やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

渡辺暁雄の『復活』

2009-02-14 | 古きテープから


先日、新聞の片隅で、故渡辺暁雄氏の御夫人の死を報じてゐました。
さうか、渡辺暁雄氏が亡くなって二十年ちかく、そして、夫人の死ー。

大事にしてゐるテープを久しぶりに聴いた。

マーラー/交響曲第2番『復活』
指揮者:渡辺暁雄 /日本フィルハーモニー交響楽団
1978、4、8 /東京文化会館にて

30年以上も前の演奏であり、テープですが、幸ひに音の劣化がすくない。
小生も、当日、会場に居合はせてゐた演奏であり、初めて演奏会で聴いた『復活』でした。
確か、当時のパンフレットもあったはずですが、
久しぶりに渡辺氏を常任に迎へ、それを団員及び聴衆が寿ぐやうな”熱い”演奏です。

N響ほどの精緻さは持ち合はせてゐなくても、改めて聴くと、当時の日フィルの底力は凄いものだったことがわかります。

演奏の頭から、力がはいり、特に終楽章は、当夜の祝祭的な雰囲気も後押ししたのでせうが、圧倒的であり、マーラーが願った復活と、日フィルが願った復活とが見事に重なったやうな熱演で、涙がでるほどでした。


コルボのマタイ受難曲

2006-10-07 | 古きテープから


ミシェル・コルボによる<マタイ受難曲>。

1994.11.18.フランス/サルプレイエル・ホール

指揮:ミシェル・コルボ/フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団/ローザンヌ合唱団
 S:ダン・ブラウン/A:ベルナルダ・フィンク/T:クリストフ・ブレガルディエン/B:マルコス・フィンク
 B:ピーター・ハーヴェイ


棚にある多くの<マタイ受難曲>のディスクの中でも、そのベスト3は、クレンペラーによる長大極まるもの、
神の化身!リヒターによる1958年録音のもの、そして、コルボによるもの、です。


このテープも、とても大切にしてゐるもので、コルボによる軽やかなマタイが聴けます。
演奏時間は、約2時間40分!!
クレンペラーのディスクに較べたら、1時間近くも短い!!

第一部の冒頭、”悲しみの道”をたどるやうな合唱は、まるで、ルノアールの、傘をさした婦人の絵のやうに、軽やかで、色と光りに溢れてゐます。
当然、テンポもまるでハミングするやうな足取りでこの物語は始まってゆきます。

コルボは、ディスクの時でもさうでしたが、この受難曲をバロック以降の浪漫的な、涙したたる作品では
なく、バロック以前のルネッサンスの舞曲のやうに形作りたかったのではないでせうか。
(2部の中で、普通はヴィオラ・ダ・ガンバの伴奏で歌はれるバスのアリアも、リュートの優しい音色に代
へてゐます)

独唱者たちの声もみな素敵で、1部の終盤<我がイエスは捕らはれたまふ>のデュエットも、
とても美しい、まさにDuett、の姿です。

そして、何よりも、合唱の素晴しさ!!
手兵のローザンヌの合唱団だからでせう、見事に練り上げられた声の重なり。
海中を泳ぐ魚の群れのやうに、時に収斂し、時に拡散し、
けれど、まったくその過程で破綻がない。

<他人を救ったが、自分自身を救ふことができないイエスよ! 今、十字架から降りてみよ>と憎々しく
合唱するところも凄いが、幾度も出てくる有名なコラールの、なんと優しい声のちから!
第72曲目のそのコラール<いつの日か、われ死なん時>の、涙がでるほどの美しさ!

そして、終曲<我ら、涙ながらに跪き>の勁さと、安らかさと、果ての再生への光りのやうな音楽。


今まで、コルボの演奏(ディスクも演奏会も)には一度も失望したことはありませんが、
それは、彼がプロ中のプロであり、その技術もさることながら、その演奏を通して、”センスのよさ”とは
かくありなん、と自然体で表現できる稀有の才能を持ってゐるからなのかもしれません。

(ちなみに、小生の携帯の着信音は、マタイの終曲、です (*^^*)ポッ )



ムラヴィンスキーのチャイコフスキー

2006-08-09 | 古きテープから


1980年.8.14
エウゲニ・ムラヴィンスキー指揮/レニングラード・フィルハーモニー交響楽団
会場:レニングラード
ソ連テレビ・ラジオ国家委員会提供の録音。

プログラム:チャイコフスキー/交響曲第5番
                 /交響曲第6番


NHK-FMでの、ムラヴィンスキーの追悼番組でした。
26年前の夏の演奏会の模様です。

前年の来日公演の時、楽員の亡命事件が起こり、それかあらぬか、この圧倒的な演奏にしては、
聴衆の反応が冷ややかなのは、気のせいか、当時のソ連の聴衆はこんなものだったのかー。

勿論、ステージ上の指揮者や楽員も、聴衆も、11年後にはソビエト連邦が崩壊するなど、夢にも思はなかっただらうし、レーニンの名を冠したオーケストラの名が消えるなどとは思ってもゐなかったに違ひありません。

当時、既に77歳のムラヴィンスキーは、自らにも、社会的にも忍び寄ってきたそんな気配を跳ね返すやうに、圧倒的な躍動感と邁進力で二つの大曲を演奏してゐます。
(さういふ意味では、晩年、間延びした演奏に陥ったベームとは好対照です。ところが、何故か、ベームの演奏のテープは5~60本は残ってゐるのですがー)

この日の演奏会の演奏時間をみると、第5番が41’32”、第6番が43’46”
共に、その演奏時間はかなり短いし、実際の演奏も、止まることをしらないそれである。

二つの曲とも、楽章間の休みは殆んどなく、聴衆の咳が始まった途端に次の楽章が始まってゐるといったありさまです。


しかし、この演奏は素晴しい。
ムラヴィンスキーは、完璧にオーケストラをコントロール、ドライブし、有無を云はさせず突き進んでゆく。
如何に早くなっても、如何に強打が続いても、ほとんど、音の乱れはない。
(否、ムラヴィンスキーが楽員に対して、それを許さなかったのでせう!)

もったいぶった弱音から強打への移行なんて(カ○ヤンのやうなー)微塵も考えてゐない。
結果、特に5番の交響曲などは、チャイコフスキーが少し気にしてゐたといふ、全体のバランスや各章の有機的な結合の不備が、見事に白日のもとにさらされてしまふ。

しかし、それでも、それがこの曲なのだ、といふ逆説的な証明の、見事な演奏です。
第5番は、1楽章と終楽章が傑出した演奏です。
無慈悲なまでに、音は激しく、強く、そして、疾走してゐる。

第6番は、終楽章に求めるメランコリックなものは微塵もなく、乾いたラストになってゐます。
勿論、ムラヴィンスキーの指揮である以上、至極当り前の演奏ですが、
かういふ、”突き放した哀しみ”の演奏は、孤高ながら、長く残るやうな気がします。

 

 


グルダのモーツァルト協奏曲

2006-04-23 | 古きテープから


1975.5.25/6.1 ヴィーン・コンチェルトハウス
ピアノ:フリードリッヒ・グルダ
指揮:クラウディオ・アバド/ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団
プロブラム:モーツァルト/ピアノ協奏曲第25番(6.1)
              /ピアノ協奏曲第27番(5.25)

花見は数日先に残して、グルダのモーツァルトを聴いてゐました。
1975年ヴィーン芸術週間での、素晴しいライブの模様のテープです。

30年以上前のテープですので、ひたすら保存してゐたのですが、
高音がきついテープでしたが、音は綺麗に残ってゐました。

グルダ、アバド共に40代半ば前後。
結局、4曲の録音しか残さなかった組み合はせ。

グルダ独特の、結晶のやうなモーツァルト!
低音域から高音へと伸びる音の素晴しさ!
アバド/ヴィーン・フィルの、完璧なまでのバック。
ある意味、冷たく硬質なモーツァルトですが、奇跡のやうな演奏です。

25番は、ただならぬ気配の中で演奏が進んでゆきます。
グルダの演奏は勿論ですが、ヴィーン・フィルの演奏が余りにも素晴し過ぎるくらゐ、です。弦の旋律、管のひと吹きがすべて息づいたものになってゐる。

小生は勘違ひしてゐたのですが、グルダ自作の「アリア」が演奏されたのは
この25番の後でした。
騒然とした拍手にせがまれて、突然、グルダは「アリア」を弾き始めます。
氷柱のやうにシンプルで、けれど、祈りを感じさせる、まったき美しいアリア!


27番の演奏は、常にグルダのハミングのやうな声が聞こへてゐて、
モーツァルト死の年の協奏曲云々のエピソードを払ひ除いた、
浄化された音の連なりだけが聞こへてきます。
こと27番に関しては、この演奏がよいのかも知れません。
加へるものも、削るものも一切ない曲ですからー。


それにしても、やはり、グルダの死は早すぎた!




(写真は、ジャケットから)


ヨッフム/バンベルク響来日公演

2006-04-15 | 古きテープから

1982年9月16日.東京文化会館
指揮/オイゲン・ヨッフム/バンベルク交響楽団
プログラム:ベートーヴェン/交響曲第6番「田園」
                /交響曲第7番


第6番の出だしから、引き込まれてしまひました。
フッと息を抜いたやうな、ゆるやかなテンポで始まります。
少し名のあるオーケストラでしたら、「田園」くらゐは指揮者なしでも充分演奏してしまふと思ふのですが、この演奏は、晩年のヨッフムの、指揮者としての存在感がありありと伝はる演奏になってゐます。

ほぼ45分の演奏時間ながら、聴き終はった後の印象は、もっと時間がかかってゐるやうな、とても大きな「田園」になってゐます。
設定された遅めのテンポが、途中でだれることなく、後半の嵐の場面でも、前のめりせず、悠々たる演奏です。
せかせかと前半を飛ばし、後半に山場をつくるやうな、小ざかしい演出はせず、曲の最後の場面でも、ゆっくりと消へ入るやうに、大団円のやうに曲を閉じてゐます。

プログラム後半の、交響曲第7番は、テンポはそれほど遅くせず、正攻法で演奏してゐますが、正直、6番よりは面白みに欠けてゐました。
後半の楽章は、堂々たる石造建築のやうな演奏でしたが、前半の楽章がすこし大人しい感じです。
オーケストラの、少し地味な音色がさうさせてゐたのかもしれません。


ヨッフムが逝って20年近くになりますか。
同じく、バンベルク響と録音した同じ時期のモーツァルトがとても素敵だっただけに、かういふ正攻法の指揮者がいなくなってしまったことに改めて気が付き、残念な思ひのみがわいてきます。



(写真は、ジャケットから)



シェリング/オール・バッハ・コンサート

2005-10-28 | 古きテープから

1976.4.12 東京文化会館
(Vn)ヘンリク・シェリング (Pf)マイケル・イサドーア
プロブラム:1,バッハ/ヴァイオリン・ソナタ第3番
       2,”  /無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番
       3,”  /無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番
       4,”  /ヴァイオリン・ソナタ第6番
       5,”  /”      ”   第1番から「アンダンテ」


30年近くも前、シェリング58歳の時の来日公演。
決して、テープの劣化や時間の経過ばかりではないだらう、改めて聴いて見ると、
思ひのほか、ヴァイオリンの音色に艶がない。
一曲目のヴァイオリン・ソナタなどは、一寸心はずむ演奏には聞こへない。

けれど、有名なパルティータの2番になると、ソロになったせゐなのか、ホールの音響のせゐなのか、奏者のコンディションのせゐなのか、中音域に張りがでて来て
その落ち着いた音色が、30分近くの曲を一気に聴かせるものになる。
終曲「シャコンヌ」は、光り輝く安っぽいビルとは正反対の、古色な建物のやうに、どっしりと光と影に彩られてゐる。

後半の、無伴奏ソナタの1番もまた、妙な美しさを求めない演奏です。
終章のプレストが素晴しく、全体の曲の創り方も、手中の演奏です。


ソロとデュオとの組み合はせとはいへ、全てバッハといふ重いプロブラムにも関はらず、ホールは熱い拍手で閉じられてゐました。



(写真は、LPのジャケットから借用)

クレーメルのベートーヴェン

2005-09-20 | 古きテープから
1977.8.3 ザルツブルク音楽祭大ホール
(Vn)ギドン・クレーメル
指揮:クラウディオ・アバド/ロンドン交響楽団
プログラム:ベートーヴェン/バイオリン協奏曲
       他は不明

若手の筆頭として名を馳せだした頃だったけれど、
驚いたことに、この時、クレーメルは30歳だった。
この数年の後に彼は亡命するのだけれど、既に風格の備はった演奏です。

ベートーヴェンのバイオリン協奏曲なんて、そんなに日常的に聴くものではないけれど(少なくとも小生は)、ゆっくりとした冒頭のティンパニの連打と、
続く厚い響きに耳をそばだててしまひました。
そして、クレーメルのバイオリン。
美しい音色で、けれどそれが弱さになってゐないところが素敵です。
第一楽章のカデンツァが素晴しい。
クレーメル得意の、シュニトケのものでせうが、ティンパニとからませてブラームスのバイオリン協奏曲からのリズムなどが出て来るところなんて、実にスリリング!

それにしても、この頃のアバドのよさを再認識。
彼はのちに、ウィーン・フィルやベルリン・フィルとの組み合はせで、”整った”
演奏をするやうになってしまふけれど、この頃はまだそんな”名誉な”組み合はせを夢だに思ってゐなかったからか、ロンドン響を気持ちよくドライブしながら、若手のバイオリニストに丁寧なバックをつけてゐます。

ブリュッヘン/18世紀オーケストラ演奏会

2005-09-12 | 古きテープから
1991.5.16 ウィーン・コンツェルトハウス大ホール
指揮:フランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラ
   Cl:エリック・フーブリッヒ
プログラム:①モーツァルト/交響曲第31番「パリ」
       ②  ”    /クラリネット協奏曲
       ③  ”    /交響曲第38番「プラーグ」
  
久しぶりに聴いた18世紀オーケストラの音は、やはり新鮮でした。
80年代の初め、ブリュッヘンのコンセプトのもとに設立された同オーケストラは
、10年後のこの演奏会のやうに、80年代末の録音等を経て、まとまりと自信を確保してゐたのかもしれない。

”当時の音と演奏を再現”と云っても、それを図る為のすべはなく(資料はあったとしても)、やはり、指揮者や奏者のコンセプトや力量に負ふ処が多いのは当たり前かもしれません。
さういふ意味では、やはり、ブリュッヘンといふ音楽家は、傑出してゐます。

メリハリの強い31番の演奏に続いて、クラリネット協奏曲が素晴しい。
オリジナル楽器なので、音量はやせて小さく、ふくよかさも足りないけれど、
ある意味、このK622(死の年、それも2カ月ほど前に出来た作品)によく云はれる、諦めや祈りのやうな演奏ではなく、きっちりと前を見定めた演奏です。
生きる、生きながらへる意志を伴った演奏です。

妻コンスタンチェは30歳を前に夫に先立たれ、狂はんばかりに嘆き悲しんだ後、
二人の息子と共にたくましく生きながらへてゆく。
小生は、このあたりの話に大変興味があり、調べてもゐるのですが、そのたくましさ(女性ゆゑ?)につながってゆくやうな、つよさが印象的な演奏です。

プログラム最後の38番の交響曲は、曲の最初から壮大な祝典的な演奏を目指してゐます。
《フィガロの結婚》を熱狂して受け入れてくれたプラハの人達への手持ち土産的なこの交響曲は、あるひは、こんな演奏がイメージに近いのかもしれません。

31歳の、得意満面のアマデウスの笑みが、拍手を待ち切れずに聞いてゐるプラハの聴衆の姿が浮かぶやうな演奏です。

そして、この頃を境に、峠を越へたやうに、アマデウスの生活も変はり、作風も野望から他の追随を許さない軽みの世界へ入ってゆくのですが、それが見へ隠れしてゐるやうな演奏でもあります。


      

クレンペラー/マーラー「復活」

2005-08-26 | 古きテープから
1963.12.19 英国・ロイヤルフェスティバルホール
指揮:オットー・クレンペラー/フィルハモニア管弦楽団、同合唱団
    ソプラノ:ヘザー・ハーバー アルト:ジャネット・ベーカー
プログラム:①モーツァルト/交響曲第29番
       ②マーラー/交響曲第2番「復活」

BBCのライブラリーを放送したものです。

クレンペラーの「復活」は、スタジオ録音やライブのものを含めて、幾枚かの
CDが棚にありますが、この演奏もクレンペラーらしい、ゴツゴツとした演奏です。

第2楽章の、”過去の回想”のテーマが、行きつ戻りつしながら進んでゆく。
軽やかなワルツのやうに演奏する人もゐるけれど、成る程、それは陽射しあふれる
人の過去のやうでもあるけれど、このコレンペラーの演奏は、まるで挫折に次ぐ挫折の人のやうな、あるひはクレンペラー自身の人生のやうな演奏です。
(でも、だからと云って、営みを止める訳にもゆかない)

終楽章も、ゆったりとしたテンポをとりながら、この混乱した音と旋律の世界から光りを求めるために突き進んでゆく。
いつもながら、凄愴な世界です。
「マーラー先生、無茶苦茶ですがなー」といふ、混濁の世界から、クレンペラーはテンポを落すことで見へてくるかもしれない間の世界を創りださうとしてゐる。
(あの、凄まじく遅いマタイ受難曲もしかり)

終楽章の後半、声楽の出だしの合唱の響きが素晴しい。
コンサートでもこの部分に満足することが少ないのですが、特に日本の合唱団だと
上手く歌ってしまふ。さうではなくて、濁りの人の声から、やがてアルトとソプラノが飛び立つやうに
 ”かたく信じなさい わが心よ! 
  お前が何も失ってゐないことを!”
と、歌って欲しいと常々勝手に思ってゐます、ので。

一曲めのモーツァルトも素晴しい。
おそらく、今では29番の交響曲を(モーツァルトが18歳!)こんな風に大人びて演奏する人はゐないでせう。
以前から、クレンペラーのモーツァルトは25番と29番が好きでしたが、(いはゆる、後期のものはかなりあっさりとし過ぎてゐてー)、この演奏は、78歳のクレンペラーが、まう一度、違ふかたちのモーツァルトを創ってみやうと思ってゐたかもしれない、追従を許さない演奏です。

スウィトナー/ベルリン国立歌劇場管弦楽団来日公演

2005-08-17 | 古きテープから
1978.10.25 東京・厚生年金会館ホール
指揮:オトマール・スウィトナー/ベルリン国立歌劇場管弦楽団
プログラム:1.モーツァルト/交響曲第39番
       2. ”      /交響曲第40番
       3. ”      /交響曲第41番
       4.アンコール モーツァルト/「フィガロの結婚」序曲

四半世紀以上も前のテープです。
生中継されたものをとったもので、そのせゐか、音はよく残ってゐます。
引退をしてしまった(色々な説が出てゐましたが)スウィトナーの
全盛期をしのぶよすがの演奏です。

一曲めの39番から、くすんだ音色のモーツァルトが始まる。
ずゐぶんと久しく、こんなモーツァルトは聴いてゐなかったやうな気がします。
あるひは、テープのせゐかもしれない(何せ、70年後半ですから)。
あるひは、ホールのせゐかもしれない(何せ、厚生年金ホール!)。
でも聴き込んでゆくと、やはり、さういふ音色、演奏なのだと思ふ。
中・低音がずっしりとしてゐて、指揮者の好みもあるのでせう、
派手さを抑へた、江戸時代の利休鼠色やうな演奏です。

続く40番も、実際の演奏時間よりもゆったりと構へた演奏に聞へます。
情に走ることなく、積み上げられたマスとしてのモーツァルトの演奏が
あります。妙な仕掛けや、計算はありません。
後半の、音楽が加速してゆく処も、妙にせかせかした処がなく、王道の演奏です。

最後の41番は、CDの演奏と同様、徐々に曲の大きさが現れてきます。
終楽章のフーガが素晴しい。
ここでも、中・低音の響きは素晴しく、単なる旋律の追ひかけではなく、
追ひついた音が、スパイラルになりながらラストへと向かひます。
まう、ベートーヴェンの音楽が間近に迫った演奏です。

アンコールの「フィガロ」がまた素晴しい。
モーツァルトの最後の三大交響曲を終へたばかりだといふのに、その音楽の
何と瑞々しく始まることか!
手練れの曲だからと云へばそれまでですが、序曲とはかくありなん、といふ
演奏です。

中継の進行役が、何と、大木正興さん、でした。懐かしい、です。
小生は、この方に私淑した、といってもよいくらゐ入れ込みました。
この方の、音楽を聴くことは生きてゆく為の糧(カテ)をそこに求めることだ、
といふ頑固なまでの音楽観に今もって共鳴してゐます。
その、糧がわからないまま、30年以上も聴いてはゐますがー。