やっとすこし涼しくなって、久しぶりに熱い珈琲が飲みたくなって、レギュラー珈琲をいれる。
青い林檎を頂いたが、小生、林檎は食べないので、すべて家人が食べます。
あの、烈しかった大震災からの復興の糸口も、世界に類をみない原発事故の解明も収束もされてゐないのに、世の中がまたぞろ騒がしくなってゐます。
そのなかで、大阪の”維新の会”とかに擦り寄り、自分勝手な大義名分を声高にたて、離党し、保身を計る輩がゐます。
唾棄するやうな人たちです。
山形に移り住んでから、明治維新の問題や、戊辰戦争の問題を、自分なりに調べてゐます。
高校時代(遥か、昔です。それに、紛争活動やデモばかりしてゐましたから、勉強はしてゐませんでした…)、知ったこととは大違ひで、明治維新は、間違ひなくテロ・クーデターで、そのことの遺恨や傷跡や影響は、今もって広く東日本を覆ってゐます。
戯作者黙阿弥に云はせれば”たかが、薩長の田舎侍ども”に牛耳られた西日本は、あっといふまにその新政権になびき、当然徳川の膝元の東日本はウジウジと抵抗した。
やがて、奥羽越列藩同盟が出来、過酷な戊辰戦争へと突入してしまふのですが、山形エリアでも、米沢藩は、同盟のリーダー格でありながら名門藩ゆゑの機能不全で確たるリーダーシップを発揮できず、山形藩はお家騒動が続いてゐたので、この期に及んで藩主も居ず、織田信長直系の天童藩は、庄内藩に追ひ立てられて秋田の方まで逃げ、その庄内藩は、当時国内最強の軍を持ち、西郷隆盛をも敬服させた高い矜持をもち、また、小さいながら上山藩は堂々のフランス式軍隊のいでたちで新政府軍に挑んでゆきました。
しかしやがて、同盟の南の入り口、三春藩の寝返りで状況は変はってゆきます。
なんと、三春藩は、藩が小さいので、新政府軍の水先案内を務めるから、藩を保障してくれと交渉し、その愚挙にでたのです。
戦争が終り、けれど新政権はその三春藩を”武士にあるまじき行為!”と厳しく非難、三春藩のもくろみも消えました。
(以前、作家の先生を三春の桜にご案内し、しばしお茶を飲んだ喫茶店で、その辺の話を皆で話題にしました、勿論、確信犯的にー。案の定、店内でとても嫌な顔をされました)
山形県にはまだ、全国でもっとも多い一万数千人の方が福島から避難されてゐます。
地震なんて何も終ってゐません、原発事故なんて何も終ってゐません。
繁華街で、”リーダーはオレが相応しい!”などと叫んでゐないで、流行のグループに入らうなどと目論んでゐないで、現場をみてほしい、と思ふ。
すべての問題と解決の糸口は、現場なのだからー。