rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

TROTZDEM BEHANDRUNG

2008-05-08 22:09:41 | 医療
TROTZDEM BEHANDRUNG

Trotzdem Behandrung というのは「治療したにもかかわらず(良くなった)」という意味のドイツ語で医学部の学生時代に老教授から習った言葉です。つまり人間は本来持っている自然の治癒力で病気を治しているのであって、医療はその自然の治癒力を邪魔しないように、願わくば補助するように行えれば「良い医療」といえるのだ、という意味で、とかく「俺が治してやった」と思い上がる傾向のある医師を戒めるための自戒をこめた言葉です。

一昔前の医療とはまさに自然の治癒力を助けるための医療であり、自分で治る限界を超えた病気は諦めるしかないものでした。しかし医療の進歩は生物が本来持っている自然治癒力を超えた治療を行って、以前は不治の病として諦めていた疾患も治癒するようになってきました。不妊治療や移植医療などが典型ですが、心筋梗塞や脳梗塞も早期であれば詰まった部位の血栓を溶解して取り除くことで元通りの機能を保つことができるようになってきました。

ここで困ったことが起きてきました。1)自然治癒力以上の医療を行うということは、人の生き死にの決定を医療者が行うということであり、医療者が「神の手」を持つということで、うまく行けば問題ないもののうまく行かなかった時には医療行為が直接「死」につながるということ。2)「神の手」はすべての医者、すべての病院が同じ能力を持つことができないこと。3)そのような医療は恩恵を受ける当事者には福音であるけれども、人類全体には必ずしも「善」であるとは限らないこと、です。

3)は別の機会に述べるとして、1,2について考察します。前回医療は「現実」であって「夢」ではないという話をしましたが、医者が神でなく人間である以上Aという医師とBという医師がいれば同じ手術を行うにも技術の優劣があります。また医療は同じ結果を出すことを要求されても素材を選ぶことができない。プロの料理人は素材を選び抜いて良い料理を作ることができますが、医師は治す病気が一つだけの生きの良い患者さんでも、たくさんの病気をかかえた年老いた患者さんでも同じ結果を出すことを要求されるわけです。また最新医療というのは設備投資にも金がかかります。年間100例に使う場合と3-4例にしか使わない場合では1例あたりにかかるコストが違いすぎることになり後者は採算がとれないことになります。

前回「すべての国民はあまねく最高の医療が受けられねばならない」という考えは間違いとはいえないけれど「夢」でありそのようなコストは誰も払うつもりはないし、払えないという話をしました。しかしこの数年メディアをにぎわせている医療問題のいくつかはこれらの現実を無視した「無理な注文」をしていないでしょうか。「すべての医者は同じ能力、同じ技術を持て」と言っていないでしょうか。「すべての患者に同じ結果を出せ」「失敗は許さない」と言っていないでしょうか。「どんな地方の病院でも都心の大病院と同じ機能を持たせろ」と言っていないでしょうか。「これらの要求が満たされないのは医療者の努力が足りない」と言ってないでしょうか。

やや被害妄想的な物言いになりましたが、大事なことは我々医療者も「できないことはできない」とはっきり言わなかったことに問題があります。また国民の側も医学の進歩を当たり前のことと安易に考えすぎていて「人間は死ぬものだ」「自然治癒力を超えた医療を受けて命が助かることは幸運なことである」という感覚をしっかりもつことが大事だと思います。その上で個々の事例については医師と患者、医療全体については政府と国民があるべき医療の目標を率直に語ることができれば医療問題の解決が見えてくるように思います。
コメント
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