下に、月がでてゐました。
一週間ほど前の景色です。


最近、とても嫌な事件や事故が続いてゐます。
ひとつの事件や事故の報道が終息しないうちに、重なるやうに起こってゐます。

経済的な要因や、モラルや、心理的な要因が重なってゐるのでせうけれど、
小生も含めて、今、かうして生きてゐる人間の、自然の摂理との不具合さが
色々な面で摩擦を起こしてゐるやうな気がします。



秋、漂ふ。

2006-08-28 | 大岡山界隈


蝉の鳴声にも、すっかり元気がなくなってきて、
庭先に、ホトトギスの花が小さく咲いてゐました。

小屋の横のアケビの棚にも、大きくなった実が下がってゐます。






      


秋、始まりです。




                             



生き延びる、といふことー。

2006-08-27 | 大岡山界隈


お盆までの猛暑がウソのやうに、数日前からすっかり涼しくなった。

春先からの、家人の「伐ってしまへばー」の言葉に必死に抵抗してゐましたが、
この夏の雨と暑さで、数本の椿がやはり枯れてしまひ、諦めざるを得ません。

この椿は、お客様から実生で育った10センチほどの株をもらひ、
藪椿に似た、品のよい花をつけて、実生だから丈夫だらうと思ってゐましたが、
環境の変化に、生きる力をなくしてしまったやうです。

       


この椿は、白玉椿ですが、枯れはしてないものの、
貝殻病にやられ、ひと枝だけで命をつないでゐる状態です。
もともと、いまひとつ元気のない樹でした。

まさに、満身創痍の姿ですが、
それでも、途中の幹から新たな葉をつけ、
まるで、
「大丈夫、生きてゆけるから!」
と声高に叫んでゐるやうでした。

       







唐松観音/最上三十三観音 第五番

2006-08-25 | 出羽百観音、を訊ねる


予定が変更になり、帰りがけに久しぶりのお客さんの処へ立ち寄るも留守で、
丁度運転席から見へた、近くにある唐松観音を訊ねてきました。

山形市から仙台へ向かふ道沿ひ、馬見ヶ崎川の岸に建ってゐます。
何故こんなところに? と思ふ場所ですが、
観音のいはれもさることながら、戦国時代、仙台藩をかなり気にしてゐたといふ
当時の山形城主の警戒感から、一種見張りの出城的な役目もあったやうです。









駐車場に車を置き、観音堂へは真直ぐに伸びる橋を渡る。












切り立った岩の中腹に、地蔵が祀られてゐます。





              






仰ぎみると、舞台つくりの観音堂が天にある。








三十年ほど前に再建されたといふ観音堂。












修学旅行の時、奈良で見た寺の回廊を思ひだす風情です。

             


登りきると、展望がひらけ、一寸した休憩所のやうになってゐる。
灰皿があるといふことは、その景色を楽しんで…、といふことでせう。




驚くことに、堂内はまったくの”無料開放状態”で、
”安全都市”山形の広告塔のやうです。




格天井の絵は、再建当時、山形の著名な画家たちによって寄進されたものださうです。
色鮮やかな一枚一枚が、川をわたってくる風に触れてゐる。




いつも、こんな状態で開放されてゐるでせうが、
世知辛い昨今の世情を考へると、のどかな風景です。




帰りの橋の上からは、すっかり秋らしくなった空が望めました。
あと半月もすると、馬見ヶ崎の川岸は、芋煮会をする人たちで賑はってきます。












マッケラス卿の25番、29番

2006-08-23 | 音楽を






サー・チャールズ・マッケラス/プラハ室内管弦楽団による一連の交響曲録音のひとつ。
小生がこの組み合はせで聴いた初めてのモーツァルトは「ハフナー・セレナーデ」。
とても新鮮な演奏で、その後、彼らの交響曲の録音を続けて聴きました。


20年年ほど前の録音ですが、時代を先取りした演奏でした。
楽器はモダンですが、ピリオド奏法を強く意識した演奏方法で、
勿論、楽器配列はヴァイオリンを左右に配し、指揮者の近くにハープシコードを置き、
可能な限りの繰り返しを行ひ、強弱のはっきりとした演奏です。
やがて、この形で、レヴァイン/ヴィーン・フィルの全集が生まれてゆきますが、
それはともかく、当時、カ○ヤンのやうな舐めるやうなモーツァルトの演奏に対して、
このディスクの意味はとても大きかった。

モーツァルトが17、18歳頃の、何の成果もないまま虚しくヴィーンからザルツブルクへ戻った頃に書かれた作品ですが、そして、ヴィーン滞在中に親しい知人の死にあったこともあるのか、
25番は劇的なものにあふれ、28番や29番は優雅な優しさにあふれてゐる。

マリア・テレジアに謁見し、あたたかく迎へはされたものの、その彼女が「モーツァルト一家が、世界中を乞食のやうに見苦しく歩いてゐる」と息子に手紙を送り、彼らを雇ったりしないやうにと釘をうってゐた。

マッケラス卿は、勿論そんな劇的な要素は一切盛り込まず、純粋な音としてこの演奏をしてゐる。
けれど、上記のやうな意識的な演奏スタイルが、見事にモーツァルト演奏の壁に風穴を開けてゐる。
プラハ室内管の弦や管楽器の音色が素晴しく、雑なところがない。

それにしても、アメリカ生まれのオーストラリア人のマッケラス卿が、
こんなに素敵なモーツァルトを創ってしまふのだから、感心しきりです。

 

(写真は、CDより)


 


生き続ける、といふことー。

2006-08-21 | やまがた抄


暑さを避けて、郊外のバイパスの横に車を停めてひと休みする。

新しく切れた道路の壁面には、
必死の形相のシダが、風に吹かれてゐる。





住処を追はれたのか、
格好の場所を見つけたのか、
擁壁のスリット部分に、保護色になったアマガエル(?)が沢山住み着いてゐる。











みな、暑さをコンクリートの蔭で冷やし、
そして、僧のやうに、一点を見つめてゐた。



夏のキャンパスでー。

2006-08-20 | やまがた抄


うだるやうな夏の一日。

山形大学のキャンパスの中で、用事をしてゐました。

やっと全てが終はって、人気の少ない構内からは、
中層の建物をシルエットにして、けれど、美しい夕空ー。

知人と立ち話しをしながら、西の空を携帯のカメラでー。

暑かった夏も、間もなく終ります。
















夏に、友を送る。

2006-08-16 | やまがた抄








葬式でした。

昨日の朝、いつものやうに新聞の訃報欄に目をやると、友人と同姓同名の名がありました。
年も確かに同じ位。
うる覚への住所も、同じやうな場所。
早々に他の友人に連絡をとり確認すると、「さうだ」と言葉少なく云ふ。

55歳での死でした。
癌、だったといふ。

小生の、創作と読書のサークルのひとりでした。

皆で埴谷 雄高の「死霊」を未完成の部分まですべて読み、
その時には、いつも詳細な資料を作ってくる友人でした。

理論家の彼でしたが、
「直木賞をとったら、役所なんか辞める!」と云ってゐた。

公私の多忙さで、小生が勝手ながら暫らく会への参加を休んでゐた間、
彼は入退院を繰り返し、お盆のこの時期、病に果てたといふ。


式場へゆく道すがら、置賜盆地を望む小さな峠から、ひとつ漂ふ雲が見へました。

皆に愛された彼でしたが、
それでも、やはり、55歳での無念の死には、悔む言葉さへもでてきません。

合掌。