ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

08/07/31 歌舞伎座夜の部①「夜叉ヶ池」再演でバージョンアップ!

2008-08-09 10:30:10 | 観劇

先日は歌舞伎座の七月公演全体を概観した記事を書いた。夜の泉鏡花作品だけでなく昼の狐忠信の通し上演も含め、座頭の玉三郎丈はどんな世界を描き出したかったのかなどを考察してみた次第。そこでも書いたが七月の作品は全て深山幽谷を舞台にしている。写真は今回公演の筋書表紙。ゴールドのチラシにも使われている山と谷の風景。まずは「夜叉ヶ池」から個別の感想も書いていこう。
「玉三郎座頭の七月大歌舞伎を貫いたもの・・・」

【夜叉ヶ池(やしゃがいけ)】
一昨年の歌舞伎座公演の時の記事はこちら
あらすじは省略。今回の配役は以下の通り。
百合=春猿 白雪姫=笑三郎
萩原晃=段治郎 山沢学円=市川右近
万年姥=吉弥 黒和尚鯰入=猿弥
穴隈鉱蔵=薪車 畑上嘉伝次=寿猿

今回は観る前に古本屋でGETしておいた戯曲で予習済み。
晃「水は、美しい。いつ見ても・・・・・・美しいな。」で始まる冒頭の百合と晃夫婦の会話。前回はなんとなく聞き流してしまっていたが今回はじっくり楽しめた。家の前の小川で米を洗っている百合を綺麗だと褒めるのに水から褒めるのだ。手伝おうかとか、お腹が空いたとかいうことを百合とじゃらじゃら話している内容なのだが、とにかく台詞が美しく、段治郎と春猿の芝居もいいものだから純な若夫婦の他愛のない会話に引き込まれてしまう。
右近の山沢が前回よりもまたぐっとよくなった。健康的に引き締まって台詞もこもらなくなって、3人での会話の場面を渡辺保氏も褒めていたが、なるほどと思わされた。

黒和尚鯰入が猿弥になって、鯉七と大蟹五郎との3人での会話から白雪姫の登場までの芝居もより濃くなった。白雪姫が二役となり笑三郎のキャスティングに期待していたが、予想をはるかに上回る。冷たく凛とした妖怪の姫君としては春猿よりも適役。白山剣ヶ峰千蛇ヶ池の公達に会いにいきたい気持ちがほとばしり、神との約束を破ることを恐れよと万年姥が必死で止めても暴走はとまらない。吉弥の姥の姫に対する思いも初演より深い。その白雪を冷静にさせる百合の子守唄。
白雪「・・・私がこの村を沈めたら、美しい人の命もあるまい。鐘を搗けば仇だけれども、この家の二人は、嫉ましいが羨ましい。おとなしゅうしてあやかろうな」
「美しい人」というのは百合の美しさをいうのかと当初は思っていたが、今回は美しい心を持つ百合と晃夫婦をさすのだと気がついた。妖かしの者も純心を持つ人間には敬意を払うのだ。

古くからの多くの人々の命を守るための伝説を信じ、人里離れた孤家に世も捨てて愛する者と二人で細々と日々を暮らす夫婦の純心。親友を見つけた山沢も二人の姿に打たれて晃を世に戻すことをしない。
伝説に守られているはずの村人が伝説を守る鐘楼守を馬鹿にし、旱には雨乞いに夜叉ヶ池の主に贄を捧げればよいという野蛮な言い伝えを信じている。これは目に見える供え物をするパフォーマンス重視=効果があればそれを司った者への権威付けが簡単にできるという俗っぽい信仰の真似事なのか。百合を裸にして牛に乗せて池まで連れていけば雨が降ると言い張る。薪車の穴隈鉱蔵を頭に抱いて頑迷暴虐の民、好演(笑)
山沢の浄土真宗の坊主としての説得にも耳を貸さない村人たち。騒動の中、晃が傷つくと百合は鎌で自分の胸を刺して死ぬことで混乱を収めようとする。
丑三つの鐘を鳴らさないことを決意し撞木を切り落とすと地響きを立てて池は決壊。それを見届けて晃も喉を掻っ切って自害。白雪と夜叉ヶ池の眷属たちが村人たちを洪水の中で屠りさる。

さぁ最後だ。ここで期待していたのは戯曲通りに二役が生きる幕切れを期待していた私。
白雪「この新しい鐘ヶ淵はお二人の住居にしよう。皆おいで。私は剣ヶ峰へ行くよ。・・・・・・もうゆきかよいは思いのまま。お百合さん、お百合さん、いっしょに唄をうたいましょうね。」忽ちまた暗し。既にして巨鐘水にあり。晃、お百合と二人、晃は竜頭に頬杖つき、お百合は下に水に裳をひいて、うしろに反らして手をつき、打仰いで、熟と顔を見合わせにっこりと笑む。時に月の光煌々たり。学円、高く一人鐘楼に佇み、水に臨んで、一揖し、合掌す。月いよいよ明なり。

残念、これはなかった。笑三郎を中心に眷属たちが並んで絵面に極まっての幕切れだった。そうか、これは女形のどちらを立てるかによって最後が違うのだろうなぁと合点したが、やっぱり二役だから早替りしなくていいから原作通りの演出で観たいなぁと思ってしまった次第。
7/26昼の部①「鳥居前」
7/26昼の部②竹本のみの「吉野山」
7/26昼の部③「四の切」