やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

絶美

2016-08-04 | 雑記


片付け方をしてゐたら、ファイルから写真が落ちてきた。
死んだ愛犬の写真と(確か、デジカメで保存したときのものー)、何故か、大きな碧い傘ー。

クリストの『アンブレラ・プロジェクト』の写真でした。
ネガなんて、どこへいってしまったのかー。

四半世紀前、日本でおこなはれたクリストの壮大なプロジェクトでした。

在関東のころ、確か、その前から、急にクリストの作品集や作品写真展が目に付き、色々と見にゆき、市庁舎を布で覆ひ、橋を布でくるみ、谷を大きな布でカーテンし、島を布で囲ふ、といった壮大で非日常的な彼の実験に度肝を抜かれ、ただそれらも、きっと十年単位の準備期間と膨大な費用をかけても数週間程度で跡形もなく消えてしまふ。
その刹那な芸術に、こころ動かされてゐました。
そんななか、日本でプロジェクトをする、といふ話を聞き、なるほど幾つかの展覧会等はその資金集め(彼は、基本的に、その費用を自前でまかなふ)のひとつだった、と合点する。

山形に移住して、東京の知人から”クリストのアンブレラ・プロジェクトを見にゆかうー!”と誘ひがあり、一も二もなく見に行きました。アメリカと同時開催で、両国で3万本の巨大な傘を立てる、その日本側のプロジェクトー。

確か台風が横を過ぎたあとで、茨城の田園地帯の傘は安全のためにたたまれてゐたのが多く、それでもあちらこちらに車を移動させると美しい巨大なブルーの傘が並んでゐました。

その違和感と非現実性と非日常性ー。
とても美しい景色でした。

おそらくクリストは、黄金色の田園地帯に蒼の傘を立てたかったのでせうが(アメリカの傘は黄色でした)、勿論所有者達の了解はとれず、やむなく、刈り取り後でOKしたのでせう。

叶はぬ夢ながら、その黄金対色の景色は、失神するほど美しい景色になったと思ひます。





こころに刺さる

2016-03-29 | 雑記
第十八回土佐絵金歌舞伎「伽羅先代萩~御殿の場~」その三(最終)


先日、NHKにて、『伽羅先代萩』が放映されてゐた。

歌舞伎としてのそれは知ってゐましたが、小生、仙台といふ街は好きではなく、また、仙台藩といふのも好きではなく、そのせゐか、いはゆる伊達騒動をモデルにしたこの演目は今までに実演やヴィデオで見ることもありませんでした。

ところが、先日のNHKでは、女形の最大の難役ともいはれる政岡を玉三郎が演じてゐたといふので見始めましたが、思はずその緊迫したシーンに見入ってしまひました。

わが子を目の前で殺され、けれどその場は黙としてひたすら跡継ぎの幼児を守り、けれど首謀者たちが去ったあとにその悲嘆にくれる姿は、この演目のメイン・シーンですが、流石に玉三郎は見事な演技です。

加へて、その政岡の心情や情景を、まるでこころえぐるやうに語る竹本の見事な演者の声に、聞きほれてしまひました。

個人的には、何かで見た黙阿弥作の『天衣紛上野初花』のいちシーン、「雪暮夜入谷畦道」での小悪党・直次郎と遊女・三千歳との別れの場面、その甘味なまでに美しい玉三郎の姿が鮮烈でしたが、政岡役でもその嘆き悲しむ姿はこころに突き刺さります。


その名演には及びませんが、土佐絵金歌舞伎で模様がYoutubeで流れてゐました ↑ 。


諏訪四郎勝頼

2016-02-16 | 雑記
NHKの大河ドラマ『真田丸』の初っ端、武田勝頼の悲劇的な末路を男優が好演してゐました。

家人が、”勝頼って、あんなだっけ?”といふので、ふと思ひ立ち久しぶりに図書館へ行き検索したら、関連書類のあまりに少ないことに呆然としながら、そのなかの一冊を再読しました。




在関東のころ、好きな戦国武将は武田信玄でした。
きっと、悪友とふっと入った映画館でみた『影武者』で興味を示し、それから色々と調べ、地の利を生かして長野や山梨の地の合戦場所や史跡、城、神社、寺等色々と見に行きました。

そして、韮崎にある新府城を見に行った時に、信玄の継続者たる勝頼の不思議な存在に胸を痛めました。

映画『影武者』では、萩原健一がその鬱屈した心情を激しい姿を好演してゐましたが、数十年前に見に行った新府城はまるで廃墟のやうな姿でした(今はきっと、ドラマの影響で綺麗に整備され、観光客も多いでせうがー)。
確か、大きな石の碑が無造作に倒され放置されてゐました。その姿が、なにか、その地の勝頼への仕打ちのやうな気がして胸が痛みました。

そして彼の終焉の地が景徳院であることを知り、その後も幾度となく足を運びました。

数年前に山梨に用事があり、朝早く着いたので、その時も真っ先に景徳院へ足を運びました。



かの寺は、小生だけかも知れませんが、いつ訪れても一種独特な霊気に満ちてゐて(特段、小生はその手の話にのめりこむタイプではありませんがー)、絶望的な状況のまま、その地に最愛の家族とともに果てた勝頼の無念さが浮遊してゐるやうな境内です。

また再び、彼の姿を追ひ求めて見たいと思ってゐます。













お坊吉三

2013-02-05 | 雑記
仕事場で、朝の挨拶を済ませた同僚が寄ってきて、「団十郎、亡くなりましたねー」とポツリと云った。

先日、定年を一年延長した彼女は、小生も歌舞伎ファンであることを知ってゐて、また、若い人が多い職場なので同じ高齢者同士のよしみなのか、朝の忙しい時間、ほんの数分歌舞伎談義に花が咲いた。

数ヶ月のうちに、歌舞伎界の2大スターを失ふといふ事態に、なるほど彼女だけでなく、悲しむ人が多い。

歌舞伎好きと云っても、小生は主に黙阿弥の世話物を中心として見たり読んだりしてゐるので、団十郎の”成田屋!”の豪快な荒事はさほど好きではないのですが、それでも、一方の雄であった団十郎の死は悲しい出来事です。


彼がお坊吉三を演じた『三人吉三』が動画で流れてゐます。
(全てをみると、長大な全編が見られます)

まったく、節分を過ぎたばかりの目出度い時期ながら、勘三郎とともに、その早すぎる病による死を悼んでその冒頭の名場面を見ることにしませう。

合掌。


三人吉三巴白浪1


三人吉三巴白浪2



東京へ

2013-01-28 | 雑記
所用があって、東京へ行ってきました。

行きは深夜、白河あたりまでの吹雪を突いてでしたが、朝にはすっかり晴れ上がり、中央道からは見事な富士山に迎へられ、翌日の帰りも、雲ひとつない空の下、東北道から見返りの富士山に見送られました。
(ともに運転中だったため、残念ながら写真は撮れずー)

所用を済ませて、短い時間のなか、あちらこちらに出掛け、夜には旧友に会って楽しい酒を飲み、そんななか、高幡不動尊へ行きました。

昔は新年の初参りや初午には必ず出掛けたところですが、もしかしたら尋ねることができるのも最後になるかもしれないと思ひ、足を延ばしました。

以前は、人ごみの中でしか行ったことがないのですが、初午前の静かな境内は閑散としてをり、車も簡単に置けて、ゆっくり山門から入りました。

以前はまったく興味もなかった山門の”あ・うん”の像も、よく見ると結構立派なそれだったもので感動し、
初めてまじまじと見た本尊の不動明王の像もその憤怒の顔が素晴らしく、拾ひもののやうに、家人と静かな寺めぐりをしてしまひました。

そして、奥の大日堂の前に櫻の裸木が1本あり、何気なく見たら(櫻の樹には敏感なものでー)、なんと山形の白鷹町にある千年櫻・薬師堂の櫻の子供でした!

山形の風雪に耐へた樹齢千年の薬師堂の櫻の子が、その姿はまだ若いながらも由緒ある多摩の不動尊の本堂の庭先を飾る。
なんとも嬉しいえにしに、尋ねた甲斐があったとひとり喜んで寺を後にしました。

















この国は…

2012-12-23 | 雑記


この間の選挙は、何の面白みもひねりも興奮もない選挙でしたが、いずれにしても、再び大きく振り子が振れてしまひました。

その結果、つい数年前に、”僕、お腹が痛いから、何もしない~!!”と政権を放り投げた長州のボンボン政治家が来る新年に向かってこの国の最高権力者になるといふ。
(夏ころでしたか、会津の歴史研究会の方に会った時、長州がー!長州がー!!と叫んでゐました)

TVで見る、彼の妙に颯爽とした動き(その姿が、とてもウソ臭いー)は、イメージを払拭したいといふ意思の表れだとは思ふのですが、そんな意思とは無関係に、この国は色々な分野でまったく未知の領域に突入してゐるやうに思ひます。

にも関はらず、たとへば、原発事故を起こしてゐないドイツは原発を廃止することにし、歴史上未曾有の事故を起こした日本は、大きく振り切った振り子のせゐで原発を続けてゆくといふ権力者を選ぶー。

所詮、長州にとっては、東北は遠い地であるといふ証左なのかー。


クリスマス寒波が近づいてゐます。
やっと、急いで雪囲ひを済ませ、クリスマス・ケーキは、まう食べてしまったので、この年の残り一週間に向かってゐます。



振り子といへば、今話題の”振り子”の動画を見ました。
泣けるー、ほどではないですが、心にしみるものです。

振り子 鉄拳





塩釜の市場

2012-12-15 | 雑記
最近の年末のお楽しみ、塩釜の塩釜仲卸市場へ行ってきました。

大震災後の昨年は、小生の都合がつかず、家人たちは娘たちに頼んで車を出してもらひ、用を済ませました。
ですから、小生は、震災後初めての市場です。

市場へ入る前に、海側をすこし見ましたが、道路などに歪みやヒビが入ってゐる外は大きな被害もなく、
雨模様ながら、穏やかな海が続いてゐました。
駐車場も、例年よりは一寸少ないかなー、と思ふくらゐで、多くの買ひ物客で賑はってゐました。




















マグロやカズノコやエビやカキやイカやカニや干物や…、そして名物おばあちゃんらしい(80歳以上だといふー)お店でタコも買って、
”ウム、市場も買ひ物客も、皆元気でなによりだ!”と独りごちして、すこし嬉しくなって、市場を後にしました。

吹雪の峠を抜け、久しぶりに峠の茶屋でラーメンと力餅を食しました。
街では、最近は、やたらと能書きの多いラーメン屋さんが多いのですが、久しぶりに食べた素朴なラーメンと餅に舌鼓! でした。












椎名林檎『玉手箱』×歌舞伎『三人吉三』

2012-12-06 | 雑記
なんといふ訃報だらう!!

中村勘三郎、の死ー。

とりたてて彼の生粋のファンでもなんでもないのですが、その若さと、その演技の冴えを思ふと、心が痛むほど哀しい。

小生の棚には、中村勘三郎による彼の当たり役(だと思ひます)の『髪結新三』の録画のDVDが二枚あります。
黙阿弥作の、この小悪党の悪さのさま、けれどそれゆゑの滑稽なさま、江戸っ子らしいきっぷのよさ、そんなものをものの見事に演じてゐて、厭きることのない名演技です。

旬のカツオを、さう、今のお金で4、5万もだしてポ~ンと買ふシーン、仲介に入った親分に凄みをきかせるシーン、等々、余りにも上手すぎると思ふほどの絶品です。


小生が初めて見た歌舞伎は、やはり黙阿弥の『三人吉三』の、ほぼ全編ー。
歌舞伎座でした。

その『三人吉三』を中村勘三郎がコクーン・シアターで演じた動画がありました。
恍惚たるエンディングです。

合掌。


椎名林檎『玉手箱』×歌舞伎『三人吉三』




危ふい…

2012-09-18 | 雑記


やっとすこし涼しくなって、久しぶりに熱い珈琲が飲みたくなって、レギュラー珈琲をいれる。

青い林檎を頂いたが、小生、林檎は食べないので、すべて家人が食べます。

あの、烈しかった大震災からの復興の糸口も、世界に類をみない原発事故の解明も収束もされてゐないのに、世の中がまたぞろ騒がしくなってゐます。

そのなかで、大阪の”維新の会”とかに擦り寄り、自分勝手な大義名分を声高にたて、離党し、保身を計る輩がゐます。
唾棄するやうな人たちです。

山形に移り住んでから、明治維新の問題や、戊辰戦争の問題を、自分なりに調べてゐます。

高校時代(遥か、昔です。それに、紛争活動やデモばかりしてゐましたから、勉強はしてゐませんでした…)、知ったこととは大違ひで、明治維新は、間違ひなくテロ・クーデターで、そのことの遺恨や傷跡や影響は、今もって広く東日本を覆ってゐます。

戯作者黙阿弥に云はせれば”たかが、薩長の田舎侍ども”に牛耳られた西日本は、あっといふまにその新政権になびき、当然徳川の膝元の東日本はウジウジと抵抗した。

やがて、奥羽越列藩同盟が出来、過酷な戊辰戦争へと突入してしまふのですが、山形エリアでも、米沢藩は、同盟のリーダー格でありながら名門藩ゆゑの機能不全で確たるリーダーシップを発揮できず、山形藩はお家騒動が続いてゐたので、この期に及んで藩主も居ず、織田信長直系の天童藩は、庄内藩に追ひ立てられて秋田の方まで逃げ、その庄内藩は、当時国内最強の軍を持ち、西郷隆盛をも敬服させた高い矜持をもち、また、小さいながら上山藩は堂々のフランス式軍隊のいでたちで新政府軍に挑んでゆきました。

しかしやがて、同盟の南の入り口、三春藩の寝返りで状況は変はってゆきます。
なんと、三春藩は、藩が小さいので、新政府軍の水先案内を務めるから、藩を保障してくれと交渉し、その愚挙にでたのです。

戦争が終り、けれど新政権はその三春藩を”武士にあるまじき行為!”と厳しく非難、三春藩のもくろみも消えました。

(以前、作家の先生を三春の桜にご案内し、しばしお茶を飲んだ喫茶店で、その辺の話を皆で話題にしました、勿論、確信犯的にー。案の定、店内でとても嫌な顔をされました)


山形県にはまだ、全国でもっとも多い一万数千人の方が福島から避難されてゐます。
地震なんて何も終ってゐません、原発事故なんて何も終ってゐません。
繁華街で、”リーダーはオレが相応しい!”などと叫んでゐないで、流行のグループに入らうなどと目論んでゐないで、現場をみてほしい、と思ふ。

すべての問題と解決の糸口は、現場なのだからー。


その死の

2012-07-24 | 雑記


NHKの”クローズアップ現代”で、吉田秀和さんを取り上げてゐました。
この、毎日無数にわたる現代のテーマをタイムリーに取り上げる番組は、退化の一途をたどるNHKの中でも良心のひとつでせうが、いち音楽評論家の死をとりあげるのもきはめて珍しいです。

それほど彼の死は、ある意味日本の思想界の大きな損失なのだと思ひます。

丁度彼の死の一週間ほど前、日曜日の朝、通勤時に運転しながら番組を聴いてゐました。
勿論録音だったでせうが、いつものやうに最後に云ふ”じゃあ、また!”といふ挨拶に、ウム? 声に元気がないなー、と思ってゐました。

最愛の奥さんを亡くし、追ひ討ちをかけるやうな東日本大震災と原発事故ー。
確か朝日新聞にも書いてゐましたが、とても大きく絶望し、なにもする気持ちが起きないとー。

特に、件の番組で力説されてゐたのが、ホロヴィッツ事件やグールド事件のやうに、自らの感性(のみ)で音楽を聴き、自らの言葉で考へ、そして思考を組み立てていった吉田氏が、特に原発事故そのものや対処の不甲斐無さに対して、”いつまでも、日本人は、何も学んでゐない、そして、同じことを連綿と繰り返してゐる”といふ彼一流の絶望感だった、といふことです。

勿論、絶望だけでは何も先には進みませんが、まう100歳に近い彼の気力は、残念ながら、折れてしまったのかもしれません。

番組のなかで、彼の、あの吉田秀和さんのリスニング・ルームが一瞬映ってゐました。
とても、驚きました。
8帖ほどの和室の一角に、とても貧楚なオーディオ・セット、でした。
以前から、”僕は(彼は、いつも自分のことを、さう云ひます。あの、河竹黙阿弥も、さうでした!)オーディオにはほとんど興味がないのでー”と云ってゐましたが、それでもー、と思ふくらゐシンプルなものでした。

そのセットで彼は、間違ひなく、音響ではなく、音楽の力を聴いてゐたのだと思ふと、とても感動しました。