やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

年末に、「マタイ」をー。

2005-12-28 | やまがた抄

いつの頃からか、年末になると、第九、ではなく、バッハの「マタイ受難曲」が聴きたくなります。

そもそも、初めて「マタイ」をまともに聴いたのは、20年ほど前の、確かに、年末でした。その前に、コンサートでも聴いた覚えはありますが、当時は、長大で半分寝てゐたやうな記憶もあります。

送別会だったか、忘年会だったか、そのあたりははっきりと覚えてゐませんが、酔ひつぶれて家に戻った時でした。ふと、FMをかけると、「マタイ受難曲」が始まってゐました。
引きずるやうな一曲目の合唱が、酔った小生の耳にすっと入ってきました。
手元にレコードも、対訳もなく、でも「この音楽は何なのだ!」と醒める酔ひにまかせて終章まで聴き終へました。
時間は深夜をはるかに過ぎ,大団円の「涙ながらに跪き」の合唱が終はっても、物音ひとつしないラジオから、やがて、数分の後にぽつりぽつりと拍手が起こり、うめくやうな声が拍手に混ざってゐました。

それ以来、この3時間の音楽は、小生を見放すことなく、ディスクは増える一方です。
年末に「マタイ」を聴くこと。
小生にとっては、生きてきてしまったその一年を悔やみ、生きてゆかなければならない一年に覚悟する、そんな意味を持ちます。

リヒターの1958年の名盤は少し重く、コルボズは冬には一寸…、で、ヨッフムがコンセルトヘボウと録音した1965年の盤を聴いてゐます。
穏やかで、合唱も素敵で、肩の力を幾らか抜いて聴ける録音です。


埋もれ、さう

2005-12-27 | 大岡山界隈

思ひもよらない、師走の大雪に、
既に、庭のオープンスペースは、すっかり雪の溜まり場に成り果てました。

年内の雪だ、大したこともないだらうと(知人、友人も、慣例的にさう思ってゐたやうです)、高をくくってゐましたが、すっかり、雪まみれの毎日です。

植木たちも、簡単な根巻きのまま、庭に放置され、今や、すっかり雪の下に埋もれてゐます。
今は、手が回らず、彼ら(彼女ら)達の、生命力にすがるしかありません。
少なくとも、凡庸な小生よりは強いはず、と確信してゐますがー。





貫ぬく 光

2005-12-24 | やまがた抄

※ 小生の生まれ故郷の詩人の作品を再読します。



貫ぬく 光


はじめに ひかりがありました
ひかりは 哀しかったのです

ひかりは
ありと あらゆるものを
つらぬいて ながれました
あらゆるものに 息を あたへました
にんげんのこころも
ひかりのなかに うまれました
いつまでも いつまでも
かなしかれと 祝福れながら





※ 「定本 八木重吉詩集」(弥生書房)より
※ 写真は、酒田の、四季桜です。  
  



遊ぶこころ

2005-12-23 | やまがた抄

お客様の所で、建具の調整をしてゐました。
仕事自体は建具屋さんに任せて、小生は他の建具のチェックをしてゐましたが、
障子の桟の模様に目がとまりました。








雪の晴れ間から射した日差しが障子にあたり、その中を本当に雀が飛んでゐるやうな感じで、携帯のカメラで収めてみました。

大きなお宅ですが、当主の遊ぶこころを、遊びごころを持った建具屋さんが作ったものでせう。
最近の住まひは、勿論コストの問題も大きいのですが、こんな”遊ぶこころ”を持たない、持ち合はせてゐないものが多いのに閉口します。

やはり、遊びごころ、などといふものは、一朝一夕に生まれるものでもなく、
ある意味、達人的な境地に達しないとさう簡単に出現するものでもなく、
それ以前に、遊ぶこころ自体を持ち合はせてゐないと、それを具現する人にも伝はらない。
そんな、素朴な事実に気づかされて仕事を終へてきました。



イルミネイション

2005-12-22 | やまがた抄




知人宅へ伺った際、村山市では、個人の家のイルミネイションを推奨してゐるとのことで、ではと、ひと回り市街地を見に行きましたが、最近起きた、当の村山市長の不祥事のせゐでせうか、ずゐぶんと数が少なくなってゐたやうです。

せっかくだからと、バラで有名な東沢公園へ行ってみましたら、すっかり雪に埋もれた公園にひっそりとイルミネイションが点灯してゐました。







TDLや、仙台の「光りのページェント」のやうな規模や華やかさは微塵もありませんでしたが、見る人もなく、山を背にして、埋もれた雪のなかでか細く光る人工の明かりは、妙な暖かさを持ってゐたやうな気がして、好ましいほどでした。


「パウラ・モーダーゾーン=ベッカー」展、を観る

2005-12-20 | 絵をみる

慌しい最中でしたが、無理やり時間をつくって、パウラ・モーダーゾーン=ベッカーといふ、まったく未知の作家の展覧会を見に行きました。
仙台の宮城県立美術館で、終了直前でした。
日本で最初の本格的な回顧展です。







ドイツ表現主義の先駆け的な存在の作家でした。
ふと思ひ返すと、小生は、ドイツ表現主義(ブリュッケの作家を含め)の作品を観るのが多かったやうに思ひます。

ベックマン、シーレ、ココシュカ、キルヒナー、コルヴィッツ、等々。
彼らの作品には、勿論時代的な背景も大きいのでせうが、切羽詰ったものを観る者に見せつけます。

今回の、パウラ・モーダーゾーン=ベッカーも、1900年代の初めに30歳で亡くなったとのことですから、作品の一部でしかわかりませんが、特に死ぬ間際のパリ時代での作品は、それまでの初期のコーナーの雰囲気とは一変し、一種、凄みのある画風になってきてゐました。
こちらを見据ゑた自画像や、夫の眠る顔、静謐さの漂ふ静物画。
確かに、セザンヌの影響がありながらも、独特の存在感を見せつけてゐたやうな気がします。



宮城県立美術館は、こんな建物。



やたらに大きく、作品を観づらく、余り好きな美術館ではありませんが、
館内にある、「佐藤忠良記念館」と、小さなカウンターだけの珈琲ラウンジはお気に入り、です。






雪姿1

2005-12-19 | やまがた抄

師走としては、記録的な寒さと雪で、
各地で障害や混乱が起こってゐます。
悲しいかな、自然の気まぐれに、人間は打つ手を持ちません。
特に雪は、その存在、現象を甘受しなければ、
雪国では生きてゆけません。

それに、
とても不思議に思ふのは、TVのニュースの作り方もさうですが、
東京や大坂といった首都圏、大都市には雪が降らないものだ、
といふ信じられないやうな視点があることです。
街も、建物も、交通機関も、そして、生活してゐる人達もー。

決してそんな馬鹿なことはなく、
小生が子供の頃は、一尺(30センチ弱)程は降ったもので、
勿論、温暖化の影響は大なのでせうが、
どふして、人は死ぬもの、事故は起こるもの、雪は降るもの、といふ
単純な視点にならないのか、とぼやきつつー。
(⌒_⌒; タラタラ




師走の雪

2005-12-18 | 大岡山界隈



大荒れの週末を迎へて、日本海側ほどではないにせよ、
山形市内でも本格的な積雪になってゐます。

まだまだ落ち着かない家の整理に追はれて、
庭木の雪囲ひも手付かずのままです。

色々な枝先に、思ふがままに雪が降り積もってゐます。





孤独な鯉達

2005-12-17 | 大岡山界隈

引越した家の庭先に、近くの堰から川水が流れてゐます。
地元の人に聞いたら、高瀬集落あたりからださうで、
山形市内でも、一、二を争ふ水のきれいな処からです。
(昨年から今年にかけて、その高瀬の集落で工事をさせてもらひましたが、
 その時も、水のきれいさに驚いてゐたものです)

庭先の水の溜り場で、鯉が数匹”先住”してゐました。





一年ほど、放っておかれたとのことで、
すっかり、人間不信になってゐるやうで、中々姿も見せず、全ての鯉を確認できたわけもありません。
鯉を飼ったこともありませんので、まずは、コミュニケーションを図るべくパン屑などを投げるのですが、下からのぞくばかりで、出てもきません。



雪でも解けたら、遅ればせの挨拶を、と思ってゐますがー。


黄昏

2005-12-16 | 神丘 晨、の短篇
 なんということになってしまったのかー。

 ヨハネス・ブラームスは、仕事部屋の小さな窓を見ながら、ため息を飲み込んだ。
 新たな若葉を付けたばかりの木々の間から、小さな沼が見えた。水面は五月の光を散らし、幾筋かの光が窓のガラスに当たっていた。
 遅い冬が終わったのは、ひと月ほど前だった。
 保養地バート・イシュルの高台にある別荘の中で、ブラームスは身じろぎもしないで外をみていた。神が現在の自分に許しているのはそのことだけだ、というように椅子に深く身体を預けていた。
「だんなさま、食事は如何されますか?」
 小さなノックの後に、メイドのエリザベートの声が続いた。部屋の中のブラームスにやっと聞こえるほどの、か細い声だった。
「有難う。しかし、今は何も欲しくはない。暫くしたら、薄めのコーヒーをもって来てはくれないだろうか。今は、それだけでいい」
 エリザベートは気を使って、物音ひとつ立てないで部屋の前を去った。

 長旅の疲れが身体の中まで溜まっていた。
 六十歳を過ぎた身体には、四十時間近い汽車の旅は確かに応えた。いちどウィーンに戻ったが、そのまま逃げるように別荘に潜り込んだ。ボンから戻って一週間が過ぎたが、身体の節々の痛みは増すばかりだった。
 好きなこの地で一ヶ月もゆっくりすれば痛みは和らぐかもしれない。しかし、この歳になって空いてしまった気持ちの隙間は埋めようも無い気がした。このまま、歳を重ねてゆくのは、耐え難い苦痛以外の何ものでもなかった。

 結局、クララの葬儀に立ち会うことは出来なかった。
 訃報の連絡がウィーンの住所に送られてしまったのは仕方のないことだった。
しかし、なんとした事だろう。
 よりによって、私は何故あの時期にこのイシュルにきて仕事などをしていたのだろう。別に急がれていたコラールでもなかった。書けなければそれで済んだ仕事だった。もう、ほとんどの仕事はなし終えてしまったはずなのにー。

 六十三歳になったブラームスの元へ、クララから祝いの手紙が来たのは三週間前だった。
 たった、三週間前だ!
 三週間前には、クララから私の元へ、祝いの手紙が届いていたのだ!
 それがどうしたことだ。今は、もうクララはこの世にはいなくなってしまった!
 ブラームスは、羽根ペンを一度持ち、無造作に目の前の窓に向かって投げつけた。

 クララからの手紙は、ブラームスの誕生日の二日後に届いた。祝いに駆けつけた友人たちは、まだ幾人かはブラームスの元にいた。
 音楽評論家のマックス・カルベックは、誕生日の祝賀に真っ先にブラームスの家を訪れ、クララの手紙が届いた時もまるで大事な花束を持つようにブラームスの元へ届けた。
「ヨハネス! 最愛のクララからの手紙だ! 彼女は病の床にありながら、ご覧よ、こうしてしっかりと貴方の誕生日を忘れずに手紙を送ってきた! クララに乾杯! クララに祝福を!」
 すこしおどけるようにしながら、カルベックは封筒をブラームスに渡した。カルベックの姿を可笑しそうに見ながら、ブラームスはその手紙を受け取った。小さな老眼鏡を鼻に乗せると、ゆっくりと封を切った。

―心からのお祝いを
 心から愛する貴方のクララ・シューマンより。
 もうこれ以上、うまく書けません。
 でも、あるいは間もなく、貴方の…

 ブラームスは、覗きこむようにして待っているカルベックに手紙を渡した。目を凝らすようにして手紙を読み始めたが、暫くすると小さくため息をついた。
「ヨハネス? 貴方は、この手紙が読めたのかい? 私にはとても読めない。最初の数行は何とか判るが、その後はまるでー」
 そう言って、手紙はブラームスの元へ戻された。
 確かに手紙の文字は幼子の悪戯書きのように曲がり、そして時折鉛筆の文字はかすれていた。
 ブラームスは、すこし口元に笑みを浮かべると、ゆっくりとロッキングチェアを動かした。

 私には、みんな判ったよ、クララ。
 貴方の字は四十年間も慣れ親しんでいるのだ。例え一本の線で書かれていたとしても、例えひとつの円で書かれていたとしても、すべてそれは私への言葉なのだ。
しかし、とブラームスはその手紙の文字を見ながら、老いたクララの姿を思いやった。確かに、その文字の弱さには、かつての勝気なクララの姿は微塵もなかった。数年前に、ローベルトの交響曲を編曲し、「そんな勝手なことは許されません!」とブラームスに激しく抗議したクララの姿はなかった。
 
 ブラームスが息せき切ってフランクフルトに着いたとき、クララの葬儀は既に終わり、その亡骸は夫ローベルトに寄り添うべくボンに運ばれた後だった。
 ブラームスは再び駅舎に向かい、太った身体を硬い座席に沈めた。車窓からは、冬が終わったばかりの南ドイツの景色が流れてゆくだけだった。
 なんということだ。
 私は、クララの亡骸にひと目も逢えないままで、残りの日々を過ごさなければならないのか。
 あなたに対して、それほどの罪を犯してしまっていたのか。
 
 ボンにたどり着いたブラームスは、迎えの知人の手を払うように「クララの所へー、クララの棺へ」と、うなされるように言った。
いつもは太った身体をいたわるようにゆっくりと会話をするブラームスが、まるでうわ言のようにクララの名前を呼び続けていた。
 ブラームスの姿をいち早く見つけたのは、クララの孫のフェルディナントだった。
「ヨハネス様! ヨハネス様! こちらでございます!」
 ブラームスの手を取ったフェルディナントは、既に涙が止まらなかった。
 孫のフェルディナントに五月七日がブラームスの誕生日であることを言われて、クララは脳卒中の病床にもかかわらず、「それは大変!」と鉛筆と紙を持ってこさせた。フェルディナントは、そのときのクララの顔色に少し赤みがさしたのをはっきりと覚えています、とブラームスの手を取りながら話した。
 ブラームスは、「有難う。クララの分も含めて、改めてお礼を言います」と言った。差し出した両手の甲に大粒の涙が落ちた。

 小さな酒場の景色が浮かんできた。薄汚れた酒場だった。
低い天井に木製の古い梁がむき出しになり、壁の漆喰はすでにその白さを失っていた。場所は解からないが、間違いなくハンブルクの酒場だ。
 私を生み、しかし決して私を受け入れることのなかったハンブルクの町!
父親の姿が見えた。十人ほどの楽団の隅で、下を見ながらコントラバスを弾いていた。ヨハネスの姿も見えた。化粧の濃い娼婦達に囲まれながら、小さな身体をピアノに向けていた。遠慮のない笑い声が酒場の中に充満していた。
「ヨハネス坊や! そんなしみったれた曲じゃなくて、もっと愉快になる曲を弾きなよ!」
 ブラームスを可愛がったジプシーの女たちは、いつもそう言いながら豊かな胸をブラームスの顔に押し当てていた。
 喧騒と、酒の匂いが充満していた。
 貧しい日々だった。本当に貧しい生活だった。
しかし、貧しいことは、決して苦痛ではなかった。
少し傾いた木造のアパート。低い天井の下で暮らした日々は、先も見えない日々だったが、今の私のように、こんなにも心が痛みはしなかった。

 結局、私のせいなのだ。
 クララを失ってしまったのは、間違いなく私のせいなのだ。
 考えれば、私はこの歳になるまで、自分の妻と、その妻と暮らせるような家も持たなかった。持てる時間も、財力も余るほどに持ち合わせていたのにー。
 クララを迎え入れる事だって、きっと出来たはずだ。如何にクララが喪に服すと言っても、ローベルトが亡くなってもう幾十年もたっていたのだ。
 結局、臆病なだけだったのか。
 ローベルトや、クララのお陰は勿論あったが、今の私は、私の力でここまで来たのだ。確かに、敬愛するモーツァルトのような軽やかで、けれどとてつもなく深みのある音楽は造られなかったけれど、しかし、私を、私の音楽を支持してくれる若い人たちも幾人もいる。
 三週間前にも、カルベックが怒ったように言っていた。
「ヨハネス、貴方は余りにも自分を責めすぎる。確かに、貴方の完璧な性格はわかる。それがあったからこそ、貴方の作品は、全てが傑作の誉れが高いものばかりだ。
しかし、考えてもみてください。貴方が出版を許した弦楽四重奏曲は何曲? たったの三曲だ。しかし、破棄されたものはおそらく二十曲以上はあったのだろう。私が見る事を許された幾つかの曲ですら、既にあのベートーヴェンを上回っていたかもしれないというのにー。それを貴方は、まるで暖炉にマキを入れるように、いとも簡単に破棄してしまった。
 既にあの厭わしいワーグナーも去り、貴方は名実共にこの世で随一の作曲家になっているのです。
 貴方の作り出す一音一音が、やがては人類の財産になるのです。どうか、埋もれている作品があれば、ぜひ見せてください」
「有難う、カルベック君。
しかし、今さらそれを言ったところで、私の性格が変わるものでも、貴方の言われた楽譜が灰の中から蘇って来るものでもない。言っておくが、私はいたずらに楽譜を処分した訳ではない。作品の数なんてものは私には意味の無いことだ。僅かでも破綻のある作品を自分のものだといって、世に出すのは死ぬより辛いことなのだよ」

 窓から差し込む光が、天井に幾筋もの帯を作っていた。
 ブラームスは、クララの棺の埋葬を思い浮かべていた。フェルディナントに手を添えられてたどり着いた墓地では、既に埋葬が始まっていた。
「クララ! 待っておくれ。 クララ!」
 泣く様な声に、参列の人たちが一斉に振り向いた。ざわめきが止まらなかった。
 その間をかき分けて、ブラームスは、転がるように棺の元へたどり着くと、ひとかけらの土を棺の上に乗せた。

 これだけか!
 たったこれだけか!
 四十年間も貴方を慕いながら、最後に私に許されたのは、貴方への悔みも伝えられず、このひとかけらの土だけか!

 ブラームス先生ですよね、と確認しあう声が参列の夫人たちから幾度も聞こえていた。