Mizuno on Marketing

あるマーケティング研究者の思考と行動

希望がない世界での希望

2009-04-17 23:01:54 | Weblog
本屋で以下の表紙を見かけたとき,一瞬「朝日ジャーナル」復刊か,と思ったが,どうも「週刊朝日」の増刊号としての一時的復刊のようだ。なぜいまなのか?蟹工船ブームの次を狙っているのか? 巻頭言で編集長は以下のように書いている:
・・・そして何よりも見過ごせないのは、就職や内定取り消しなどで受難が続く若者たちが、この国の将来に「希望」を見出せないことである。「展望のない国に、希望を持てない若者たち」。この国はどこへ行こうとしているのか。いまこの時代に「ジャーナル」があったら,どんな論陣を張っていただろう。そんな思いが日に日に強くなっていった。
週刊朝日緊急増刊 朝日ジャーナル [雑誌]

朝日新聞出版

このアイテムの詳細を見る

こうした「重い」思いへの回答が,それに続く巻頭論文で,(ぼくにとっては)予想外の形で示される。見田宗介氏は「現代社会はどこに向かうか 世界の有限という現実 <持続する現在>の生へ」という論文を,1973年以降5年おきにNHK放送文化研究所が続けている意識調査の分析から始める。それによれば,ここ30年で,世代間の意識の差がかなり縮小してしまったという。世代による意識の変化がなくなるということは,歴史が減速ないし停止し始めているということでもある。

19世紀から20世紀へ加速度的に成長してきた歴史が,ここにきて減速ないし停滞し始めたとしたら,そのプロセスはロジスティック曲線として描かれる。そして,最近の兆候は,曲線が上限に収束しつつあることを示唆している。GM とともに始まった「デザインと広告とクレジット」によって需要を無限に拡大する<情報化/消費化資本主義>は,現下の GM の危機的状況に象徴されるように限界を露呈したのだと。しかし見田氏はそのことを嘆くよりは,肯定的に捉えようとする。

そこで「<持続する現在>の生の輝きを享受する」という結論に至るが,「「近代」の思考の慣性のうちにある」ぼくには,はっきりした像を思い描けない。一方,浅田彰氏が「まったく希望がないのに戦い続ける大胆さ。僕は21世紀は「THE AUDACITY OF HOPELESSNESS」だと思うな」と述べ,それを受けて東浩紀氏が「今は希望がない世界をいかに生き抜いていくかを考えるべきで、大胆に希望を語っても摩耗するに決まっている」と述べている座談会は,重く暗いムードに満ちている。

期待以上に面白かったのが,「元資本家」堀江貴文氏と「現役共産党員」浅尾大輔氏の対談だ。お二方とも30代後半の同世代だが,それより少し若い「ロスジェネ世代」について,浅尾氏は「みんながみんな堀江さんにはなれないんです」という。それに対して堀江氏は「いや,なれないんじゃなくて,なるしかないんだと思いますよ」と答える。議論は終始この調子で,個人としての解決を主張する堀江氏と,社会的な解決を主張する(と思われる)浅尾氏は平行線をたどる。

ところが後半,堀江氏から「社会的な」発言が出てくる。まず,彼はベーシック・インカムの導入を,起業リスクを減少させ,起業家を増やす手段として評価しているという。また,ライブドアの株式の100分割を「みんなが資本家になれる仕組み」だと考えていたという。浅尾氏はそれに対して「「生産手段の社会化」というマルクスの構想に近いものがある。(笑い)」と応じている。

堀江氏は,ブログで検察を批判しつつ,「たとえば、リクルート事件なんて、江副浩正という稀代の才能を20年間も眠らせてしまったわけですからね。彼があのまま活躍していたら、と思うと切なくなりますね。」と書いている。同様に,堀江氏が「あのまま活躍していたら」何を実現していたかを考えてみたくなる(もちろん,今後の活躍をまだまだ期待できるわけだが・・・)。

「朝日ジャーナル」的なものは,希望の復活に貢献するのだろうか? ぼくがこの増刊号で希望,あるいは夢を感じた部分は,ホリエモン的な起業家精神であって,昔懐かしい「批評家精神」ではどうもないようだ。そういう意味で「ジャーナル」復刊は年に一度の同窓会としてはあり得ても,それ以上のものにはならない気がする。もちろんたまに同窓会に出るのは,悪くないが。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。