rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 「甘えの構造」 

2008-05-15 00:09:01 | 書評
書評 「甘えの構造」 土井健男 著

私は大学時代に読んだのだが現在の日本がやはり日本独特の「甘えの構造」にはまっているのではないかと感じて再度購入した。60年代から刷数を重ねているロングセラーの本であり、今読み返しても内容に古さを感じさせない。

大略は「甘え」なる語彙は日本語独特のものであり、欧米にはこれに相当する概念がない。キリスト教的な「奪う愛」と「与える愛」の関係とも異なり、「甘え」には相手を甘えさせる「我」の方にも「見返り」の期待が内在する。

「甘え」の概念は日本ではあまりに日常的になっているから日本人はつい世界でも通用すると思ってしまい外国人から誤解を受けたり、独りよがりの禅譲をして損をする。「甘え」は精神分析においても有用な概念であり、外国人にもこの概念を当てはめると理解しやすい場合がある、といったものだ。

日本的な行動すべてを「甘え」で説明しようとするやや強引なところもある本だが、精神科医としての分析的手法で論を積み上げる著者の論理は説得力がある。私には最近日本で問題になっている多くの事も「甘え」が土台になっているように感ずる。

以下は私見ですが、例えば医療ミスで医師がカルテを改ざんする行為は、「普段は一生懸命医療を行っていて、たまたま失敗してしまった事は次の患者さんに生かせばよいだろうから」許されるのだ、と理由づけて行われるものだ。この普段身を削って、寝る間も惜しんで医療に挺身しているのだから失敗を隠匿することを許されてもよいだろうというのは「甘え」である。

普段安月給で家庭も十分省みず、ボロい官舎に住んで日夜国民のために身を危険にさらしているのだから警察の捜査費用を一部交際費に流用しても許されるだろう、というのも「甘え」である。基本的に警察官は真面目で熱心であるからこそ「仲間うちで自由に使える金」を国が困らない程度に捻出することは、悪い事と自覚していても罪悪感はないのである。

中国や朝鮮のしつこい戦争責任追及に対して、「心から謝罪すれば、恨みは水に流してくれる」と考えていることも「甘え」にほかならない。謝罪されて恨みを忘れるのは日本人だけである。

中国では「謝罪される」とは相手の首を掻き切って高々と上げる行為を言う。歴史書を見ればわかる。だから中国人は絶対に「謝罪」などしないのである。日本人は歴代の首相が毎回謝罪の言葉を述べるのにその後も謝罪を求められることでかえって中国への反感を高めているが、それは日本人が言葉の上での謝罪に対して「きっと恨みを水に流してくれるだろう」という期待を持っているからである。謝罪しているのに許さない態度を日本人は「無礼」とみなすが中国人は謝っているのに首を差し出さない(ありていに言えば中国の属国にならない)から謝っているとは認めないのだろう。

私には中国、朝鮮とうまくやってゆくには謝罪など金輪際せずに丁々発止、利を求めて渡り合うことで相互の理解を深めてゆくのがよいと思っている。中国には程々に勝つ、程々に負けるという考えがある。また弱みを見せると「水に落ちた犬を叩く」という考えもある。政治経済研究家の副島隆彦氏は著書で「アジア人同士戦わず」とことあるごとに主張しておられる。それは正しい主張だと思いますが、その本意は「欧米を利するためのアジア人同士の戦争をせず」という意味であると私は解釈している。相手と喧嘩することは殺し合いの戦争とイコールではない。
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