愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

吹田市 佐井寺の茅葺き民家

2014年12月04日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 

民家博物館の帰りがけ、ついでに寄ってみた茅葺き民家。

<Googleストートビュ-より>

千里丘陵の一角、往時は広大な丘陵斜面の集落で有ったろう吹田市佐井寺地域・・・・、現在、斜面上に古い集落を残し周りは悉く新興住宅地に囲まれすっかり都会化してしまっている。

他に越しの少し残った棚田の向こう斜面に大きな茅葺き屋根の民家が見える。

その上方や左手にも覆懸けをした茅葺き民家が見える・・・・僕が確認したところこの丘陵には三軒の茅葺き民家が残っていた。

こんな都会地に有ってそれは余りに稀有な事です。

大きな大和棟に似せた造りでまだまだ新しい昭和期の建築ではないだろうか??

都会地でそれなりのステータス誇示している様に見える。

撮影2014.1.11


日本民家博物館 旧大井家住宅

2014年12月03日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

民家博物館内、最大の茅葺き建築物の合掌造り民家、飛騨白河の旧大井家住宅。

この建物を現地よりこの地に移築するのは何しろ規模が大きく大変だったろう・・・・

 旧大井家住宅は飛騨白川郷、大郷(だいごう)地区の大牧(おおまき)集落にあったが、白川郷を流れる庄川( しょうかわ )に三つのダムを建設することになり、昭和31年(1956)大牧集落は鳩ヶ谷ダムの湖底に水没、この地に移築された。

この民家は江戸後期の1800年頃の建築、平入の三階建て、妻側に便所、水屋が建てられ壁は土壁を一切用いず、全て板壁造りですが、横板を柱の間に落し込む古い造りに成っています。

 飛騨白川郷は自然環境の過酷な山間僻地にあり、豪雪から母屋を守るため急傾斜の屋根を持ち、妻側から見る形が手を合わせ合掌する形に似ていることから合掌造りと呼ばれて居る。

大家族制度に依る何十人もの家族が住まい、三階以上の上部は養蚕のための作業場と成っていて、どうしても大規模に成らざるを得なかった。

温暖な地域で育った僕たちには想像も絶する様な暮らしが有ったんだろうととつくづく思う・・・

見るだけには良いが、現実問題、住むと成ったらとてもとても・・・という感じ。

現在国の重要有形民俗文化財に指定されて居ます。

撮影2014.1.11

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明治期から昭和中期まで白川村の「大家族」制は民俗学・社会学の人きな研究テーマであった。

「大家族」では時には三十人から四十人がひとつの合掌造りの建物に住んでいた。

大きな合掌造りの建物に四十人もの「家族」が忙しく暮らしていたのだから、さぞや賑やかなものだったにちがい。

「大家族」制ではこの四十人のうち、夫婦で住むことができるのは家長と長男のみで、残りの家族はすべて、次男以下の男性が他家の未婚の女性のもとに通う「妻どい」形式の結婚形態であったことが特徴とされている。

「妻どい」夫婦の子供は母親の家で育てられ、戸籍上は「私生児」となった。「大家族」制が見られたのは白川村の南部の中切地区と北部の山家地区の一部のみで、世界遺産の荻町がある大郷地区では見られなかったという。

「大家族」制は大正時代の中ごろまで続いたとされている。山に川まれて土地が狭いため、米も十分つくることができず、焼畑に頼って生活をしていたこと、養蚕を続けていくために働き手を家に確保しておく必要があったことが「大家族」が成立した要因であるとも言われている。


民家集落博物館 南部曲り家「旧藤原家住宅」

2014年11月21日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府
 
 大阪、民家集落博物館内に移築保存されている 旧南部藩、旧藤原家住宅の茅葺き曲家。
 
 
南部地方とは江戸時代に南部氏の所領だった地域で、現代では、青森県南東部と岩手県中部ならび北部を指すが、かつての馬の産地として栄え、大きな厩(うまや)と母屋(おもや)をカギ型に接続させた「曲家(まがりや)」と呼ばれる建築様式が多かった。


昭和38年(1963)、民家博物館に移築されたこの曲がり家は盛岡市の南西山裾の岩手県紫波郡矢巾町煙山の地から移された。
 
東北地方の農家は、広い平野にそれぞれの位置を占めた散村を形作り、敷地背面に防風林をもつ永い独立した生活を送った姿をとどめており、「旧藤原家住宅」も、かつては一つ家(ひとつや)と呼ばれ、この家がぽつりと一軒建っていたという名残りを伝えています。
 
多分東北自動車道矢巾インター付近のような???
 
 
馬と人間が同じ屋根の下で同居、いつでも家族の顔を見るように馬の顔色も窺っていた南部風俗を伺い知ることが出来ます。
 
 
 
大きな曲り家の脇に小さな、多分風呂場と憚りを一棟にしたような建物・・・・・。
 
 
馬も一緒にここで洗ったりしたのだろうか??

撮影2014.1.11


小豆島旧内海町 吉田集落農村歌舞伎舞台

2014年11月13日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

昭和38年、此処民家博物館に移築された農民歌舞伎の舞台小屋。

僕が間がガキだった頃には近くの河原に小屋掛けをしてドサ回りの芝居小屋が建ったりして・・・みんなは乞食芝居だと言って見に出かけていた。

そんな楽しみも必要だった過酷な農繁期後のひと時を、他愛もないチャンバラ芝居で疲れを紛らわして居たのだろう・・・。

民家集落博物館に移築されているのは瀬戸内海小豆島の北東端の小さな農漁村「吉田集落」に建っていた。

正面一杯を開口部舞台とし、本瓦のひさしの上に小さい寄せ棟茅葺き屋根を載せている。

下屋は細い柱を置石の上に建て並べた掘っ立て小屋紛い、移動式かと思わせるような簡便さ、おまけに外壁も萱壁造りに成っていました。

小豆島は農民歌舞伎が盛んな地方だったようで、島内には20以上の歌舞伎舞台があったようです。

この歌舞伎舞台は残って居た棟札から安政6年(1859年)と分かりましたが、」それは改築年代で、最初は更に遡る様です。

歌舞伎舞台は神社境内や御旅所に建てられ、社殿に向かい合うよに有り神に奉納するための歌舞伎だった様です。

撮影2014.1.11


民家博物館 越前敦賀の民家(旧山下家住宅)

2014年11月06日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

越前敦賀というには少し違和感の在る滋賀県境、湖北に近い山間集落の「杉箸」から移築された茅葺き民家。

杉箸集落は日本海敦賀湾岸の敦賀市街より南東方向に約15km弱、北陸自動車道「刀根PA」に近いアクセスの悪い山間僻地。

しかしこんなところにまでグーグルビューの車は入り込んでいて画像を提供してくれる。

僕もこの地は2~3度訪ねているが、田舎好きの人間には・・・・全く俗化の匂いもなく、ゆったり落ち着ける土地でした。

しかし茅葺き屋根は全て覆いが懸けられ、現地で茅葺き屋根を見る事は出来ない。

昭和38年(1963)この地に在った旧山下家住宅は民家博物館の地に移設された。



この地域は日本海からの風の通り道、越前から湖北へかけての大豪雪地、急な屋根勾配を持つ葺き下ろし屋根だった。

正面から見れば殆ど窓口のない荒壁下屋に両入り母屋茅葺き屋根を載せている。

建物の特徴的には越前日本海側よりも湖北型民家の典型を示し、所謂平入の大浦型の民家そのもの。

外壁は柱を土壁に塗り込める大壁(おおかべ)造りで、豪雪に耐えられるよう太い豪快な梁組に成っている。

家の中央に出入口があり、右に厩(うまや)左に炊事場があり、中央がクチノマ、右側が座敷になっています。

囲炉裏のある手前の部屋は床が一段低く張られ、土間との間仕切りがありません。

かつてここは床を張らずに土間の上に籾殻を敷き詰、その上に筵を敷き、信濃秋山の民家と同じ土座住まい。

因みに建築年代は江戸時代後期と言われて居ます。

撮影2014.1.11


民家博物館 摂津能勢「旧泉家住宅」

2014年10月30日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 

 服部緑地の民家博物館から三棟目の民家は、地元大阪能勢から移築された「旧泉家住宅」の茅葺き民家。

この茅葺き民家が在った能勢町吉野は、京都府亀岡市と接する山中に拓かれた狭い盆地、四方を山に囲まれ鄙びた山里です。

 昭和35年(1960年)、現地より移設された様ですが、その時後世に改造されていた部分を原形に復元し直した様です。

外装は全て荒壁仕上げ、開口部以外は殆ど窓らしいものが無く、茅葺き入り母屋造りの葺き降ろし母屋を載せている。

入口は妻入り、片側は土間になっており、近畿では非常に珍しく、現地でも最古の建物だったようです。

確かな建築時期は確定されて居ませんが、おそらく江戸初期の建築だと考えられて居ます。

現在、現地には覆い懸け屋根は数多く見られますが茅葺き屋根そのものは全く見られません。

因みにこの建物は、国の重要文化財に指定されて居ます。

撮影2014.1.11


日本民家集落博物館 信濃秋山郷の民家

2014年10月24日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 信濃秋山郷より、この服部緑地民家博物館に移築された茅葺き民家。

 信濃秋山郷などと聴いても、関西に住む僕達には一体どこなのかも全くピンとこない・・・因みに「秋山郷」は新潟県中魚沼郡津南町と長野県下水内郡栄村の中津川峡谷(上中流域)一帯をいう・・・これでも殆ど判らない・・・・僕らが知ってる名称で言えば苗場赤倉山系西側、奥志賀高原東側、深い谷沿いの隔絶した秘境。

この地に移築された建物は日本有数の豪雪地帯で、かっては陸の孤島ともいうべき秋山郷の「長野県下水内郡栄村上野原」に有った「旧山田家住宅」を1961年に移築したもの。

こういう造りの建物は、所謂、越後中門造りという雪国特有の形だが、それにも増してこの建物の前に立って驚いたのは、茅葺き屋根と言わず、所謂「茅壁」と言う外装仕舞・・・これが、まるで古代の「掘立住居」の様にも見えて驚き。

とにかく奇想天外、見慣れぬ外装もそうだが雪深い土地らしく、玄関は屋根下に雪溜まりの空間を空けた奥にうんと低い入口を設けて居る。

これが雪溜まり奥の玄関口、冬の厳しさに耐え抜くため防備なのか、いくら小さい昔の人でもしゃがまなくては入れない程。

中に入ってまたまた驚くのは・・・・土間と部屋などの仕切りもなく、広間型と呼ばれるの間取りで床貼りもせず 土間に囲炉裏は有るものの地面に筵を敷いたままの土座住まいであった。

こんな暮らしがつい何十年か前まで続いていたのだろうか??

いくら田舎育ちの古い人間の僕でも、ここまでの暮らしの姿は見たことも無ければ聞いたことも無い。

グーグルマップのストリートビューでこの建物の在った付近を確認すると・・・・・・2014年8月現在はこのようになっていた。

撮影2014.1.11


日本民家集落博物館 椎葉村「旧椎葉家住宅」

2014年10月19日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 

日本民家集落博物館内、入場入口から直ぐ、目の前に建つ二棟の茅葺き屋根。

勿論民家などと言うものは、その土地に根ざした人々の生活が有ってこそなのだが・・・こう言う御時勢、住宅展示場ばりで気に入りはしないが廃棄されるよりはこうしたかたちででも残ったほうが有り難く、これも仕方ないことだと納得・・・。

旧宮崎県東臼杵郡椎葉村高尾、「旧椎葉家住宅」

この民家が有った椎葉村は 飛騨白川、 阿波祖谷村とともに日本の三大秘境と言われ、平家落人伝説の土地。

旧椎葉家住宅は 険しい山の斜面に建てられていたので 「竿家造り(さおやづくり)」と呼ばれる併列の間取りの細長い形をしている。

昭和30年( 1955年 ) 上椎葉ダムが出来、 旧椎葉家はダム人造湖の上の高尾集落にあり、 水没はまぬがれた
が険しい山の北斜面にあり、強風が下から吹き上げ、被害を受けるようになり離村することとなった。 

手前に建つのは納屋、中に馬を飼う「うまや」が二つもあった。

屋根の造りとしては寄せ棟、山国らしく太い木材を惜しげも無く使っている。

こちらは母屋,平入でへやが横一列に並び、見たところ十間以上もある長大さ・・・

解体した家を運ぶ道路がないため、ワイヤで道路のある低地まで下ろし、そこからトラックで日向港まで運び、大阪港までフェリーで運ばれたと言う。

屋根葺きの経験のある村民が大阪まで来、村に伝わる伝統的な方法で屋根を葺いた。

椎葉村は「 稗つき節 」「臼太鼓踊り」など、お神楽の宝庫で椎葉家のこの座敷で、かってはお神楽が演じられていた。

撮影2014.1.11


吹田市 内本町の茅葺き民家

2014年10月18日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 

JR大阪駅より北へ約8km、吹田市街の真っ只中に残された茅葺き屋根。

付近は幹線道路の府道14号線と国道479号線が貫く喧騒高き交通の要所・・・、その一角に取り残された様に豪壮な屋敷が残っている。

白壁土蔵、固く閉ざされた長屋門、その奥に豪壮な茅葺き民家、しかしその全容を伺う事は出来ない。

正面、塀の隙間にカメラを差し込んで撮影、大きな入り母屋の大屋根には全面に鳥避けネットが被せられている。

裏側府道から眺めて見てもこれ以上見渡せない・・・この右手、屋敷林に囲まれ、もう一軒茅葺き民家が有るけど外部からは全くその姿は見えない。

多分同じような建物で本家、分家の関係なのかも??

吹田内本町は一番古くから町場となったところの様だが、どの家屋も農村集落の様相です。

これは近くに有る国指定重要文化財「旧西尾家」。

撮影2014.1.11


熊取町 中家住宅(重文)

2014年09月01日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 大阪、熊取町に在るもうひとつの茅葺き屋根は、とてつもない名家のとてつもない大規模な茅葺き民家。

これでも民家というのかどうか???

熊取町の旧市街地、熊取歴史公園レンガ館脇の広大な屋敷の中に立つ豪壮な茅葺き屋根が見える。

ここは中家住宅は国の重要文化財に指定され、現在熊取町が管理運営を行って居ます。

普段無料で解放されて居るようですが・・たまたま僕は運が悪く休館日に出かけてしまい邸内に立ち入ることは出来ずしまいでした。

しかし外から見るだけでもその威容は十二分に伝わって来ます。

南面する表門は三間薬医門、その奥に三つ巴の家紋を刻んだ豪壮な妻板が見える。

その豪壮な屋根の規模にも圧倒され・・・しばし呆然とするばかり。

この規模にまでなると誰も一般民家などとは思いもしないが・・・もはや個人で維持管理出来る範疇には無い。

撮影2013.12.4

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中家は平安時代、後白河法皇が熊野行幸の時に立ち寄り、行宮(仮設の御所)とした由緒ある泉南地方の旧家です。「中」の家名は、前九年の役(1051~62)に源頼義と共に奥州へ下向した高瀬清原武盛の跡を継いだ嫡男盛晴が、中と改めたことに始まり、盛晴の嫡男盛秀は左近将監に任じられ、中家は代々「左近」を名乗りました。

 室町・戦国時代には紀伊国根来寺の氏人となり、根来寺の一子院であった成真院に子弟を送るなど深いつながりをもちました。そして、その勢力を背景に広く和泉国や紀伊国北部に及ぶ田畠を買い集め、また麹販売の権利を持つなど、この地方における政治・経済の担い手として活躍しました。なお、成真院院主であった根来盛重は徳川家直臣として、関ヶ原の合戦や大坂の陣で奮戦し、のち徳川家の旗本になりました。

江戸時代には岸和田藩の郷士代官(松平氏の時代)や七人庄屋(岡部氏の時代)の筆頭を勤めました。谷内には四百石を越える持高を有し、三十軒前後の「家中」と四十軒余りの「内衆」を抱えていました。五門・野田・紺屋・小垣内・宮・久保・下高田の村々の年貢徴収や、年寄・組頭の決定など熊取谷の行政全般を委ねられるとともに元禄5年(1692)には岸和田藩藩札の札元任じられ、藩経済にも貢献しています。

中家住宅正面
 中家住宅正面の家紋は、後白河法皇が熊野山行幸の折、当家にて作った甘瓜を献上し、それを喜ばれてこれを家紋とするようにお言葉があったことにちなみ、「三つ巴」と定めたものです。
 また中家は江戸時代末期、思想家として活躍した25代当主中瑞雲斎(1807~1871)や、明治時代に衆議院議員を勤めた28代当主中辰之助(1867~1936)などの人物を輩出しています。


熊取町 成合の茅葺民家

2014年08月31日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

前日紹介の泉佐野市の東隣、熊取町で見つけた茅葺民家。

熊取町の南端、大池と阪和自動車道に挟まれ、なだらかな棚田地域の旧農村の家並の中に残されて居た。

ほん近くまで住宅開発が進んでいるとは言え、この集落には古い格式ある民家が多く残って居た。

この茅葺民家は一般農家だったのだろうか??それにしても四方廻りの庇は本瓦で葺かれていてなかなか立派。

入り母屋の茅葺き屋根は葺き替えて間もないらしく凛としてるが、下屋がだいぶ覚束無い感じ・・・

前面が空き地に成っているが元々大きな屋敷庭にでも成っていたのだろうか??

撮影2013.12.4


泉佐野市 旧向井家住宅

2014年08月30日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

大阪南部泉南地域、泉佐野市の文化財に指定された民家です。

役小角により開闢、元山上と呼ばれる犬鳴山七宝瀧寺(しっぽうりゅうじ)への道筋、府道62号線沿い、阪和自動車道を潜って直ぐ左手に茅葺屋根が見える。

この茅葺民家「旧向井家住宅」は、関西空港自動車道の建設工事により、泉佐野市上之郷机場(かみのごうつくえば)から、平成5年この地、土丸(つちまる)へ移築、復元された。

現在一般開放され、内部土間で地産農作物販売もされ、利用されている。

この「旧向井家住宅」は、泉南地域の江戸期建築様式の特徴をよく残す建物で、棟木(むなぎ)に享和(きょうわ)2年(1802年)建立の墨書があり、母屋もその頃に建てられたと考えられています。

茅葺き入り母屋造りの棟には大きな雁振瓦(がんぶりかわら)を乗せ、庇は本瓦葺で葺き上げ、格式を窺わせる。

こうして何とか保存された建物の影には、消え去った庶民の茅葺民家もあったのだろうが??

撮影2013.12.4


河内長野市滝畑の茅葺き民家(左近家住宅)

2014年06月18日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

ここ滝畑には都合2回訪れ、1度目にはどうしても見つからなかった左近家住宅の茅葺き屋根に巡り逢って来た。 

一度目の時もほんの近くまで行っていたのに見つからず終い・・・・それと言うのも、鯉山の緑に隠れ、全く見通しの効かない山海に埋もれて居る。

滝畑ダム上流入口、岩脇山茅場への道筋に建つが、下を走る集落道からは全く見えない。

現在も敷地内に新しい別棟が建ち生活はそちらが主体と成ってる様でした。

「滝畑型民家」と呼ばれる山村農家、屋根は入母屋造で妻入り・・・しかし何分建物を隠すほどに樹木が生い茂り、おまけに引きもなく撮影は困難。

国の指定文化財となっているが公開はされて居らず、ここをピンポイントで行かない限り出逢える事はない。

因みにこの左近家住宅は江戸前期に建てられたものだと言うことです。

撮影2013.12.4


河内長野市滝畑の茅葺き民家

2014年06月17日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

先日の滝畑ダムサイト右岸高台から対岸方向に見つけた茅葺き民家。 

滝畑ダム湖口、左岸段丘上に居を構える入母屋造りの茅葺き民家。

外見上はそれほど古い民家とも見えず、現在も住居としての機能を充分に備えて居そう・・・。

茅葺き母屋から突き出した建物は新しく

屋内はきっと現代風に住みやすく成って居るのだろう・・・・

 庭先に停められた車も若者が乗るものだった・・・。

この地では車が足の生活に違いない。

撮影2013.11.12


河内長野市滝畑の茅葺き民家

2014年06月16日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

滝畑ダム湖には呑み込まれる事を免れたのであろう?・・大きな屋敷を持つ大庄屋クラスの茅葺き民家。

ダム湖を挟んで右岸斜面上に石垣白壁土塀と白壁土蔵に抱かれた大きな茅葺き屋根を突き出し、それだけでも充分絵になる景観・・・・。

左岸斜面上段より撮影するとこんな風、資料に拠ると北尾家住宅らしいが現在も住居として活用されている。

長屋門と言うには立派過ぎる程のおおきな門構え、滝畑地域の大庄屋さんだったのだろうか??

 この地に在っては珍しい寄せ棟茅葺き屋根におおきな棧瓦の箱棟を載せ、実に堂々としている。

12月始め、再度訪ねた滝畑は山が色付きなんとも見応えのある景観と成っていた。

撮影2013.11.16:2013.12.4