愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

滋賀県高島市マキノ町  海津の町並み

2013年03月08日 | 街道街並集落 景観 

滋賀県、旧マキノ町海津は今津、塩津とともに湖北三港として栄えた港宿場町、湖岸には波や風から町を守る石積みが延々と残されており、湖北独特の景観を醸し出しています。

また集落外れの大崎付近は湖岸の桜並木として名高く、湖上に影を落とす桜を見ようと、シーズンには人と車でごった返す。

少し湾になった波打ち際に、まるで城壁を思わせるほど立派な石塁が背の高さ以上に積まれ圧巻です。

江戸時代、代官「西与一左衛門」の尽力により、村を守ろうと築かれたもので施工は村人の手で行われたと言う。

海岸沿いの旧街道筋には、宿場町、港町として栄えた時代を偲ばせる古い建物が残り、鄙びた景観を形成しています。

古い町並みを真っ赤な郵便車が走り去る・・・・。

2005年、「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」は文化財保護法の重要文化的景観に指定されたそうです。

撮影2007.4.7/2011.2.20


滋賀県大津市 坂本の町並み

2013年03月07日 | 街道街並集落 景観 

<滋賀院門跡の石垣>

琵琶湖西岸、坂本はその背後に聳える比叡山延暦寺と日吉神社の門前町として栄えた由緒正しき歴史の町。

天台宗総本山比叡山延暦寺は往時6000坊を数える程に繁栄、寺の台所をあずかる坂本の町も室町時代には一万人以上が暮らす町となり活気に溢れていた。

しかし元亀二年(1571)織田信長の、あの比叡山焼き討ちで日吉神社共々町は灰燼と化し、江戸時代には米・魚・野菜などの荷揚地として、また活気を取り戻した延暦寺里坊の町として存在してきた。

日吉参道の両側には約50ヶ寺にも及ぶ里坊が有り、見事な「穴太積み」の石垣を構え、それが坂本の町並みの特徴ともなっている。

古い町並みを一番良く残している坂本四丁目辺り。

味噌醤油を扱っていた大文字屋さん、現在も塩商として健在、脇には「大文字屋地蔵堂」が建つ。 

明良馬場の辻から東方向を見る・・・・・、右手には福成神社、左手トタン掛けを残した懐かしい建物。

享保初年(1716)開業の鶴喜蕎麦本店、この建物は明治20年(1887)の建築。

入母屋造り総二階建ての建物は坂本の町並みを代表する建物となり、休日には店先に列も出来るほど・・・・。

坂本四丁目参道の角にはこれも風情のある日吉そばさんの建物・・・鶴喜蕎麦さんとは一軒置いて隣同士です。

断食僧の弱った胃を慣らす為に、蕎麦は欠かせなかったらしい。

参道より東側の町並みも懐かしい味のする建物・・・。

滋賀には多いベンガラ出格子、虫籠窓、バッタリ床几、犬矢来と勢ぞろい・・・・。

然し余りにも整然としすぎて居る様な。

撮影2010.11.13


滋賀県栗東市 旧和中散本舗(大角家住宅)

2013年03月06日 | 街道街並集落 景観 

滋賀県、湖南のの交通の要所、栗東市街の東外れ、旧東海道の一角に豪壮な構えを持つ屋敷が有る。

栗東市役所付近より東に約2km、県道と在所道がちょうど岐れる六地蔵の地に、「旧和中散本舗」と刻まれた大きな石柱の建つ「大角家住宅」。

屋根の造りが独特で、上部本瓦、下部は棧瓦葺きの二段構え、両端に防火用の卯建壁(うだつかべ)を建てた高塀造りと言う重厚さ。

建物は、間口67尺(約20m)、奥行62尺(約16m)と大規模なもので 内部は店舗、製薬場、住居部に分かれている。

慶長16年(1611)近江永原の陣屋(現 野洲市)に滞在中であった徳川家康の腹痛を治したことで、一躍名を馳せ「和中散」の名は家康が報奨として自ら名付けたと言う。

街道に面した正面は商いをしていた頃の面影を残しているが、戸板は固く閉じられ中を窺う事は出来ない。

この建物は寛永年間(1624~1640)に建てられたもので、国の重要文化財に指定され、内部の庭や屋敷全体は国の史跡に指定されていると言う。

撮影2010.2.20


京都府旧木津町 本町通りの町並み

2013年03月05日 | 街道街並集落 景観 

<木津川提近くには米穀商の米蔵が並び建つ>

旧木津町(現木津川市木津町)は山城の最南端、奈良市と境を接する木津川左岸に在り、往時は奈良の都への木材の集積所、木津として、又その後木津川船運の拠点として、京都奈良を結ぶ奈良街道の要所として大いに栄えた。

木津川が東西から南北に流れを変える少し手前、現在の国道24号線「泉大橋」のずっと下流に「木津の渡し」が在り、奈良街道は渡しで結ばれていた。

そんな奈良街道本町筋には商家を中心に古い町並みが残っている。

本町筋と旧国道163号線出会い辺りの町並み。

本町二丁目辺りの民家・・・・白壁虫籠窓、格子窓に雨縁を持ち卯建を付けたどっしり落ち着いた中二楷屋。

主屋脇に白壁土蔵をもつ家も多い。

黒塗り壁に白い棧格子の虫籠窓・・・・ちょっと疲れた筒竹の張り出し柵??

小さいけど重厚な感じの民家、門口の両側に出格子を備え、「駒寄せ」を設けている。

木津川から水路を引き米穀商を営んでいた八木家の土蔵です。

屋敷を囲むかの様に多くの蔵が建ち並んでいて往時の繁栄ぶりが偲ばれる佇まいです。

いま、町は又新興住宅地として脚光を浴びているが、山を潰して団地を造ってもなあ・・・・・。

撮影2013.2.3


奈良県吉野町山 金峯山寺参道町並み

2013年03月02日 | 街道街並集落 景観 

<桜のない吉野山金峯山寺>

一目千本、桜の花で名の知れた吉野山はシーズンには押すな押すなの大賑わい、その季節が良いのだろうがとてもその人混みに入る事は出来なくて季節外れの九月中旬、金峯山寺を訪れた。

吉野町役場前から吉野川を越え、一気に対岸の吉野山に登る。

金峯山寺の参道には懐かしい風情の土産物屋・・・・

くいもの屋などがズラッと軒を連ねている。

参道は細いながら車も人も参道以外の道は無い。

明治以前は大名といえども、馬を下りなければならなかったと伝えられる金峯山寺の総門「黒門」。

金峯山寺銅鳥居は、東大寺の大仏を鋳られた銅の残りで建立されたと伝えられているもので日本三鳥居の一つとされているようです。

銅鳥居を潜れば正面頭上には蔵王堂の屋根が聳え立つ。

豪快な仁王門。

国宝の蔵王堂・・・シーズンオフならこんなもん。

本尊、蔵王権現(ざおうごんげん)は役小角(えんのおづぬ)が桜の木で彫ったとされ、これより桜は吉野の神木となり、こぞって苗木が寄進された。

境内少し下方にある妙法殿、吉野朝宮跡。

吉野土産で有名な「陀羅尼助丸」を扱う藤井利三郎薬房。

古めかしい店舗に商標マスコットの三本足蛙

ちょっと懐かしい匂いの民家・・・、横で茶店風に商いをしている。

春は桜のビューポイント近くにある「吉野水分(みくまり)神社」、「みくまり」が「みこもり」と訛り、子育ての神として信仰されてきた。

下千本駐車場からここまで約4km、足らず、あちこち寄り道してたら2時間近くも掛かてしまう・・・・。

この奥に、「奥の千本」が在ると言う・・・。

吉野山は、大峰山を経て熊野三山へ続く山岳霊場・「大峯奥駈道」の北端にあたり、「紀伊山地霊場と参詣道」として世界遺産に登録されている。

撮影2009.9.14


広島県福山市 鞆の浦(とものうら)の町並み

2013年02月27日 | 街道街並集落 景観 

JR山陽本線福山駅より南に約15km、沼隈半島南東端の鞆の浦は古代より瀬戸内海の潮待ちの港として繁栄、江戸時代にはその経済力で独特な商都、湊町を形成していた。

明治時代になると交通手段も海から陸に移り、鞆の浦は拠点性を失うことになり、鞆町は近代化の波から取り残された。

そのお蔭かどうか・・・、町の中心街は近代化されることなく車も入り込めないほどの細い道が縦横に走り、裕福だった時代の街並みがそのまま取り残され

今は観光資源と成って居る。

<日本一の高さを誇る常夜燈(安政6年築=1869)の前で、祭りのため、京都から呼ばれた花魁がポーズをとる。>

近畿に住む僕たちは、鞆の浦と聞けば旅行会社の「観光鯛網」ぐらいしか思い起こさないが、嘗て鞆の浦はその強大な経済力で都の文化を取入れ、古くは京や上方でしか演じられなかった「能宴」を催よおし、当時の一流役者が流派を問わず集められていたと言う・・・。

この街はまた海の寺町かと思うほどどこの通りを歩いても寺院にぶつかる、この2000所帯にも満たない街に20ケ寺以上も密集していて、往時の文化程度の高さが窺われる。

現在では鞆港への商船の出入りは殆ど無く、連絡船、観光船を除けば、ほぼ漁港として利用されるのみである。

然しそれが江戸時代の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」が全て揃って残り、江戸時代中期と後期の町絵図に描かれた街路もほぼすべて現存する要因にも成って居る。

1992年には都市景観100選に、2007年には美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれ、町絵図が現代の地図としても通用するのは、全国でも鞆の浦以外には例がないと言われて居る。

この日は祭りの花魁道中が有ると言うので町並み散歩の観光客も多かった。

やっぱり古い町並みは古き良き時代を伝え郷愁を呼び起こす。

保銘酒本家として有名な岡本亀太郎本店の長屋門は明治維新で廃城となった福山城の長屋門の払い下げを受けたもので、福山市重要文化財に指定されて居る。

沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は鞆祇園宮(ともぎおんぐう)とも称され格調高い・・・、しかしこの街じゃ普通車は使いものに成らない。

地元では日本でもっとも癒される港町だとしているのだが・・・・。

撮影2012.12.2


滋賀県旧信楽町  多羅尾(たらお)の民家

2013年02月26日 | 街道街並集落 景観 

この集落になら一軒ぐらいは茅葺き屋根の民家が残って居る様な気がして出かけてみた。

滋賀県旧信楽町から三重県伊賀上野に抜ける御斎峠への途上に位置する「隠れ里多羅尾」はその昔,土豪多羅尾氏が治め、幕府直轄の代官所の置かれた古い集落。

<まだまだ住めそうなのにネットを張り巡らした空家です>

山間の狭い谷沿いに100軒ばかしが軒を連ねるが、山間僻地の共通する急激な過疎化により、あちこちに空家も散見される。

集落をぶらぶら茅葺き屋根を探して歩くが茅葺き屋根にトタンを被せた民家は多いのに茅葺きそのものは見つかりません。

風情の良いトタン屋根はあっちにもこっちにもと云う程多く残っていますが・・・・。

散歩をしていたお年寄りに訊ねてみても・・・・もう「くずやの家」は1軒も残って居ないと言うことでした。

宇治川の上流、瀬田川に注ぐ大戸川源流域、滝川が集落を南北に分ける様に流れる左岸に一際豪壮な黒いトタン屋根が目を惹く。

この辺りが多羅尾の中心部、今では10人程の児童しか通わないという立派な小学校が隣接している。

この集落で見る限り群を抜いて見事な佇まいです。

豪壮な箱棟を被せ、妻部仕舞いも見事です。

周りには棧瓦葺きの庇を大きく迫り出し・・・・・これが茅葺きだった頃はさぞかし立派なものだったろう。

聞けば多羅尾の名だたる名家だとか・・・・・。

然しこの集落にも以前から何回も来てるけど、この家が茅葺きだった頃にはお目に掛からなかった。

もう随分昔にトタンを被せられたのかなあ??

撮影2013.2.11


京都府木津川市 上狛(大里)環濠集落

2013年02月25日 | 街道街並集落 景観 

奈良県境に近い旧山城町、木津川右岸の上狛には山城ではここだけで見られる環濠集落が残り、集落内は一気に時代をタイムスリップした様な佇まいを見せて居る。

京都府南部、我山城は山背(山城)とも書き、「南都奈良」の「山の背」、所謂、縁の下の力持ち・・・、京都に在って奈良文化の臭いを色濃く残している。

木津川提を走る国道24号線を南下、やがて堤防下を走る様になり、旧山城町庁舎を右にした上狛交差点を左折、その辺から北側一帯が所謂上狛(大里)環集落。

集落は土着の武士であった狛氏の居館を中心に集落全体を要塞化、村と畑を壕で仕切り、人々は、郷とか垣内(かいと)と呼ばれる単位で団結、共同生活を営んで来た。

国道24号線と平行するように流れる環濠跡、この環壕が集落の内と外を分けて居た。

集落内の道は細く入り組み、路地から路地へと続いていて・・・・

余所者は一体何処を歩いてるのやら・・・・・。

何しろ中世の町割りがそのまま残って居る様・・・、まるで何百年も一気にタイムスリップした様な。

郷の辻には郷井戸と呼ばれる共同井戸が在り、現在8~9箇所が確認されています。

集落内を歩いて見るとあちこちで大きな長屋門をもつ屋敷が両側に並んでいたり・・・。

集落の北端、環濠沿いに豪壮な土蔵と築地塀で囲まれた屋敷があったり・・・。

方角を帰ればこんな風、相当傷んでますがかなり大規模な主屋も見えます。

農村集落としてかなり裕福な集落だったのだろう・・・・。

然し、哀しいかな・・・地方の田舎町はどこもかしこも疲弊が進んでいる。

撮影2013.1.17


奈良県大和郡山市 稗田(ひえだ)環濠集落

2013年02月24日 | 街道街並集落 景観 

多分50軒にも満たないだろう、水田地帯の真ん中、周りを壕に囲まれ孤立したように建ち並ぶ稗田環濠集落

奈良県大和郡山市の南東部、大和川支流の佐保川右岸、国道24号線「美濃庄町西」交差点を西に進むと、こんもり鎮守の杜の賣太神社(めたじんじゃ)に出逢う。

賣太神社は稗田(ひえだ)環濠集落の名前の由来であるあの古事記編纂者、この地が出自だと言われる「稗田阿礼(ひえだのあれ)」を主斎神としてしている。

環濠集落は大和「国中平野」に集中して残存しいるが、集落をすっくり濠で囲んで居るのはここだにしか残って居ない。

環濠集落内の道路や建物は、大和国中、近隣の農村集落あまり変わり無いが・・・・・、写真の様に懐かしい匂いをよく残している感じもする。

濠際には独特な高塀造りの、大和棟民家がどんと構えていたが最早、茅葺き屋根では無くカラートタンに包まれていた。

環濠で集落の内外を分け、集落の自治を確立したのだろうか・・・・、集落内は比較的規模が揃って裕福そうな建物が多かった。

撮影2009.10.4


大阪府富田林市 寺内町(じないまち)

2013年02月23日 | 街道街並集落 景観 

こちらも白壁は目立ちますが少し雰囲気が異なり寺を中心として栄えた富田林 (とんだばやし)市の寺内町 (じないまち)です。

大阪府南東部の南河内(みなみかわち)地方に位置する寺内町、戦国時代の真最中、興正寺別院 (一向宗・浄土真宗)を中心に宗教自治自衛都市・寺内町 (じないまち)として開発され発展、今も戦国時代の町割を留め、江戸時代中期以降に建てられた民家が約40軒、往時の姿そのままに保存継承されています。 

国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、まるで映画のオープンセットのような・・・まるで時代をタイムスリップした気分にしたれる。

その中心を成すのは地元の人からは御坊さんと呼ばれ、親しまれている真宗興正寺別院「富田林御坊」です。

中でも威容を誇るのが明治時代の明星派女流歌人・石上露子(本名 杉山タカ)の生家・・・・・富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代は造り酒屋として栄えました。

現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期大規模商家の遺構として国の重要文化財に指定されています。

現在、富田林市が維持・管理しており、内部野見学も可能です。

城之門筋辻之奥谷家住宅・・・重厚な本瓦葺きに煙り出し館を載せ独特な妻部を持っている。

往時屋号を「岩瀬屋」と言い、材木商を営んでいた。

道を隔てて建つ「東奥谷家」、奥谷家2代目の子孫で油屋を営んでいた。

奥谷本家と良く似た構えに成って居ます。

御坊鼓楼に対面する杉田家住宅、屋号は「樽屋」と称し油商を営んでいたらしい。

新しく塗り替えられた白漆喰が眩しい。

筒竹の出格子がなんとも懐かしい仲村家住宅の佇まい。

この町は一瞬、異空間への扉を開けてくれるような気さえした。

撮影2008.1.13


山口県柳井市 白壁の町並み

2013年02月22日 | 街道街並集落 景観 

見事なほど白い町並み、一列に整然と建ち並びキレの良い近代的センスを偲ばせる。

柳井の近く、橋でつながる、歩く民俗学者「宮本 常一(みやもと つねいち)」の故郷、周防大島を訪ねた序での訪問。

山口県東部、瀬戸内に突き出す半島根元の東側、柳井川河口に町の中心部が在り、JR山陽本線柳井駅より北に約300m程も歩くとこの白い街並みにつく。

白壁屋並みは「町並み資料館」のある交差点から西へ約200m、藩政時代には岩国藩のお納戸と呼ばれ、「おお店」の商家が軒を並べ、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されて居る。

町並み資料館に対面して馬鹿広い屋敷を模つ「有形民俗文化財商家むろやの園」。

「むろや(室屋)」の屋号を持つ小田家は江戸時代の油商、最盛期には50隻もの帆船を抱えた豪商で元禄14年(1701)建築の建物はこの街では最も古い。

街並みがこのような重厚な白壁に包まれたのは、明和五年(1768)の大火において悉く灰燼と化し、二度と火災によって町が燃えないようにと、建物に徹底的な防火対策を施した。

その結果、瓦葺きの妻入り白漆喰の大壁造といった、まるで城郭建築のような外観に成って居る。

町並みの中核をなす商家建築の典型である国森家住宅、国の重要文化財に指定され一般解放されて居る。

かけや小路と呼ばれる白壁土蔵の細い道、この道で荷揚げした品物がそれぞれの蔵へと運ばれた。

柳井の名産品「甘露醤油」の醤油蔵、馬鹿でかい白壁土蔵ですが現在観光施設として利用された居ます。

これが柳井を彩る民芸品、「金魚ちょうちん」は青森のねぶたをヒントに江戸時代から作られて居ると言う・・・。

もう一つ、柳井の町並みを歩いて目立つのがこの看板。

「かにが路上を横切ります人も車もご注意を」調べて見ると夏には抱卵した「赤手ガニ」が川岸や海岸目指して路上を横切るらしい・・・・。

赤手ガニはよく知らないけどなんとも微笑ましい

撮影2012.11.30


滋賀県米原市 中山道柏原宿

2013年02月21日 | 街道街並集落 景観 

伊吹山の麓、中山道六十九次の大六十番目に当たる 柏原宿(かしわばらしゅく)は米原市の東部、岐阜県境近くの山あいにある。

この柏原宿もまた、近く徳源院へ京極氏の居並ぶ宝筐印塔を撮影に来て序でに寄った程度で何の予備知識も無かった。

JR東海道本線柏原(かしわばら)駅の辺りを中心に東西十三町(約1.5km)にも及び、中山道内でも名だたる大宿場町。

天保十四年(1843)の記録では、家数は344軒、本陣、脇本陣、旅籠22軒を有し、人口は1468人とある。

一直線に建ち並ぶ懐かしい街道筋の家並が美しい。

この宿場町、なんと言っても目に付くのはこの建物、ここは伊吹艾(もぐさ)の名産地、多いときには艾屋が10軒近くも軒を並べ、中でも創業寛文元年(1661)の「伊吹堂亀屋左京」一軒が残るだけ。

現在も「合名会社亀屋左京商店」として営業されて居ますが、生憎僕の訪れた日曜日は休業日でした。

文化年間に改築された建物が、広重の浮世絵「木曾街道六十九次」の中の一枚「柏原宿」であり、当時のまま現在に至っています。

福助人形」の始まりはこの店の正直一途の番頭「福助」から来ているとか・・・・今を流行りのユルキャラの先駆けかも??。

脇本陣と旅籠の中間、郷宿と呼ばれる武士や公用で旅をする庄屋などの休泊所だったという建物。

ベンガラ格子や黒板塀がいい風情を醸し出す。

脇本陣を営んでいた、名映画監督「吉村公三郎」の実家もこの通りに面していました。

脇本陣は影も形も無かったけれど・・。

撮影2011.8.15


福井県坂井市三国町 三國湊の町並

2013年02月20日 | 街道街並集落 景観 

近く、三國神社の神木、ケヤキの巨木を撮影に行き、古い町並みが残る三國本町から「九頭竜川」河口、所謂三國湊をぶらぶら歩いて見た。

越前三国湊はあの東尋坊近く、日本海に注ぐ越前きっての大河「九頭竜川」河口に位置する古い湊町。

江戸時代、蝦夷や大阪から物資を運ぶ北前船交易が福井藩の保護のもと大きく発展、現在にも独特な雰囲気を残している。

どことなく一時代昔の湊町独特の板壁建物、その向こうの背の高い建物は「三国神社」祭礼の巨大な武者人形山車が置かれて居る保管蔵。

現在は観光拠点の「旧岸名家」、三国湊町家館として一般解放されて居ます。

岸名家は九頭竜川上流から材木を流し、北前船で全国に運んだ材木商新保屋、「岸名惣助」の屋敷、建物は江戸時代後期の文政六年(1823)の建築。

母屋と玄関部の平棟軒部が直角に交差する独特の造形を持つ「かぐら建て」の建物、隣の情緒あるベンガラ格子戸は「三國湊座」??。

通りの角にはこんなのんびりした景色。

角向かいに威容を誇るレトロな洋風建築・・・・、三国湊一の豪商「旧森田銀行本店」、現在は使われていないが内部も無料で見学させてもらう事が出来る。

元々は北前船の廻船問屋だった森田家、明治に入り鉄道など輸送手段が新たに出来、廻船業の衰退から、さっさと銀行に鞍替えした。

この建物は大正9(1920)年に落成、昭和5年福井銀行に合併、現在国の登録有形文化財と成って居る。

最寄駅、「えちぜん鉄道」三國芦原線終着駅「みくにみなと」駅には電車を待つ人など誰も居なかった。

撮影2010.9.18


大分県杵築市 杵築北台の町並み

2013年02月02日 | 街道街並集落 景観 

北台南台と二つの台地上に武家屋敷を連ねる独特な町並みが、時空間を飛び越えて現在まで残り、坂道の城下町として観光客にも人気が有る。

大分県北東部、国東半島の南付け根部分に当たる杵築市、大友氏が築城したのに始まる城下町は後能見氏に取って変わり、明治維新まで続きました。

北台武家屋敷への入口、長い石畳坂道に白壁土塀の勘定場の坂・・・

登り切ると左手には藩校の長屋門 。

北台に唯一残る見事な茅葺き屋根の大原邸。

杵築藩の上級武士の家としての風格を今に伝え、屋根は寄棟造、入母屋根を正面に見せ、格式高い式台を構えた上級武士屋敷の風格を持つ。

 入母屋の妻飾りには、神社仏閣などによく使われて居る懸魚(げぎょ)が有り、この家の格式高さを物語って居る。

坂道の石垣土塀越しに、茅葺き屋根と土蔵が並んだ大原邸・・・。

大原邸横から見る「酢屋の坂」、奥に見えるのは南台・・こうして見ると北台の方がずっと高い。

「酢屋の坂」途中より見る谷町(商人町)の甍。

このレンガ煙突のある建物の所が、元「酢屋」だったため「酢屋の坂」と呼ばれる様になったとか・・・。

因に、向かい南台への坂道は「塩屋」が在ったから「塩屋の坂」と呼ばれて居る。

振り返るとこんな感じの警官・・・・若い女性好みかな??

北台と南台の間を貫く谷町も古い町並みを良く留めた様に整備され、武家屋敷台地から降りてきた観光客を失望させない。

撮影2009.12.26


大分県大分市 戸次(へつぎ)本町の町並

2013年02月01日 | 街道街並集落 景観 

大分市の南、別府湾に注ぐ大野川が蛇行する扇状地の戸次本町、古来より交通の要衝とされ、江戸時代には日向街道筋の在郷町(ざいごうまち)として繁栄した。

江戸時代末期から戦前頃にかけての歴史的な名残が見られ、最近に成って町並み保存に力を入れるようになって居ます。

漆喰で真っ白な塗り込壁に大きな虫籠窓(むしこまど)・・・・・・。

戸次本町の町並みで何と言っても目を引くのが帆足本家酒造蔵、江戸末期から明治にかけて建築され、昭和47年まで酒造りに使われていた建物。

平成七年十二月、故十四代目当主より大分市に寄贈され、平成十一年三月「大分市指定有形文化財」に指定された。

著しく老朽化が進んでいたこの建物群を、約三年間で整備補修工事を行い、明治末期の姿に復元している。

復元された建物は新築そのもので、やや歴史的な面影は失われてしまったものの、重厚な邸宅の他、酒蔵資料館や美術館、レストランなども併設した「帆足家本家富春館」として今もなお町の中心的存在です。

また豊後竹田の文人画家、田能村竹田は帆足家との親睦が篤く、帆足家九代目の四男、熊太郎は竹田に入門し、やがて南画の大家となり「帆足杏雨」と名乗り屋敷を構えた。

それが安政三年(1856)の建築になる旧「檀勝閣」と呼ばれるこの建物、白い漆喰で屋根瓦を目止めし、一際威容を放っている。

新しく補修された卯建にも、こんな洒落た縁起物が施されていたりして・・・・・・・、町並み保存に力を入れているのが良くわかる。

撮影2010.5.1