やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

ガーディナーのマタイ受難曲

2006-10-31 | 音楽を
        
          


久しぶりに、エリオット・ガーディナーの「マタイ受難曲」を聴く。
ひと息に聴く時間がないので、全曲を聴くには、数晩にわたりますがー。

あるいは、聴きなほしたのは3、4年ぶりかもしれません。
その過ぎた時間のせゐでせうか、以前とはずゐぶんと違った印象で、
前は、何か颯爽としてゐるだけだなあ、との弱い印象でしたが、
もちろん、早いテンポでこのドラマを描いてはゐるものの、
各所にちりばめられた周到な検証のためか、実に生き生きとしたものに聴けました。

今さらながら、ソリストを9人配しての布陣が(通常ですと、4、5人かしらん)、役割に応じての微妙な変化とその効果が見事にでてゐることに驚きました。

特に、「血を流せ! わが心よ」での、やはらかな声のソプラノには(出番が少ないのですがー)改めて感謝するほどです。

福音史家の、割とドラマティックに進行するがゆゑに、テノールの高音を多用するディスクやライブが多いのですが、この盤ではそれを慎重にいましめてゐて、
中音域の温かみのあるエヴァンゲリストが物語を進ませてゐます。

イエスの声も、妙に大家然としたところがなく、目線の低いイエスの姿で出てきます。

終曲の演奏は、正直、まう少しドラマティックな演奏が好きですが(この長い受難曲を聴き終へた最後のしるしとしてー)、
1部の終曲「人よ、汝の大いなる罪に泣け」は、それまでの曲の作り方が巧を奏してゐるのか、とても安らかな演奏で、
師イエスを置いて逃げ去った弟子達の、悔恨と決意の歌になってゐるやうに聴きました。



ここ一年ほど、公私ともに辛い話が多く、
何故か、マタイを聴くことが増へてゐます。

この、270年以上も前にドイツで生まれた音楽が、
今をもってしても、東洋の小さな国の、
それも出羽の国でささやかな生を営んでゐる小生を、
時に鼓舞し、時に慰めてくれることに、
満腔の思ひをもって感謝しない訳にはゆきません。



(写真は、ジャケットから)




10月末、蔵王ー。

2006-10-30 | やまがた抄

所要で出かけた足で、蔵王まで登ってきました。
(といっても、20分ほど余計に走るだけですが)
毎年のやうに訪ねる、鴫ノ谷地沼の紅葉を見てきました。

今年の初夏から夏にかけての天候のせゐか、
時期的に少し遅かったのもあるのでせうが、色は今ひとつでしたが、
歩く人もまばらな周遊道を、写真を撮りながらのんびりと歩いてきました。

紅葉狩りがまだの方へは、少しの、おすそ分けです。








      












































       



















結婚式、でした。

2006-10-29 | やまがた抄



ボランティアグループの、若い友人の結婚式でした。

ここ暫らく、小生の周りでは不祝儀の話が多かったので、
晴れやかな二人の姿を、招待された仲間たちと見ながら、
久しぶりに酒がはずみました。

いつでも、結婚式は、よいものです。

新しいふたりに、幸多かれと願ひながら
その晩もやや深酒気味に…。(^_^;)






『モーツァルト 天才の秘密』、を読む

2006-10-27 | 雑記

        


『モーツァルト 天才の秘密』(中野 雄著/文春新書)、を読みました。

おそらく、モーツァルトに関する書籍など、綺羅星のごとくありますが、
この新書の面白いところは、読んでゆくにつれて、
”激しく挑むモーツァルト”の姿が浮かび上がってくるところでした。

それは、父であり、絶大な師でもあったレオポルトに対してであり、、
コロレド大司教を含むザルツブルグの街に対してでもあり、
そして、モーツァルトの音楽に、時に熱狂し、時に冷たく突き放した
時代そのものでもあったやうです。

常に新作を要求され、作曲家といふよりは、演奏者としての比重が大きかった
当時の音楽状況のなかで、
「モーツァルトの音楽は、実戦に鍛えられた音楽である。
 一作一作に生活と人生がかかっていた。
 だから聴く者の心をうつ」(本書より)
といふ、音楽プロデューサーであるといふ著者の視点にはうなずくものがあります。

結局、旅先での母の死意外は何の成果ももたらさなかったマンハイム・パリへの旅行ののち、モーツァルトの音楽に”深み”が増してくるあたりは、
読んでゐて、切なくなると同時に、曲自体をすぐに聴きたくなります。


この種の本にある、推薦ディスクの紹介欄も、
著者の、感性にあふれた独自の解釈で推薦された盤が多く
(といふよりも、小生のディスクと共通してゐるので嬉しくなったのですが)
さういふ意味でも、手ごろなモーツァルト入門書にもなってゐます。





カザルスのモーツァルト

2006-10-23 | 音楽を
           

ずゐぶんと久しぶりに、カザルスのモーツァルトを聴く。
38番から41番までの4曲を聴く。

これほどまでに、条件の悪い録音なのに、
(オーケストラは、如何にカザルスを慕ったメンバーによるものとはいへ、
 臨時編成のオーケストラですし、
 そして、1960年代の録音ながら、ライブのためか、音も艶やかさがなく、
がさついた印象が強い)
聞こへてくるモーツァルトの音楽が、何と聞くものの心をえぐるのか!

流麗さやバランスのよさなど、ここには、微塵もない。
(勿論、”ティータイムのモーツァルト”的な安直さもない)

円空の仏像のやうに、ササクレさへも残しながら、
けれど、その心を捉へる造形の見事さは如何ばかりだらうか。

指揮するカザルスの肉声も演奏のなかに聞こえますが、
破天荒なまでの、荒々しい、けれど自らの音楽を創ってゐる姿を彷彿とさせる声です。


40番の第1楽章のテンポが素晴しい!
一瞬のつむじ風のやうに、モーツァルトが駆け抜けてゆく。

41番も、しゃくり上げるやうなリズムの中間楽章のあとに、
見事なフーガの美しさを無視したやうに、
この、モーツァルト最期の交響曲の終焉に向かってゆく。

38番は、小生の好きな第一楽章が、まったくのイン・テンポで突き進んでゆく。
そして、過激なまでの終楽章。

39番も、”白鳥の歌”などと形容されることを哂ふかのやうに、
まう、ベートーヴェンを見据ゑた、心情を吐露する演奏になってゐる。


以前、ある舞踏家の方の稽古場(廃校になった校舎の一室)で、真空管のアンプで、カザルスのバッハのチェロを聴いたことがありました。
無伴奏組曲の1番を大音響で聴きました。
5,6人の人がゐたのですが、小生は、思はず涙してしまふほどの、音楽のちから、でした。(その舞踏家のかたは、無伴奏で踊るつもりだったのかしらん?)


(写真は、ジャケットから)



キャサリン・ジェンキンス、を聴く

2006-10-22 | 音楽を
       

キャサリン・ジェンキンスの声に聞き惚れてしまひました。

ライナー・ノーツにもありましたが、
そのグラマラスな容姿(オジサンとしては嬉しいのですが…f^_^;))とは裏腹に、
なんと深々とした、メゾ・ソプラノの声だらうか!

以前からさうでしたが、
小生、女性のソプラノの声にはどうも馴染めなく、
特にこのアルバムのやうな、歌手のための選曲集になってしまふと、
当の歌手の方が、目一杯の力量を発揮した歌ひ方が耳についてしまって、
再び聴くことは少なくなってしまひます。

唯一、例外なのは、昨年亡くなったレナータ・テバルディでしたが、
このキャサリン・ジェンキンスも、
そのやや中性的な声質と、決して突き抜けない、
声割れを慎重に避けてゐるやうな歌ひ方で、
秋の夜、ヘッドフォンの奥からしばしの休息の時を与へてくれます。

アルバムの選曲は多岐にわたってゐますが、
小生は、オペラスティックなものよりは、
モリコーネの作品にとても感動し、
暫らく愛聴盤のひとつになりさうです。

(写真は、ジャケットから)





10月の薔薇

2006-10-20 | やまがた抄


久しぶりに、知人宅でお茶を飲みました。

四方山話に花が咲きましたが、
そこの庭では、今年の残りの薔薇が
降り始めた雨の中で、鮮やかに天を向いてゐました。

ひと雨ごとに、紅葉が降りてきてゐるやうです。
蔵王あたりの紅葉は来週ころかしらん。




秋半ば…

2006-10-17 | 大岡山界隈



             

隣り組で不幸があり、今日と明日はすべてそれへの手伝ひと参列に追はれます。

旧街道に面した旧い町並みですので、色々なしきたりも複雑で、
小生は長老の方に従ってついてゆくだけですが、
ある意味、”地域”とは、こんなことだらうと、ブルーベリーの紅葉が綺麗な
隣家での事前の打ち合わせに参加しながら感じてゐました。

日々、重なるやうに報じられてゐる、
親が子を殺し、子が親を殺す事件や、
自分の子供に、ゴミを食べさせたと云ってはばからないやうな母親の姿や、
率先して生徒を自殺に追ひやる教師の姿や、
それら、確実に欠けた歯車を強引に回してゐる、
ギーギーと音を立てながらも回してゐる今の日本の姿が、
一方の姿として浮かびあがってきます。

それにしても、
今年は、不幸の多い年になってしまひました…。



10月の玉川寺

2006-10-15 | やまがた抄

玉川寺(ぎょくせんじ)へ行ってきました。
町村合併で、鶴岡市に編入になってゐました。


向かふ途中の道からは、すでに中腹まで紅葉になってゐる、母なる山、月山が望める。





入口の、竹林が迎へてくれる。




いつもながらの、静かな寺の参道。







気がつくと、また、花のない季節にきてしまった…。
日差しに向かふ秋明菊だげが迎へる。







      











花のない庭で、
静かに流れる時間を愛でる。







中庭には、紅白の秋明菊が迎へる。



庭を彩る唯一の花。
寺の方に聞くと、沢桔梗、とのこと。









秋の日差しが落ちる。
















庭を出るときに、
「また、花のないときに来てしまった」
といふ言葉に、寺の方が苦笑し、
「初夏には、九輪草がきれいですよ」
と言葉を添へてくれた。

庭の隅に、季節外れに、その九輪草がひとつ咲いてゐた。
「桜草のやうですね」
との寺の方の言葉に笑ひながら、木漏れ日の参道をでる。