いま,ぼくの勤務先である大学は厳戒体制がしかれている。IDカードがないと研究棟にも入れない。その理由はいうまでもなく,入試が始まっているからだ。当然,ぼくにも「仕事」が回ってくる。前任校では数年に一度の仕事が,毎年5日! しかもそれに付随する重大業務が何日分かあって,しばらく忙殺される。その大学に人気が出て受験者が増えると,教職員は忙しくなる。仕方ない,いや,ありがたいことだとと思うべきか・・・。
受験生を見ていると,はるか遠く昔の記憶が甦る。その緊張感やストレスは,自分にはもはやない。かつて自分には,受験というものを呪う気持ちがあったはずだ。しかし,その後の人生のなかでそんな気持ちはどこかに消えてしまい,いまではそれを執行する側にいる。試験に受かるかどうかは,本人の努力と運によって決まる。試験監督のことなど,受験生は誰も覚えていないだろう。ぼくは顔のない立会人として,そこにいるだけである。
多くの受験生は,できるだけ「偏差値が高い」大学に入りたいと願う。大学も,できるだけ「偏差値が高い」学生に来てもらいたいと願う。偏差値が作り出す秩序のもとで,当然ながら「下流」とか「三流」に位置づけられる大学が出てくる。そして,そういう大学へ進学する学生たちがいる。下流といわれてうれしい人間はそうはいない。だから,自分の進む大学は一流ではないとしても,少なくとも下流ではない,と誰もが思いたい。
ネットのQ&Aサイトに,私が受験したい××大学は「下流大学」でしょうか,どこからが下流なんでしょうか,といった相談があった。××大学は(かろうじて)違います,と聞けば,質問者は安心するのだろうか。いうまでもなく,それは相対的な概念なので,どこで切るかは恣意的だ。極論すれば,日本で一流といわれる大学でも,世界のレベルでは「下流」になり得る。だから無意味だといわれても,線引きしたいのが人の悲しい性だ。
『下流大学に入ろう!』という,刺激的なタイトルの本がある。冒頭で,偏差値に基づく「下流」の定義が試みられるが,それは本論のための準備作業でしかない。本書の主眼は,下流とされる大学でも,優れた教育上の取り組みをしている例があることを示すことにある。さらには,上流と目される大学で,学生たちはきちんと勉強する環境に置かれているのか,という問題提起もなされている。この指摘は,痛い部分を突いている。
この本は,いうまでもなく三浦展氏の『下流大学が日本を滅ぼす!』へのアンチテーゼとして書かれている。著者の山内太地氏は,最近の大学生はいわれるほど勉強しないわけでも,バカでもないという。それはむしろ高度成長期に,大学がレジャーランド化したといわれた頃の話で,企業の人事担当者は,そうした自分たちの記憶に基づく誤った思い込みのうえに立って,大学4年間の成績を無視した学生の採用をしていると批判する。
いま,学生の採用面接は3年生の後半から始まる。だから,ゼミで何を勉強したとか,卒論で何を書いたかなど,全く採用に反映されない。企業が関心を持っているのは,結局その学生が大学入試で示した学力だけのようにみえる。大学で受けた教育で学生が変わる可能性は,採用ではほとんど考慮されない。企業が大学に期待する機能は,入試に合格したかどうかに基づく,学生の能力のラベルづけだけになってしまう。
一流大学ほどそれが実態に近いので,一流大学を卒業した企業人はそう思い込んでいるが,偏差値の低い大学でも独自の教育を実施し,学生の力を向上させようとしている例がある,と本書は主張する。たとえば,帝京科学大学(山梨)のアニマルサイエンス学科や酪農学園大学(北海道)など,卒業生の想定進路先でユニークなポジショニングをしている。みんなが期待された進路に進むわけではないが,それをいえば法学部だって同じだ。
比較的小規模な大学にとって,ポーターの戦略論ではないが,あるニッチにフォーカスすることが有効になる。ただし,狙いとした職業的ニッチが不安定な場合は大変だ。美味しいニッチを見つければ,大手が参入してくる。他方,研究面でユニークなポジショニングをする例もある。脳科学で立て続けにCOEを取っている玉川大学がそうだ。ある分野の研究拠点を作るという戦略はまさに王道である。そこから学ぶべきことは多いはずだ。
著者が投げかけるもう一つの問題は,日本の大学に真のリベラルアーツがほとんどない,ということだ。時代に合った職業的スキルを提供するのはそれなりによい戦略だが,時代に相応しい「教養」の提供,という戦略とはかなり違う。これは,すごく重要な問題で,いまのぼくに何か発言できることは何もない。ただそこに,大きな鍵があることだけはわかる。あるいは,もしかすると絶望的な答えに行き着くかもしれない・・・。
いずれにしろ,大学のさまざまな試みに対して,学生たちはメリットを享受しているだろうか。この判断は難しい。何十年か経って,人生についてそれなりの評価ができるときに,どの大学を出たか,どういうプログラムを受講したかによって有意差が現れているだろうか。しかし,そんな検定は事実上不可能だ。あとは,卒業生たちが主観的に満足しているかどうかだ。大学進学は投資ではなく消費なのだから。
受験生を見ていると,はるか遠く昔の記憶が甦る。その緊張感やストレスは,自分にはもはやない。かつて自分には,受験というものを呪う気持ちがあったはずだ。しかし,その後の人生のなかでそんな気持ちはどこかに消えてしまい,いまではそれを執行する側にいる。試験に受かるかどうかは,本人の努力と運によって決まる。試験監督のことなど,受験生は誰も覚えていないだろう。ぼくは顔のない立会人として,そこにいるだけである。
多くの受験生は,できるだけ「偏差値が高い」大学に入りたいと願う。大学も,できるだけ「偏差値が高い」学生に来てもらいたいと願う。偏差値が作り出す秩序のもとで,当然ながら「下流」とか「三流」に位置づけられる大学が出てくる。そして,そういう大学へ進学する学生たちがいる。下流といわれてうれしい人間はそうはいない。だから,自分の進む大学は一流ではないとしても,少なくとも下流ではない,と誰もが思いたい。
ネットのQ&Aサイトに,私が受験したい××大学は「下流大学」でしょうか,どこからが下流なんでしょうか,といった相談があった。××大学は(かろうじて)違います,と聞けば,質問者は安心するのだろうか。いうまでもなく,それは相対的な概念なので,どこで切るかは恣意的だ。極論すれば,日本で一流といわれる大学でも,世界のレベルでは「下流」になり得る。だから無意味だといわれても,線引きしたいのが人の悲しい性だ。
『下流大学に入ろう!』という,刺激的なタイトルの本がある。冒頭で,偏差値に基づく「下流」の定義が試みられるが,それは本論のための準備作業でしかない。本書の主眼は,下流とされる大学でも,優れた教育上の取り組みをしている例があることを示すことにある。さらには,上流と目される大学で,学生たちはきちんと勉強する環境に置かれているのか,という問題提起もなされている。この指摘は,痛い部分を突いている。
下流大学に入ろう! (光文社ペーパーバックス)山内太地光文社このアイテムの詳細を見る |
この本は,いうまでもなく三浦展氏の『下流大学が日本を滅ぼす!』へのアンチテーゼとして書かれている。著者の山内太地氏は,最近の大学生はいわれるほど勉強しないわけでも,バカでもないという。それはむしろ高度成長期に,大学がレジャーランド化したといわれた頃の話で,企業の人事担当者は,そうした自分たちの記憶に基づく誤った思い込みのうえに立って,大学4年間の成績を無視した学生の採用をしていると批判する。
いま,学生の採用面接は3年生の後半から始まる。だから,ゼミで何を勉強したとか,卒論で何を書いたかなど,全く採用に反映されない。企業が関心を持っているのは,結局その学生が大学入試で示した学力だけのようにみえる。大学で受けた教育で学生が変わる可能性は,採用ではほとんど考慮されない。企業が大学に期待する機能は,入試に合格したかどうかに基づく,学生の能力のラベルづけだけになってしまう。
一流大学ほどそれが実態に近いので,一流大学を卒業した企業人はそう思い込んでいるが,偏差値の低い大学でも独自の教育を実施し,学生の力を向上させようとしている例がある,と本書は主張する。たとえば,帝京科学大学(山梨)のアニマルサイエンス学科や酪農学園大学(北海道)など,卒業生の想定進路先でユニークなポジショニングをしている。みんなが期待された進路に進むわけではないが,それをいえば法学部だって同じだ。
比較的小規模な大学にとって,ポーターの戦略論ではないが,あるニッチにフォーカスすることが有効になる。ただし,狙いとした職業的ニッチが不安定な場合は大変だ。美味しいニッチを見つければ,大手が参入してくる。他方,研究面でユニークなポジショニングをする例もある。脳科学で立て続けにCOEを取っている玉川大学がそうだ。ある分野の研究拠点を作るという戦略はまさに王道である。そこから学ぶべきことは多いはずだ。
著者が投げかけるもう一つの問題は,日本の大学に真のリベラルアーツがほとんどない,ということだ。時代に合った職業的スキルを提供するのはそれなりによい戦略だが,時代に相応しい「教養」の提供,という戦略とはかなり違う。これは,すごく重要な問題で,いまのぼくに何か発言できることは何もない。ただそこに,大きな鍵があることだけはわかる。あるいは,もしかすると絶望的な答えに行き着くかもしれない・・・。
いずれにしろ,大学のさまざまな試みに対して,学生たちはメリットを享受しているだろうか。この判断は難しい。何十年か経って,人生についてそれなりの評価ができるときに,どの大学を出たか,どういうプログラムを受講したかによって有意差が現れているだろうか。しかし,そんな検定は事実上不可能だ。あとは,卒業生たちが主観的に満足しているかどうかだ。大学進学は投資ではなく消費なのだから。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
メール kurikin@juno.ocn.ne.jp