医療事故について
医療事故の報道に対して批判的な記事を書いてきましたが、実は職場では医療安全管理の委員などをしていて、医療事故が起きないため種々検討をしている立場にあります。医療事故をなくす対策はやはり欧米での検討が日本よりも進んでいるのですが、それらの手本となったのは航空機事故に対する安全対策です。日本も営団地下鉄の事故以来、国土交通省の航空機事故調査委員会が鉄道事故に対しても公的な立場から事故調査にあたる体制がとられているようです。
医療事故に対しても常設の事故調査委員会を公的機関に設けようとしています。私は医療事故が司法における金儲けの種になりつつある現状を憂いますので常設された公的機関における裁定が正しく行われるならば歓迎します。医療制度の改善を目的とした訴訟は有益ですが金を取ることを目的とした医療訴訟は日本の医療を荒廃に導くだけでありもう止めるべきです。
航空機事故においても医療においても事故原因の分類として、大きく2つに分けられています。それは、
(1)ルール違反によるもの。
(2)ミスによるもの。
に大別され、そのうち(2)のミスは、
(ア)確信に基づく判断ミス
(イ)不可抗力によるもの
(ウ)うっかりミスによるもの
に分けられます。信号無視をした車が通行人をはねたなどという交通事故は(1)のルール違反によるものであり、避けることができた事故ということになります。抗がん剤投与や輸血の際には必ず複数の人間が確認してから行うというルールがありますが、このルールを怠って単独で投与して間違いを起こしたらやはりルール違反が原因の事故となります。この場合ルール違反をした人が明らかに悪いのですから処罰の対象となるでしょう。しかしルール違反を犯さざるを得ない状況を周囲や組織が作っていたとしたら事故を起こしたのは個人でもそれは組織の管理体制の不備の結果として起こったわけであり、組織の責任も免れません。
さて、(2)のミスのうち、(イ)の不可抗力によるものは個人の責任を絶対に追及してはいけません。通常問題ないものがある個人の特異体質によって医療事故になった場合、突然飛び出した熊を避けきれずに交通事故をおこした場合個人の責任を追及しても何も解決しません。ここで大切なのはフェイルセーフ(事故になっても中の人が安全とか)の対策でしょう。
(ウ)のうっかりは注意義務違反として処罰の対象となる可能性があります。しかしヒトは間違いを犯すものという前提でうっかりしていても間違えないようにする工夫フールプルーフ(酸素をつなぐ管は麻酔ガスと合わない接合部を持つなどサルでも間違わない工夫)という安全対策によって従事者を罪人にしない対策ができます。
では(ア)の確信に基づく失敗はどうでしょう。これは個人の責任を問えるでしょうか。医療の場合、誤診や手術の失敗、小さなところでは入ると思って穿刺した血管が細くて点滴を失敗したなどかなり多く見られます。車の運転でも交差点での右折事故などがこれにあたるでしょう。
多くの場合、結果がよければこれらの事象は多少冒険的であっても許されるものです。特に医療の場合、結果がよいことは直接患者さんの幸福になり、医療の目的を果たすことになり、医療者自身も賞賛を得られることから冒険的になる場合が多いのです。これは確実という医療しか行わないことを萎縮医療といい、医療の進歩発展はなくなります。医療がここまで進歩したのは多くの冒険と失敗があったからに他なりません。私は説明と納得(インフォームドコンセント)に基づくものならば失敗の責任を問うべきではないと考えます。勿論説明すれば何をやってもよい、どんな下手が手術をして失敗しようがOkなどということはありません。物事には常識的限度というものがあります。
事故に関する報道を見るとき、責任の追及や今後の改善策が論理的に整理されてなされているかが気になるところです。小生、特に確信に基づく失敗についてどう扱うかで報道機関の力量や社会の成熟度まで判断できるのではないかと思います。
医療事故の報道に対して批判的な記事を書いてきましたが、実は職場では医療安全管理の委員などをしていて、医療事故が起きないため種々検討をしている立場にあります。医療事故をなくす対策はやはり欧米での検討が日本よりも進んでいるのですが、それらの手本となったのは航空機事故に対する安全対策です。日本も営団地下鉄の事故以来、国土交通省の航空機事故調査委員会が鉄道事故に対しても公的な立場から事故調査にあたる体制がとられているようです。
医療事故に対しても常設の事故調査委員会を公的機関に設けようとしています。私は医療事故が司法における金儲けの種になりつつある現状を憂いますので常設された公的機関における裁定が正しく行われるならば歓迎します。医療制度の改善を目的とした訴訟は有益ですが金を取ることを目的とした医療訴訟は日本の医療を荒廃に導くだけでありもう止めるべきです。
航空機事故においても医療においても事故原因の分類として、大きく2つに分けられています。それは、
(1)ルール違反によるもの。
(2)ミスによるもの。
に大別され、そのうち(2)のミスは、
(ア)確信に基づく判断ミス
(イ)不可抗力によるもの
(ウ)うっかりミスによるもの
に分けられます。信号無視をした車が通行人をはねたなどという交通事故は(1)のルール違反によるものであり、避けることができた事故ということになります。抗がん剤投与や輸血の際には必ず複数の人間が確認してから行うというルールがありますが、このルールを怠って単独で投与して間違いを起こしたらやはりルール違反が原因の事故となります。この場合ルール違反をした人が明らかに悪いのですから処罰の対象となるでしょう。しかしルール違反を犯さざるを得ない状況を周囲や組織が作っていたとしたら事故を起こしたのは個人でもそれは組織の管理体制の不備の結果として起こったわけであり、組織の責任も免れません。
さて、(2)のミスのうち、(イ)の不可抗力によるものは個人の責任を絶対に追及してはいけません。通常問題ないものがある個人の特異体質によって医療事故になった場合、突然飛び出した熊を避けきれずに交通事故をおこした場合個人の責任を追及しても何も解決しません。ここで大切なのはフェイルセーフ(事故になっても中の人が安全とか)の対策でしょう。
(ウ)のうっかりは注意義務違反として処罰の対象となる可能性があります。しかしヒトは間違いを犯すものという前提でうっかりしていても間違えないようにする工夫フールプルーフ(酸素をつなぐ管は麻酔ガスと合わない接合部を持つなどサルでも間違わない工夫)という安全対策によって従事者を罪人にしない対策ができます。
では(ア)の確信に基づく失敗はどうでしょう。これは個人の責任を問えるでしょうか。医療の場合、誤診や手術の失敗、小さなところでは入ると思って穿刺した血管が細くて点滴を失敗したなどかなり多く見られます。車の運転でも交差点での右折事故などがこれにあたるでしょう。
多くの場合、結果がよければこれらの事象は多少冒険的であっても許されるものです。特に医療の場合、結果がよいことは直接患者さんの幸福になり、医療の目的を果たすことになり、医療者自身も賞賛を得られることから冒険的になる場合が多いのです。これは確実という医療しか行わないことを萎縮医療といい、医療の進歩発展はなくなります。医療がここまで進歩したのは多くの冒険と失敗があったからに他なりません。私は説明と納得(インフォームドコンセント)に基づくものならば失敗の責任を問うべきではないと考えます。勿論説明すれば何をやってもよい、どんな下手が手術をして失敗しようがOkなどということはありません。物事には常識的限度というものがあります。
事故に関する報道を見るとき、責任の追及や今後の改善策が論理的に整理されてなされているかが気になるところです。小生、特に確信に基づく失敗についてどう扱うかで報道機関の力量や社会の成熟度まで判断できるのではないかと思います。