やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

タマツバキ

2006-02-28 | やまがた抄








山形に移り住んで15年になります。

10年を過ぎたあたりから、やっと、山形県人に成れたでせうか。
それは兎も角、今もって、印象的なことに、「タマツバキ」があります。
いはゆる、マサキ、なのですが、山形のひとは”タマツバキ”と呼びます。

以前、色々と仕事をさせて頂いてゐるお客さんとの会話の中に
「タマツバキが…」と出てきて、椿好きの小生も、最初は、「どんな椿だ?」と不思議な思ひで話の接ぎ穂を選んでゐました。

写真は、ある神社の生垣で見つけたマサキの実ですが、
これを”タマツバキ”と呼んでゐます。
小さな紅い実を、椿の蕾に見立てた呼び方、なのでせう。

現在、色々な分野で情報が、ある意味過剰に発達し、
”見立て”などといふことは、はるか昔の演出方法のやうになってゐますが、
それでも、ものを見立てる、ためには豊富な知識と、的確な鋭い表現能力がないと、見事に云ひあてることもできません。

山形びとの、優しさの一端をかたる話でせうか。
生垣に使ふやうな、安くて丈夫な樹の実に、
椿のイメージを重ねた云ひ方に、今でも感激してゐます。






雪解けの頃

2006-02-26 | やまがた抄


まだ如月ながら、ここ数日の暖かさで、この冬の大雪の名残りも、消えやうとしてゐます。

山形県で予算をとる、年間数十億円といふ除雪・排雪費用よりも、ほんのわずかの強い日差しが続けば、雪はなすすべなく消えてゆきます。
自然の力に、完全にアドヴァンテージを取られてゐる証左ですかー。

下の写真は、馬見ヶ崎川沿ひの排雪場の様子。
この高さで、100m以上は続いてゐたでせうか。
春になれば、すべて、消えて無くなるしろものです。




外を回ってゐて、雪解けの姿を幾枚か撮りました。
雪が、優しくなってゆく季節の姿、です。













「モーツァルト 奇蹟の音楽を聴く」 を読む

2006-02-24 | 雑記

「モーツァルト 奇蹟の音楽を聴く」(宇野功芳著/ブックマン社)を読む。

以前から、宇野功芳氏の音楽評論は余り好きではなかったのですが、本の表題につられて読んだのですが、やはり、途中で嫌になってしまひました。

きっと、いつもながらの宇野節なのですが、口述筆記で出来た本ださうで、そのせゐもあるのでせう、宇野節の強引なところが鼻について、とてもモーツァルトの音楽の解説を楽しむところまではゆきませんでした。
モーツァルトの音楽は楽しくなければー、といふ持論には勿論賛成ですがー。

ただ、ピアノ・ソナタに関して、リリー・クラウスのモノラル録音がよい、と云ってゐましたので、近いうちに、聴いてみやうかと思ってゐます。




 

バッハの次男ー。

2006-02-22 | 音楽を

バッハの次男、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハのシンフォニア集を聴く。

ナクソスレーベルの、若手の奏者によるCD。
このレーベルはスタート当時から好きで、決してメジャーが手を出さない分野に堂々と全集を作ったりして、それに値段も安いのでー。

C・P・E.バッハのシンフォニア。
確か、ピノック指揮の盤があった気がするのですが、このディスクでその面白さを改めて感じました。

もう、モーツァルトが目の前の音楽、です。

確かに、実際の時代も交差してゐますし、モーツァルトがC・P・E.バッハの音楽に影響を受けた、とも云はれてゐます。
それとは別にして、このシンフォニアには、大バッハの息子!といふレッテルをはがさうといふ、よい意味での気概とユーモアが感じられて、それほど深刻ではないけれど、耳に心地のよい音楽です。

人間的な興味は、兄ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(父の多大な期待を受けながら、その才能もありながら、性格のためか、結局酒におぼれ、自暴自棄な生活の果てに、貧困のままに死ぬ。父バッハの楽譜もずゐぶんと売り払ってしまった、とも云はれてゐる)にありますし、モーツァルトの息子たちと同様、音楽家として名をなした弟クサヴァーよりも、やはり兄カールの、音楽家への道を自ら閉ざし、ミラノでの役人生活で一生を終へた(でもきっと、屈折した気持ちがずっとあったに違ひない!)生き方に興味は尽きません。

とまれ、ハイドンはほとんど聴かないのですが、この機に、同時代のC・P・E.バッハの音楽をまとめて聴いて見るのも面白いかもしれない、といふおもひを与へてくれたCDでした。




(写真は、ジャケットより)


はらへたまってゆく かなしみ

2006-02-21 | やまがた抄

はらへたまってゆく かなしみ

                   八木重吉



かなしみは しずかに たまってくる

しみじみと そして なみなみと

たまりたまってくる わたしの かなしみは

ひそかに だがつよく 透きとおってゆく


こうして わたしは 痴人のごとく

さいげんもなく かなしみを たべている

いずくへとても ゆくところもないゆえ

のこりなく かなしみは はらへたまってゆく







※「定本 八木重吉詩集」(弥生書房)より




ベルティーニのマーラーの「復活」

2006-02-20 | 音楽を

ベルティーニ/ケルン放送交響楽団によるマーラーの交響曲第2番「復活」を聴く。

一年ほど前、惜しくも亡くなったガリー・ベルティーニへの一周忌へのよすがになるかもしれません。
在京のころ、都響を振ってのマーラーの1番を聴いたことがありました。
その時は、都響のコンディションもあったのかしらん、それ程印象は強くなかったのですが、CDによる3番の演奏がとてもよかった記憶があります。

ひととき、誰も彼もマーラー、といふ時代がありましたが、(火付けは、やはり、ビスコンティの映画?)マーラー教の信者たる小生は(やや、多神教?)、死ぬまで彼の、破天荒で、感傷的で、多重人格的な音楽に付き合ってゆくつもりです。

ところで、ベルティーニの演奏は、頃を同じく人気のあったインバル/フランクフルト放送交響楽団の演奏のやうに、細かな造形をきっちりとまとめ上げる手法ですが、オーケストラが優秀なのでせう、ドライにも、固くにもならず、つややかさを見せながら進んでゆきます。
第4楽章のアルトの歌手も悪くはなく(本当に、ここでの歌唱は難しいのでせう、オペラ歌手などを起用したディスクは、みな、アリアのやうに歌ひすぎてしまふ)、終章の盛り上がりに向かってゆきます。

生きること、生きながらへることを、30代のマーラーが少し感傷的に謳ひ上げた
終章は、正直、どんなディスクでも感動してしまひますが、ベルティーニも細部にわたって注意をはらひながら、前のめりせずに作りあげてゐます。

少し調べたら、亡くなった時は70代の後半、でした。
指揮者は30代40代ではまだひよっこ扱ひ、60を過ぎて少し仕事が出来る、といふ、きはめて奥の深い世界で、ベルティーニもまた、自らが熟した時を確信したのかもしれません。

なるほど、小生などは、まだ、ひよっこ扱ひ、なのですなあ…。



(写真は、ジャケットの写真を利用)




春への先駆け

2006-02-19 | 大岡山界隈

日当たりのよい縁側の軒下で、チューリップの芽が覗いてゐました。

引越の時に、とりあへずと置いただけで、結局、何もしませんでしたが、
思ひもよらない大雪と寒風にさらされながら、それでも、しっかりと、
プランターの中で、冬のをはりと、まだ遠い春の気配を感じたやうです。

ここ数日、日差しがずゐぶんとやはらかくなって、まだ如月ですが、
厳しかった冬のをはりを確信してしまひます。



今日は、ロバータ・フラック

2006-02-18 | 音楽を

昨日は、降りしきる雪の中を、朝、現場へ向かひました。
丁度、FMから流れてきた音楽は、モーツァルト、でした。
オーボエ協奏曲。
第一楽章の優雅な出だしに、気持ちが救はれます。
とても、不思議な気持ちで運転をしてゐました。

”日本”などといふ国があるとも、ましてや、”山形”などといふ処があるとも夢にも思はなかったかもしれないアマデウス・モーツァルトが創った曲が、二百数十年ののちに、ひとりの中年男の(一瞬でも)気持ちを豊かにさせてくれる、などどー。


今日は、冷え込んだ朝に、昨日と同じ現場へ向かひました。
今日は、ロバータ・フラック、です。
一昨日、昨日と、FMでミニ特集を組んでゐて、何だか、聴きたくなって車中でかけてゐました。
1992年に出た、「ナイト・トゥ・ミュージック」といふアルバム。
文句のつけやうがありません。
伸びのある声。抜群の歌唱力。アレンジの見事さ。バックのプレイヤーの巧さ。
バラッドもありますが、湿度はとても低く、
少し、無機質な都市に似合ふ音楽です。
スタンダードも、さうでない曲も、彼女の歌になってゐます。

かういふ、大人の音楽は、日本では無理なのかしらん?




(写真は、ジャケットより)




雨水近し

2006-02-16 | 大岡山界隈

ここ数日の暖かな陽気で、さすがの雪も融け始めてゐます。
さう、二月下旬から三月上旬にかけてのやうな、
吹き流れる空気も、少しホコリの匂ひがする、春先の気配です。

勿論、まだまだ、雪は降るでせうが、
ウンザリする程の雪の日々が、一日一日遠のいてゆきます。

たったひと冬!の大雪で命を落とした方、
それが原因で家族が離散した方、
仕事のすべを失くした方…。

雪国で生きることは、
やはり、ひとつのアドヴァンテージを取られてゐるのかもしれません。
もちろん、それが、致命的なものではありませんがー。

とまれ、19日は二十四節気のひとつ、雨水、です。
やはり、この季節になると、山形でも、雪が雨に変はってゆきます。






大岡山 02.12

2006-02-13 | 大岡山界隈

市内での用事を済ませた帰路、
降り出した細かな雪の中に、山が浮かんでゐました。

二月も半ばにさしかかり、まだ一面は雪の原ですが、
日差しに暖かさが増し、
空が単色から、わずかながら色が増えてきました。

結局、この冬は、記録的な大雪に悩まされ続けましたが、
雪の季節も、あと一ヶ月ばかり。

おそらく、花の季節は少し遅れるのでせうが、
今はまだ雪に埋もれてゐる侘助がほころぶのを楽しみに、
晩冬の日々を過ごしたいとー。