Mizuno on Marketing

あるマーケティング研究者の思考と行動

アディクションは選好の王様

2007-02-27 22:28:14 | Weblog
欲望を感じるとき,脳内でドーパミンが出て,強化学習を起こし,アディクションが生まれる。『欲望解剖』のなかで,茂木健一郎氏はアディクションこそがヒットを起こすという。そして別の箇所で「ドーパミン・マネジメント」について語る。

ぼくがぼそぼそ考えている「選好形成」なんて,ぬるすぎるんじゃないか。マーケターが消費者にロイヤルティや歓喜を求める以上,アディクションに踏み込むべきかもしれない。そういえば,経済学の「原理主義者」,シカゴ学派の巨人 Gary Becker の "Accounting for Tastes" でも,「合理的な」アディクションが扱われていた。アディクションこそ,選好の王様なのだ。

アディクションは強化学習であり,教師なし学習である。選好形成の既存モデルは,しばしば教師あり学習を仮定してきた(ぼくのD論も一部そうだ)。しかし,それはある選好を別の選好に置き換えているだけであり,トートロジーだという批判を免れない。選好が本質的にどこから生まれるかを考えたとき,自己組織化的な視点はきわめて重要だ。選好の究極はアディクションだと割り切ってみることが重要かもしれない。

もう一つ興味深かったのは,茂木氏が現実の人間関係のネットワークを,意味や欲望とは無関係な「不自由な構造を持った」ものだと語っていることだ。だから,既存の人間関係に基づくコミュニケーションを行なっても,大きなインパクトにはならないと。脳が夢を見るとき行なうときのような自由なネットワークのつなぎ替えが,現実の人間関係では起きにくい。「いまそこにある」ネットワークだけに頼って研究することの限界が指摘されているように思う。

この本では,田中洋氏がマーケターの立場を代表している。フランスの現代思想を始めとする該博な知識を披露しながら,モノとヒトの二分論を超えた「ポスト・カルテジアン消費」へと話を進めるあたりは,マーケ業界の代表的知性として面目躍如たるものがある。もちろん,本書に神経経済学やニューロマーケティングの最前線の紹介を期待すると失望するが,刺激的な Open Question に満ちている。

PS.アディクション(addiction)をどう訳すべきか。「中毒」はいい過ぎ,「依存症」は難しすぎ,「嗜癖」は日常感がない。いい訳語がほしい・・・。

広告は拡大し飛躍する

2007-02-27 00:19:22 | Weblog
チラシや呼び込みから始まり,ポスター,新聞,ラジオ,テレビを経てウェブに至る「広告」の歴史。それと並行して,つねにクチコミというものがあった。それは広告と一体となって消費者行動に影響してきたが,その間には,はっきりした壁があった。あちらとこちら。クチコミの起きる壁の向こうの世界ははっきり観測できず,統御不能であった。

それが変わってきた。いろいろなツールがあるとはいえ,やはりウェブの存在が大きい。それによってあちらとこちらの壁が崩れ,部分的にせよ消費者間の相互作用が観測され,統御できるようになった。そこで起きていることは何か・・・それは広告の死ではなく,偉大なる甦りである・・・と消費者間相互作用研究会での双葉さんの話を聞きながら感じた。

彼女が紹介してくれた,米国での先進事例のほとんどが初耳だった。これまでお呼びした実務家からもいろんな事例を聞いてきたが,この領域では次々新たな実践が生まれているということだ。そして,最後に彼女が関わったキャンペーン事例。ウェブを核に,TV広告やイベントがうまくオーガナイズされている。TVCM中心のキャンペーンの次にあるのは,よくいう「狭告」などではなく,より拡大された広告(extented ad)であると感じた。

いい話を聞いたとご機嫌で自宅に帰ると AD STUDIES が届いていた。昨年秋の広告学会の統一論題『広告の「ちから」を問う』に沿った特集で,同学会の指導的な研究者たちの論考が寄せられている。だが,広告の「ちから」(なぜ平仮名?)とは,そうした複雑で哲学的なことなのか。皆が見て聞いて,話題になって,それで売れましたという単純なことがチカラではないのかと感じる。その点で実務との意識の乖離があってはならないと,研究者として自戒する。