ウクライナ情勢についての虚偽だらけの情報について、幸い「ある程度軍事的知識があるので自分で考えることができる」のでブログ発信を続けています。それは医師としての医学的科学的専門知識からコロナの虚偽が透けて見えるので正しい情報を発信していることと同じで、たまたま世界で起きた大きな事件が、自分が解析可能な分野であったことなのだと考えています。ウクライナで問題にされるブチャにおける虐殺事件の真相について、私のブログでも取り上げようと思ったのですが、ここやここ英語で読みたい人はここで十分説得力のある事実解析がされているので自分では取り上げる事はやめました。むしろNHKを含む日本のメディアは何故一方的な見方をしたニュースしか報道しないのか、またそんなレベルの低いニュースを日本国民はなぜ疑問を抱かずにそのまま信じてしまうのかという方が不思議で仕方ありません。今回はその構造について考えてみました。
I. 日本の教育構造
自分は一応大学教員として教育職の片隅に身を置く存在ですが、日本における教育の構造は大きくは下記の様になっています。
◯ 義務教育(小中) 社会で生きて行くための基本的知識を学ぶ 答えを教える。
◯ 高校・専門学校 より高度な知識、技能を身につける。答えが必ず出る問題を問う。
◯ 大学教育 答えの出ない問題の考え方を身につける。
◯ 大学院以上 常識や定説にとらわれない最先端の研究を行う(文明の牽引役)。
医学教育で問題にされるのは、医学部が大学教育でありながら、国家試験という答えの出る問題を解く知識を得るための「専門学校」と化している実態です。接する学生達には、「大学生であるからには答えのでない問題をいかに考えるか」について学ぶよう話しています。例えば「高齢者の癌治療は若年者と同じでよいか。」「複数の疾患を持つ人の治療の優先順位をどうするか。」といった事です。
II. テレビニュースは中学3年が理解できる内容
以前聞いた話で、「テレビのバラエティ番組は小学校3年生が理解できるレベルで作る。」「ニュースは中学3年生が理解できるレベルで作る。」という基準があるそうです。そんな物かと思いましたが、上記の規定から考えると「両論併記で結論の出ない命題はニュースにならない」事になります。「ブチャという場所で市民の虐殺があった。」という事実のみをニュースとして伝えても良いのでしょうが、「それなりの権威筋が(ロシアが犯人)」と断定しているからには別の権威筋はこうかも、別の説ではちがうかも、のような論説を短い時間で流す事ができないから「答えを教える=押し付ける」形のニュースになるのだと思われます。結果的に「伝えた全てが真実であるか」までは担保できないことになります。少し話題を深堀できるバラエティのサンデーモーニングで先日コメンテイターの本橋氏だったかが「我々が伝えている記事も欧米の諜報機関が出したものが元であったりするから注意して考える必要がある。」とコメントの終わりの方で小さい声で伝えていたのが彼女なりのジャーナリストとしての良心なのだなと感ずる程度で、大きい声で聞こえてくるほぼ全ての日本の大手メディアは「プロパガンダ」の域を出ないものばかりです。
III. いよいよ刹那でしか判断しない社会へ
日本の大学進学率は2020年度で54%でしたが、大学を卒業した人が皆答えのでない問題について深く考える習慣などないでしょうし、「え?大学ってそんな事学ぶ所だったの?」という人の方が多いでしょう。しかも例え普段から深くいろいろ考えて生きようとしても、それを許さない現代環境というものもあります。IT化によって「大量の情報を瞬時に処理するコンピューター」に人間が合わせないと行けない状況がまさにそれでしょう。かく言う私も「電子カルテ化」が進むにつれて、患者さんと話す時間よりもコンピューターに情報を打ち込む時間の方が多くなり、「答えの出ない医療上の問題」を考える余裕なく、結論をコンピューターの選択肢から(検査)や(投薬)、(診療報酬点数)を打ち込んで「終了」ボタンを押さないと患者さんの処方も会計もできない仕組みになっていて、ほぼ「刹那でしか判断しない医療」になりつつあります。社会におけるそれぞれの専門家は、自分の専門領域については深い知識もあるでしょうが、それ以外の分野においては大量の情報から導き出された「結論」をある程度鵜呑みにして次に進まなければ「遅い!」という叱責を受けかねない状況にあるのが現代と思います。
だからこそ慎重に結論を出さねばならないような「重要な社会問題」は各人が自分で考えられるような「種々の見方からの情報」を判断や結論を急ぐ事無く示す事が大切になるのですが、こういった警鐘を鳴らす文化人?が絶滅危惧種になっているのです。いっその事ITの進化によって「これは急いで結論を出すのはNGという判断もコンピューターによって出される」様になった方が、皆が従うのかも知れません。