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観劇記事どころかブログの記事アップ自体が間遠になっている。この夏の猛暑疲れが激しくて抵抗力が落ち、あちこちに炎症が起きてしまった。体育の日につながる3連休も観劇もせずに主に休養にあてている。「井上ひさし生誕77フェスティバル2012」のシリーズ上演が続き、
「芭蕉通夜舟」のアップに続き、その前の公演「しみじみ日本・乃木大将」についても書いておこうとしたが、書きかけのまま長く放置してしまった(^^ゞ。ここでしっかり完成させよう。
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こまつ座&ホリプロ公演【しみじみ日本・乃木大将】
作:井上ひさし 演出:蜷川幸雄
公式サイトの公演詳細情報
より、以下あらすじをほぼ引用。
明治天皇大葬の日の夕刻。大帝に殉死することを決意した陸軍大将乃木希典が、夫人の静子様と共に、自邸の厩舎の前で3頭の愛馬に最後の別れを告げている。そこへ、出入りの酒屋の小僧である本多武松少年が現れ、この家の書生になることを志願する。実はこの少年、かつて日露戦争で乃木の軍にいて戦死した兵士の忘れ形見で、その後乃木本人とも因縁浅からぬ縁ができていたのだ。
一行が立ち去った後、夫妻のただならぬ様子に異変を感じた愛馬たちが、突如として人の言葉で喋りだす。そして、あろうことか3頭それぞれが前足と後足に分裂し、併せて6つの“人格”ならぬ“馬格”となって騒ぎだす。そこに近所で飼われている2頭の牝馬も加わり・・・・・・。
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出演:乃木邸の厩舎にいる
壽(ことぶき)號の前足=風間杜夫、同後足=吉田鋼太郎
璞(あらたま)號の前足=山崎一、同後足=六平直政
乃木號の前足=大石継太、同後足=大川ヒロキ
隣の屋敷の紅號の前足=根岸季衣、同後足=都築香弥子
馬車屋の英(はなぶさ)號の前足=朝海ひかる、同後足=香寿たつき
本多武松少年=岡部恭子
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「たいこどんどん」の時もそうだったが、定式幕が使われている。役者たちが馬の足になったり人物になったりの早替りが想定される、いかにも「芝居ですよ」という雰囲気が漂う。
辻占売りの少年と乃木大将のエピソードは浪曲などで有名らしく、乃木邸の厩舎で愛馬に別れを告げている乃木大将にその少年本多武松が書生にして欲しいと食い下がる。ネクストシアターで顔なじみになっている岡部恭子がその体型も活かして大きくぶつかる感じがよい。
そのやりとりも含めて主たちの殉死の準備の雰囲気を感じ取った馬たちが騒ぎだす。並んだ馬たちの中から次々と役者たちが姿を現すと、本格的に被って馬の足をやってたんだなぁと感心してしまう。
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乃木大将の自決を予想するグループとそれを否定するグループに分かれ、乃木の半生を振り返りつつ挙証していくが、そういう場面では役者が馬の足の下半身のまま、上に衣装をつけて演じているのが可笑しい。馬たちは大真面目に論じているのだが、芝居全体は茶化しのテイストにまみれている。
頭を乗せる前足グループは理屈っぽく上品ぶっていて、後ろ足=下半身のグループは本能的で庶民的にふるまう。どちらが優れているかという論争になった時にそれぞれのグループで手をつないで「花いちもんめ」で熱く罵り合う場面など大笑いだ。
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劇中で歌われる歌はいずれも童謡など誰もが知っている歌の替え歌であり、歌詞は井上ひさしが練り上げているので、舞台の両脇に電光掲示板で示される。ただ聞き流すだけではなく、そこに込めた意味も読み取って欲しいということだろう。
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乃木希典は長州出身で、吉田松陰の叔父が開いた松下村塾に学んでいる。維新後の士族の反乱の一つ萩の乱への参加を実弟が求めに来たのを断り、その恩師も教え子たちのために自決する。その弟との話合いの場にあった連隊旗はぞんざいな扱いをされて笑いをとっているのだが、その旗を西南戦争従軍中に的に奪われたことが一生の不覚となる。負傷して歩けないので人を雇ってもっこで担がれ戦闘の中に出かけ、敵の弾に当たって死のうとするエピソードは笑えるが、乃木にとっては真剣だった。
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乃木のそうした行為の報告を受けた山県有朋と児玉源太郎は、天皇から賜った「連隊旗」は天皇の象徴として扱うという「型」を作ることで陸軍をまとめあげることを思いつく。そしてその乃木を陸軍をまとめあげるための象徴として利用することにする。陰謀をめぐらす2人を宝塚風に誇張して演じろというのが井上ひさしの戯曲の指定なのだが、蜷川はそれを本物の元宝塚トップ男役の香寿たつきと朝海ひかるというキャスティングで見せてくれた。それが実にカッコよくて可笑しいのだが、これも「茶化し」の大きな仕掛けだろう。
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乃木は愚将であったが「死んではならぬ」という明治大帝の存命中は自死もできず、それでも自分が生きていることの負い目を抱いて職務に励んだ。息子二人も名誉の戦死を遂げ、妻の静子は姑にも我慢して仕え、従軍していない時期にも学習院の院長となって寮に泊まり込む夫!静子は孤閨の寂しさに耐えながら、軍人の妻の鑑としてふるまっていた。井上芝居ならではのお色気ネタもここで炸裂するのがびっくりだったが、その本心を必死で夫に伝える静子を演じる根岸季衣が実によい。さらに二役で皇后も演じ、皇后として求められる型を必死でつとめているという芝居で、人間が本心を抑えて期待される「型」を演じるように生きるというのがよくわかった。
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宮中で天皇夫妻が軍人たちをねぎらう宴席での明治大帝のお言葉という台詞が、まさにこの芝居の人物造形を象徴している。「さまざまな型をつくりだし、国民に選択させる。それが国家の役割」だというのだ。天皇も皇后も例外でなく時代が求める「型」を演じたということだろう。大石継太の天皇役は品もあり抑制的な台詞回しなのが効果的だった。
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今回が蜷川芝居初登場の風間杜夫の飄々とした芝居がよかった。風間杜夫の舞台は
「風間杜夫ひとり芝居三部作」を2006年7月に観ている。蜷川組のお馴染みの役者たちの大熱演的な芝居の中でも一味違った雰囲気がある。そしてこのタイトルロールの乃木大将の一生を淡々と浮かび上がらせてくれたのが実によかった。本人は言葉も少なく大真面目なのだが、観ていると可笑しいサーカスの道化のようだった。
観終わって、井上ひさしは殉死した軍神を道化として描いたのだなぁという印象が閃いた。生きているうちは本人の意思に関係なく軍神に祀り上げられ、実は死に場所を探すようにして生き、死ぬなと言った明治大帝の死によってようやく自死をゆるされた。一人で死のうとしていたが静子夫人が一緒に死ぬことを望んだという。これ以上寂しい生を続けていくことに耐えられなかったのだろう。
朝日新聞のステージレビューは「時代が求める型とは?」というタイトルで、時代が求める人生の型を肯定的に書いていたが、それには強く違和感を抱いた。型を演じるように生きる時代ではないと思う。現代社会は混沌としているが、人がみな人間らしく生きられるようになるよう、自分の生き方も社会のあり方も考えながら生きていけるといいと強く願っている。
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それと、5月に観た
三島由紀夫の「椿説弓張月」と対極にある作品だと思えた。信念のために自決する美学を色濃く反映して源為朝を賛美した三島の作品と違い、軍神とされた乃木大将の殉死を井上ひさしは茶化してみせたのだ。私には井上ひさしの作品の方が好ましい。
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千穐楽カーテンコールの恒例で、最後にしっかり蜷川幸雄が舞台上に呼び寄せられていたが、今年も蜷川幸雄の演出の舞台の本数はすさまじい。
7本目の
「トロイラスとクレシダ」のプログラムに、そういう質問に答えているのが掲載されている。以下、その答えより引用。
「ぼくもまた澤瀉屋の新猿翁さんや新猿之助さんと同じように『演劇という病い』に冒されているんです。7月の演舞場の夜の部で猿翁さんが立ちあがって科白を言うと僕は感動しました。若い日、紀伊国屋書店の演劇書のコーナーでばったり会って、既成の縁演劇を二人で罵倒したことを思い出しました。」
こんなところで、共感しかりになるとは私もまた「演劇という病い」(観客の側ではあるが)に罹っているのだと自覚した。