やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

弥生、つごもり、雪もよひ

2013-03-31 | やまがた抄


年度末の忙しい一日ですが、朝から雪です。

春雪らしからぬ、細かい雪が降り続き、ここしばらくの暖かさで咲き始めたヒマラヤユキノシタを震へあがらせてゐます。

明日から、四月ー。

色々と用事もあって、櫻行きもあるので、忙しい月になりさうです。

ともあれ、雪の弥生つごもりになりました。


参月末

2013-03-27 | やまがた抄


すでに東京では花見が終ったやうな話ですが(それにしても、彼岸の櫻とはすこし早すぎ!でせうー)、我が家の庭では、やっと福寿草が春の光にむけて頭をもたげてゐました。

この時期の休みの日はとても忙しく、やっと雪囲ひを解き、長い雪の季節に痛めつけらた木々の枝を掃ってやり、今年はまだタイヤを交換してゐませんが、先行して三台目の洗車とワックス掛けをすませ、今年はすこし庭を改造するつもりですので、ぶらぶらと考へて、今日の外の予定は終りー。

まう、来週は四月ー。
今年は春先の予定が沢山あるので、まごまごしてゐると、早、夏になってしまひさうです。


恐るべしー、アナログ…

2013-03-24 | 音楽を
本格的に暖かくなったら、今年こそは倉庫のLPレコウドを整理し、先日相談したブック・オフの方に来てもらって処分するつもりでゐます。

クラシック類が1,500枚ほど、ジャズ類が500枚ほどです。
ジャズはものによっては高く買ひますが、クラシックは二束三文ださうです。

今年の新年会のときに知人にその話をしましたら、”もったいないー”とは云ってゐましたが、最近は歳のせゐか、”所有”といふものに段々未練がなくなって、勿論、再生装置もなくなってしまってゐますゆゑー。

そんなをり、いつも楽しんでゐる、LPレコウドを延々と流す動画サイトで、ビル・エヴァンスの『You Must Believe In Spring 』を聴きました。

ビル・エヴァンスの最晩年の傑作で、以前にも書きましたが、小生のもっとも好きな作品です。
もちろんCDでの所有もありますが、レコウドの演奏で改めて聴くと、エヴァンス晩年の澄み切った音と音楽がとてつもなく素晴らしい。

CDではカットされたかもしれない音の余韻のやうなものが隅々まで伝はって、改めてアナログ・レコウドのすごさを感じてしまひます。

とくに有名な、反戦映画「マッシュ」のテーマは、あの奇天烈な映画内容とは裏腹に、まるで一編の叙情詩のやうにこころに浸み込んできます。

【JAZZ】BILL EVANS You Must Believe In Spring A面 【レコード】


【JAZZ】BILL EVANS You Must Believe In Spring B面 【レコード】



ついでに、超有名な名盤『Waltz for Debby 』を重量盤!レコウドで聴かせる動画も、とてもとても素敵です。
クラブでの猥雑な騒音や会話の中から、エヴァンスの研ぎ澄まされた音がひと際浮かびあがってきます。

【JAZZ】Bill Evans Trio Waltz for Debby sideA ANALOGUE PRODUCTIONS 【レコード】


【JAZZ】Bill Evans Trio Waltz for Debby sideB ANALOGUE PRODUCTIONS 【レコード】



その差…

2013-03-21 | 本や言葉


NHKの大河ドラマ『八重の櫻』を今のところ欠かさず見てゐますが(仕事の関係で、ほとんど、録画ですがー)、物語もいよいよ幕末の騒乱の模様になってきてゐます。

最近は、話が穏やかな会津の様子と、混乱を極めだしてゐる京都の話に終始してゐて、すこし物語りのワイド・レンジが狭くなって物足りないのですが、まあ、しばらくは我慢して見てゆくつもりです。

このドラマが始まって以来、小生、またぞろ幕末の本を沢山読みました。
そんななか『池田屋事件の研究』といふ新書ながら400ページの分厚いものを読みました。

その視点を、池田屋事件一点にしぼり、また、新撰組や会津側からの視点ではなく、長州側(やられた側)の視点で膨大な資料を駆使して浮かび上がらせるといふ、とても面白いものでした。

なるほど、巷間有名な事件ながら、池田屋自体が本当はどこにあったのか、どれほどの規模で誰が切り込みに入ったのか、誰が犠牲者になり、何人が死んだのか、逮捕されたものは何人だったのか、逃亡できたものは何人だったのかー、ほとんどはっきりとした事実が残ってゐない。

著者は、膨大な資料を選別しながら、なんとかおぼろげにその全体像を作り上げて行きます。
そして、いまさらながら感心するのは、当時の会津に較べて、長州側の時代感覚の一歩進んだ嗅覚です。

いたるところにスパイをまぎれこませ、情報収集に躍起になってゐます。
敵の敵は見方、といふ論法も駆使してゆく。

大河ドラマに描かれてゐるやうに、確かに、会津の武士は愚直には生きてゐますが、その先の展望が細い。

後年、戊辰戦争に巻き込まれた東北の諸藩との戦ひでも、倒幕軍がすでに連発の射程距離1キロ近くの外国銃を装備してゐるのに、ある藩では、兜をかぶり、旗印をたて、ほら貝を吹いて望んだ、といふー。
まるでお話にならない事実の基本は、やはり、情報収集力ではなかったのかしらん、と思ふ。




Otto Klemperer conducts Tchaikovsky Symphony No. 6 "Pathetique"

2013-03-19 | 音楽を
日常、チャイコフスキーの6番《悲愴》を居住まひを正して聴くことも少ないけれど、名盤的なものは結構棚に詰まってゐます。

まあ、ムラヴィンスキーの絶対的な、鋼のやうな演奏は最右翼でせうが、小生は、マルティノンがヴィーン・フィルと録音したものや、敬愛するモントゥー爺さんがボストン交響楽団と録音したふる~いけれど、とてもお洒落な演奏が今でも好きです。

いつもFlacファイルでパブリック・ドメインの録音を提供して頂いてゐるサイトで、クレンペラーによるチャイコフスキーの6番がUPされて、早速聴いてみました。

クレンペラー信者の小生ですが、LP時代から集まってゐたものは、バッハやモーツァルトやベートーヴェンやブラームスやマーラーやブルックナーやヴァーグナーやメンデルスゾーンや…と、ドイツ音楽のほぼ本流の演奏ばかりです。

LP時代でも、チャイコフスキーの録音は買ってもゐませんでした。
特に理由もないのですが、”クレンペラーで、チャイコフスキー?”といったところでした。

今回、初めて聴いてみて、ウロコは一枚落ちました。

Otto Klemperer conducts Tchaikovsky Symphony No. 6 "Pathetique"


まるでチャイコフスキー的な演奏ではなく、もっぱら”クレンペラー的”なその演奏に感服しました。
もちろん、間違っても”名盤”にはならない演奏です!。
まるで、ブルックナーのやうな、深遠な演奏です。

甘く、切ない、悲哀のやうなものはスッパリと切り落とし、先ほどのサイトの管理者の言葉のやうに”鬼のイン・テンポ”で粛々と音楽が進まれる。

色々な指揮者が高じる、あちらこちらでテンポを動かしたり、弦を哭くやうに響かせたり、とかの仔細な芸当は一切拒否し、”イン・テンポで、何が悪い?!”とばかりの王道の演奏です。

まあ、これから先、このクレンペラーの演奏も、さう滅多に聴くこともないでせうけれど、ヤワな演奏に出会った時には、”老人力”の凄みを再認識するには格好の演奏になると思ひます。

春隣り

2013-03-15 | やまがた抄


愛犬が死んで以来、雪のシーズンはすっかり”ひきこもり老人”になってしまった老母が、家人の”もう、畑に雪はないよー”の言葉に、その重い腰をあげて畑を見にいった。

しばらく帰ってこない、と思ってゐたら、”蕗の薹が出てゐたよー”とすこし摘んできた。
”ほおー!”と、携帯で写真を撮ってみた(すこし、ボケましたー)。

家の周辺では、長い冬にすっかりノンビリしてゐたらしい白鳥たちの、慌ただしい北帰行への旋回が始まってゐて、ここ数日はとくにかまびすしい。
その慌ただしい鳴き声は、”やべぇー! 寝過ごした!”と云ってゐるかのやうです(もしかして、ロシア語?)。

そして、時間があったので、この年の山の予定をたてた。
行けたとしても、せめて、ひと月に一回程度ー。
来月から順調に行けても、6回ほどー。
身体がクタバル前に、なんとか50の山を登るつもりですが、なんとなるかー。

とまれ、遅い”春隣り”の季節です。


晴天

2013-03-12 | やまがた抄


先日は、思ひもよらず春の嵐になって、再び5センチほどの雪になりました。
すでに、すっかり”雪掃きしないモード”になってゐた小生は、仕事場でも、その5センチの雪にウンザリしながら、雪を掃いてゐました。

でも、やはり春の雪です、あっといふまに解けて、今日は、360度、100%の快晴でした。
春先のこんなアッパレ空は珍しいですが、昨日の、大震災2年目の、涙雪を終らせたからでせうかー。

先日、円空の本を読んでゐて、彼が12万体の仏を彫るに至ったその悲しみを知り、そして、絶えず繰り返される天変地異に脅かされる小さな日本に生きて、その心のよすがをどこに求めて行けばよいのか、すこしわかったやうな気になり、この期に及んでも被災地でお役所仕事がはびこってゐる現状を憂ひながらも、すこし明るい気持ちで春に向かってゆけさうです。


西行と、芭蕉と…

2013-03-10 | 本や言葉


西行と芭蕉の、それぞれの人生と、それぞれの歌を重ね遭はせるやうな本を読みました。

西行の『山家集』は、旧い岩波文庫のものが書棚にありますが、ぱらぱらとめくった程度でしたので、このたびまとめて彼の歌を読んだ想ひです。

混乱の時代、出家の理由はいまだ定かではありませんが、中流武士の地位を棄て、歌と漂流のやうな旅に生きた西行ー。
しかし、なるほど、当時から批判があったといふ、”反俗反僧”のやうなその生き方と、すこしなよなよしいその歌に、ある種、西行の限界があったのかもしれません。

そして500年後、その西行を心の師と仰ひで『おくの細道』といふ名作を残した芭蕉の方が、その短い文字列の中に、この世の中の森羅万象とこころの揺れ動きをスコーンと落とし入れたその妙技に、信服せざるをゑない。

また、ともに山形の地を踏んだふたりが、西行は滝山の紅色の櫻を見たでせうし、芭蕉は、山寺から滝山へ足を延ばすつもりもあったらしいのですが、花の季節はとっくに終ってをり、知人たちの言葉でその足先を出羽三山へ向けてしまふ。

そんなふたりが、500年の時空を越えてすれ違ふ姿を想ふと、滝山の大山櫻もまた、格別な姿になります。

↓結構前の、滝山の大山櫻







フォーレ三昧

2013-03-09 | 音楽を
Gabriel Faur�・ - Concert de l'Orchestre de Paris - Paavo J�・rvi


パーヴォ・ヤルヴィのフォーレ作品集のCDと同じやうな演奏会の模様が動画で見ることが出来ました。

父親のネーメ・ヤルヴィによるグリーグの『ペール・ギュント』の全曲盤のCDは初めて聴いたときには、ウロコが10枚ほどこぼれ落ちた愛聴盤ですが(北欧のオーケストラと合唱団を使ひ、地元言語による語りで進む波乱万丈な90分近くのペールの物語は、半端な映画よりも圧倒的に面白いものでした! 勿論、ノルウェ語なんてわかりもしませんがー)、今をときめく息子のパーヴォは、その指揮姿、音楽作りともに、好きなものではありませんでした。

メインの《レクヰエム》も、予想通りのメリハリの強いもので、父や母の死を敬ふやうにひっそりと作曲された小さなレクヰエムに、パリ管弦楽団と”大”合唱団での演奏は、小生はやはり違和感を感じてしまふのですが、それでもその合唱が見事なので、すこし満足ー。

ところが、この演奏会の白眉は、小さな曲たちで、小生とても感動してしまひました。

ずゐぶんと久しぶりに聴いた気のする《ラシーヌの雅歌》のとても勁い響き。
甘さを排した《パヴァーヌ》のゆらぎ。
初めて聴いた《バビロンの流れのほとりで》のフォーレらしからぬ劇的な曲想。
そして最後に、食事のあとのスウィーツのやうな《エレジー》。

まったく、フォーレ三昧の一時間半ほどの至福のときでした。




Cannonball & Coltrane - Quintet in Chicago (Full Album)

2013-03-08 | 書棚のジャズアルバムから

Cannonball & Coltrane - Quintet in Chicago (Full Album)


動画サイトで、懐かしいアルバムを流してゐたので、久しぶりに聴いてみました。

キャノンボ-ル・アダレイのLPやCDはほどほどあったやうな気がしますが、小生決して熱心なファンでもなく、コルトレーンとの関連で集めたやうな記憶があります。

この一枚もそれゆゑのもので、バリバリと吹くアダレイに、コルトレーンも負けじとブリブリと吹く!
確か、マイルス・デヴィスの第一期黄金リズム・セッションをバックに録音されたもので(留守を狙ったとのエピソードもあったー)、そのバックが悪いはずもなく、1960年前の、ある意味”能天気”なほどの元気のある名盤です。


前後して、コルトレーンが1966年来日した時の、神戸での動画を見つけました。
正規の”ライヴ・イン・ジャパン”は、第1集、第2集とも書棚にありますが、余りに痛ましくて、滅多なことでは聴きません。

”神戸での演奏? おそらくプライヴェイトのものだらうー”と思って聴きましたが、果たして、聴衆の背中で録音してゐるやうな、とても状態の悪いものでした。

けれどー、
その劣悪な録音の先から、『イン・シカゴ』の能天気な演奏から、まだ十年も経っては居ないといふのに、すでにコルトレーンの演奏は、フリーを遥かに通り過ぎて、まるで自らを呪縛にかけたやうな、宗教の祈りのやうな、あるひは、密教のお経のやうな、いつ果てるともしれない、サックスでの吐露を続けてゐる姿が浮かびあがる。

すでに、ハーモニーの美しさなどは微塵もなく、この演奏の先には果たして何が待ちうるのだ? と思ふ演奏です。
けれど実際には、この翌年に、まるで彼岸へと旅立つやうな澄み切った演奏集を遺作としてコルトレーンは癌に倒れるのですが、その死後すでに50年近くを数へながら、まるで山谷を駆け抜ける修験者のやうに残した数々の演奏は、この先も決して埋もれることはなく、また小生も、”ウム、辛いなー”と思ひながらも、マンジリもせずに彼の演奏を聴いてゆきたいと改めて思ひます。

John Coltrane Live in 神戸1966 part1


John Coltrane Live in 神戸1966 part2