ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

08/08/27 歌舞伎座千穐楽第三部①「野田版 愛陀姫」あっぱれなパロディ劇

2008-08-30 19:58:40 | 観劇

オペラ「アイーダ」DVDで直前の2日がかりで予習。このお話を以下のように把握した。
A国に負けたB国の姫が身分を隠してA国の姫の奴隷になっている。B国の姫とA国の武将は恋におちているが、それを知らずにA国の姫も片思い。B国からの戦に武将が大将となって出陣し、姫の父王も捕虜にしてくる。父の説得に動かされた娘は恋人から軍略を聞き出すが、恋人は祖国を裏切ったことで死を覚悟。ふたりはともにお互いへの愛情と祖国への愛への板挟みに苦しむ。人知れずふたりで死んでいくことで解放される。A国の姫の恋は横恋慕状態で、その嫉妬心が二人を激しく苦しめ、それがスパイスとしての効果を上げている。

さて野田秀樹はそれをどう料理しているのか。今回の主な役名と配役は以下の通り。( )内はオペラでそれに相当する役名。
濃姫=勘三郎(アムネリス) 斎藤道三=彌十郎(エジプト王) 
木村駄目助左衛門=橋之助(ラダメス)
愛陀姫=七之助(アイーダ) 織田信秀=三津五郎(アモナズロ)
祈祷師荏原=扇雀 同・細毛=福助(二人でランフィスに相当)
多々木斬蔵=亀蔵 鈴木主水之助=勘太郎 高橋=松也

まず一番違うのが主役がタイトルロールの愛陀姫ではなくて勘三郎の濃姫だということ。濃姫が大したことのない武将の駄目助左衛門を愛してしまい自分と吊合いがとれるように織田軍と闘う斉藤軍の大将にさせるように画策。城下で評判の祈祷師コンビに駄目助左衛門を大将にというインチキなお告げをさせることから全てが始まる。
そしてラダメスがオペラと違って立派な武将でないところも特筆事項。駄目という字にしっかりそういう役の性格づけがこめられており、橋之助がいつものお役のようにカッコよくないのは正解なのだ。そういう駄目な男に濃姫が惚れたことから自らの不幸を招いた自業自得の悲劇。
オペラでは地位の高い神官であるランフィス。ラダメスは元々立派な武将なので、ランフィスのお告げも必然だろう(実力のありそうな武将を指名しないと自分の地位も危ないだろうし(^^ゞ)。
その役割をインチキ祈祷師ホソケとエハラに当てられているのも単に笑いをとるためだけではない。武将の中では大したことがない男を指名させるのに濃姫はこの二人を利用することにしたのだ。濃姫の圧力でお城に無理やり召し出されて駄目助左衛門を想像させるキーワードでお告げをする。お告げが外れた時にいつでも言い逃れられるようにしておくのが常套手段。
女祈祷師のホソケが自信なさげにエハラの言うままにインチキなお告げをつげているだけだったのに、民衆の多数派の心を読んで扇動することを思いついてからは男のエハラの上位に立つというのも面白い。そして自分が操っていたと思い込んでいた濃姫をも最後は民衆を操って追い出してしまうという展開は、いかにも野田秀樹らしい皮肉が効いている。

愛陀姫の七之助は可憐でまた幸薄い感じが実にいい。父の信秀に説得されて駄目助左衛門への愛情と祖国への愛に板挟みになって悶え苦しむ様は、実にタイトルロール役にふさわしかった。オペラでもアモナズロ役はなかなかいいのだが、三津五郎の信秀は父としてだけではなく毅然とした国主として娘の愛陀姫の敬愛を注がれていたのだろうと思わせた。

勘三郎の濃姫の顔色が青いことを強調していたが、これは公家悪の青というだけでなく精神的に少し病んでいることを強調しているのだろう。小人物だが男ぶりはいい駄目助左衛門に惚れ、婢の分際でありながら可憐で美しい愛陀姫と相思相愛であることを知ると嫉妬心を燃やし、そのことで策を弄し、その策は失敗。愛する男は死なせてしまい、敵国のうつけ嫡男に政略結婚させられる。
濃姫は必ずしも美しくなくてよい。神仏や運命で人生を左右されているのではなく自分で積極的に人生を切り拓くべく行動しているという魅力がある。そして自分で仕掛けたことで招いた不幸を引き受ける強さがある。
生き埋めになった地下の壕で悩み苦しんだ愛陀姫と駄目助左衛門は抱きあって死んでいき、その魂が昇天していく様もテグスでつながれた2つの風船がゆっくり上がっていくことで表現される。その地下室の上の横になった道を濃姫が上手から下手へ絶望の足取りをすすめていくという対比。オペラのアムネリスのように愛する人の天国での平安を祈りはしない。
この強い女性の心の激しい揺れを表現するには勘三郎という芝居の達者な役者が適任だ。座頭の勘三郎を濃姫にしたことで十分面白いパロディ劇になっていると思った。

さて、野田秀樹のオペラへの関心の深まりが今回の舞台化になったのだと思えるが、野田演出のオペラ「マクベス」を新国立劇場で観ている。先に書いた記事で紹介した新聞記事でその時のエピソードもあって、冗長だと思える曲のカットを指揮者に申し入れたら拒否されたらしい(笑)野田秀樹の舞台はスピードが命だ。だからオペラで眠気を催したバレエシーンが簡単な輪踊りですんだのもナイスだった。
蛇腹のパネルで舞台転換も早く、しかしここぞという所はMETの舞台も顔負けの金ぴか御殿やバルーンの象を2頭も登場させる凱旋シーンなどでは伝統的なオペラの演出を思いっきりパロっているということだと思えてニヤニヤしながら観ていた。オペラの独唱や二重唱などがない以上、話のエッセンスを野田流に味付けして舞台化するとこんなに短い時間で上演できるのかと感心してしまった。直前のDVD予習で歌詞が頭に入っていたので、それをその翻訳調のままあんなに早口で歌舞伎役者にしゃべらせること自体もパロディの極地だろう。まぁ、いつもの野田秀樹の芝居だと普通のスピードなんだが(^^ゞ

オペラでも物凄い人数が登場するこの作品をパロディ化して上演するためには納涼歌舞伎というのはチャンスなのだと思う。こういう奇抜なアイデアを勘三郎は面白がるし、その他大勢の役も大部屋役者が張り切って演じてくれるだろうし、歌舞伎界の長い稽古期間を必要としない力を持った役者ばかりでぎゅっと集中して稽古・上演できるのだ。
古典を若手役者で上演するという役割を果たすとともに、こういう実験的な企画も実現できてしまうのが歌舞伎座の納涼歌舞伎である。だからいつもの月よりも肩の力を抜いて気楽に楽しむことができることが嬉しい。

さて幕切れのあとカーテンコールがあった。歌舞伎座でも拍子をとった拍手が発生。千穐楽のカテコらしく野田さんも勘三郎さんに呼ばれて舞台に上がってきた。どっちが挨拶するかでジャンケン。負けた勘三郎さんが地の声で挨拶。小さい声だったが「また野田さんに歌舞伎書いてもらいます」って言っていた。

今年の納涼歌舞伎は三部を全部3階B席で楽しんだ。少しずつ他の演目の感想も書いていく予定。写真は千穐楽の垂れ幕。
8/27千穐楽第三部②「愛陀姫」補足と「紅葉狩」

以前聞いた講演で野田歌舞伎などの新しい歌舞伎のマイナス点も指摘されていた渡辺保氏が今回の「野田版 愛陀姫」は褒めていて、その視点は参考になった。
以下、野田秀樹の作品の観劇の記事をリンクしておく。
2006年12月NODA・MAP「ロープ」
2006年1月NODA・MAP「贋作・罪と罰」
2005年5月「野田版 研辰の討たれ」
2005年1月野田秀樹演出オペラ「マクベス」
2005年1月NODA・MAP「走れメルス」
2003年8月「野田版 鼠小僧」(記事はシネマ歌舞伎だが歌舞伎座で観ている)