シェイクスピアの『十二夜』は、山崎清介たちの「子どものためのシェイクスピアシリーズ」で1度、大地真央主演の東宝ミュージカルで2度観ている。そして今回は蜷川幸雄演出の歌舞伎版。アレンジなしの舞台は未見。トレバー・ナン演出の映画版でもDVDで観てみようかなと思っている。
だから、シェイクスピアの原作の登場人物の名前の方がぴんとくるので、以下、人物一覧に付記しておく(表記は私の読んだ松岡和子訳より)。
斯波主膳之助(セバスチャン)、獅子丸(シザーリオ)実は琵琶姫(ヴァイオラ)=尾上 菊之助
大篠左大臣(オーシーノー公爵)=中村 信二郎
従者幡太(ヴァレンタイン)=坂東 秀調
従者久利男(キューリオ)=尾上 松也
織笛姫(オリヴィア)=中村 時蔵
丸尾坊太夫(マルヴォーリオ)、捨助(フェステ)=尾上 菊五郎
左大弁洞院鐘道(サー・トービー・ベルチ)=市川 左團次
麻阿(マライア)=市川 亀治郎
比叡庵五郎(フェイビアン)=市川 團蔵
右大弁安藤英竹(サー・アンドルー・エイギュチーク)=尾上 松緑
海斗鳰兵衛(アントーニオ)=河原崎 権十郎
舟長磯右衛門(船長)=市川 段四郎
役人頭嵯應覚兵衛 坂東 亀三郎
こうして見ると、名前からしてよく考えて翻案してある。これで最後の麻阿の「トービー」「アンドルー」 にひっかけた台詞もわかると思う。今回は小田島雄志翻訳の脚本を下敷きに今井豊茂が上演台本を書いているが、なかなかよくできていると思った。シェイクスピアの芝居は韻を踏んだダジャレがとにかく多いので、それを英語からそのまま日本語にはできない。多少意味が違っても韻を踏んだ言葉でその感覚を楽しむのだ。だから翻訳者が違うと大分違う言葉があてはめられていたりする。それもまた面白いのだが。
しかしながら、室町時代末期の日本に舞台を置き換えていて、最も無理があるのは道化のフェステだ。「阿呆」と翻訳されるが、日本語にするとどんな存在なのか今ひとつピンとこない。また、原作では乱心したとされるマルヴォーリオをさんざん馬鹿にするのは道化の役回りなのだが、菊五郎がマルヴォーリオと道化の役を二役でこなすためにフェイビアンの役回りに書き換えられている。そうなると道化の存在意義がまた薄くなる。「阿呆」といつも呼ばれている人間がマルヴォーリオを「阿呆」よばわりするのが面白いのだ。無理に二役にしなくてもよかったのではないかなと思うが、まあ、菊五郎を情けないマルヴォーリオのままにせず、最後に花道で引っ込ませたいとなると道化にせざるを得なかったのかもしれない。
それとヴァイオラとシザーリオだけでなく兄のセバスチャンまでを菊之助の三役にしたのも無理があったと思う。いくらそっくりのラバーの仮面を作っても最後の兄と妹の再会の場面で会話もあったり、2組の恋人たちを並ばせたりもするのに仮面の身替りは興ざめだった。
あと、二幕目の冒頭のオーシーノー公爵の恋病みをなぐさめる宴席のシザーリオの踊りは長すぎて眠くなってしまった。けっこう話が長いし、場面転換でも時間をとられるのだから、踊りの途中からにするなど短くして欲しかった。
と、先に気になった点をつらつら書いてしまったが、ひとことで言うと堪能できた舞台だった。冒頭の満開の桜の木の下で、ローマ法王へ送られた天正の少年使節を思わせる少年たちがチェンバロの演奏で歌うところから室町末期のあでやかな世界にすーっと入ってしまった。いろいろな方のブログで評判だったチェンバロ、期待にたがうことはなかった。
奥の鏡と手前のマジックミラーを多用した舞台は美しかった。特に左右にも鏡を置いたので三面鏡のようになり、今日は奮発して2階東席で観たのだが、オーシーノー公爵の登場場面で本人と鏡2箇所に写った姿で3人の姿まだ見ることができたのはなかなか面白かった。とにかく客席までが写りこむ今回の舞台は、これまでも特設の対面の客席を作るのが好きな蜷川幸雄らしかった。海の場面でも波布プラス波を表現する照明で迫力満点。オリヴィアの屋敷の庭にある2つの橋も鏡で4つになり、そこを人物がわたってくるのも美しい。回り舞台による舞台転換が多い歌舞伎の奥行が半分になる舞台を鏡で効果的に奥行を倍にするという効果で「歌舞伎座の奥行のない横長の舞台」も自分好みに変えてしまった。
その回り回って時間のかかる舞台転換もチェンバロや三味線の音色の中で前の場面の余韻を楽しめる時間になった。ピアノと違って弦をはじくチェンバロの音色は三味線ともなじみがいい。舞台装置、照明、音楽、どれも斬新でよかった。
今回は蜷川幸雄の初めての歌舞伎演出だったが、今後もぜひ取り組んで欲しいと思う。今日お隣の席に座った方は蜷川幸雄の舞台がお好きで観にいらしたとのことだった。こうして歌舞伎座に普段いらっしゃらない方にも観ていただけたのだから、
勘三郎が野田秀樹とコラボレーションしたのと同様、これからも続いていって欲しい。そうそう『桜姫』のコメント欄での盛り上がりの中で書いたが『NINAGAWA桜姫』なんてどうだろう。舞台でなくて映画でもいいけれど。映画なら菊之助の姉の寺島しのぶなんてどうかな?などと勝手な企画をしてしまう。
さて、主要キャスト評。
菊之助
『源氏物語』の紫の上から観ているが、「兼ねる役者」として立派に成長してくれていて嬉しい。私はどちらかというと姫の扮装よりも若衆姿の方がきりりとしていて好きだ。さらに小姓として主の前にいるのに姫の本心がにじみ出てうっとりする場面は可愛らしさにあふれ、3つの役で表情、しぐさとも表現が自在で魅力的だった。口跡がいい上に3つの役で3つの声の使い分けもしっかりできているのもさすが。
時蔵
八重垣姫で初めて観て、先月の小万でかなり贔屓度をあげたが、今回も端正に美しい姫姿。気位が高いくせに年下の可愛い男に惚れると途端に可愛くなってしまう姫を十二分に可愛く演ってくれた。
信二郎
「子持山姥」の夫役で観たが、線が細い印象だった。今回はお髭姿で正統派の二枚目。時蔵との兄弟共演がこんなに美しく決まるとは予想以上だった。この3人の舞台写真を買ってしまった。
左團次
天衣無縫なキャラがぴったりだった。今まで観た中で一番好きだと思う。
松緑
ここまでの三枚目をやれば今後こわいものはないと思う。でも写真を売ってないのはこの姿をファンにいつまでもとっておいて欲しくなかったのかなあ。もっと開き直ってつきぬけてくださ~い。
亀治郎
コメディエンヌ?ぶりがすごい。こんなに活き活きと演じている姿を初めて観た。こういった役ももっともっとやってほしい。
写真はこの公演のチラシ写真(松竹のHPより)。
11月の新橋演舞場の『児雷也豪傑譚話』が早くも楽しみ。奮発しそうでこわい。
だから、シェイクスピアの原作の登場人物の名前の方がぴんとくるので、以下、人物一覧に付記しておく(表記は私の読んだ松岡和子訳より)。
斯波主膳之助(セバスチャン)、獅子丸(シザーリオ)実は琵琶姫(ヴァイオラ)=尾上 菊之助
大篠左大臣(オーシーノー公爵)=中村 信二郎
従者幡太(ヴァレンタイン)=坂東 秀調
従者久利男(キューリオ)=尾上 松也
織笛姫(オリヴィア)=中村 時蔵
丸尾坊太夫(マルヴォーリオ)、捨助(フェステ)=尾上 菊五郎
左大弁洞院鐘道(サー・トービー・ベルチ)=市川 左團次
麻阿(マライア)=市川 亀治郎
比叡庵五郎(フェイビアン)=市川 團蔵
右大弁安藤英竹(サー・アンドルー・エイギュチーク)=尾上 松緑
海斗鳰兵衛(アントーニオ)=河原崎 権十郎
舟長磯右衛門(船長)=市川 段四郎
役人頭嵯應覚兵衛 坂東 亀三郎
こうして見ると、名前からしてよく考えて翻案してある。これで最後の麻阿の「トービー」「アンドルー」 にひっかけた台詞もわかると思う。今回は小田島雄志翻訳の脚本を下敷きに今井豊茂が上演台本を書いているが、なかなかよくできていると思った。シェイクスピアの芝居は韻を踏んだダジャレがとにかく多いので、それを英語からそのまま日本語にはできない。多少意味が違っても韻を踏んだ言葉でその感覚を楽しむのだ。だから翻訳者が違うと大分違う言葉があてはめられていたりする。それもまた面白いのだが。
しかしながら、室町時代末期の日本に舞台を置き換えていて、最も無理があるのは道化のフェステだ。「阿呆」と翻訳されるが、日本語にするとどんな存在なのか今ひとつピンとこない。また、原作では乱心したとされるマルヴォーリオをさんざん馬鹿にするのは道化の役回りなのだが、菊五郎がマルヴォーリオと道化の役を二役でこなすためにフェイビアンの役回りに書き換えられている。そうなると道化の存在意義がまた薄くなる。「阿呆」といつも呼ばれている人間がマルヴォーリオを「阿呆」よばわりするのが面白いのだ。無理に二役にしなくてもよかったのではないかなと思うが、まあ、菊五郎を情けないマルヴォーリオのままにせず、最後に花道で引っ込ませたいとなると道化にせざるを得なかったのかもしれない。
それとヴァイオラとシザーリオだけでなく兄のセバスチャンまでを菊之助の三役にしたのも無理があったと思う。いくらそっくりのラバーの仮面を作っても最後の兄と妹の再会の場面で会話もあったり、2組の恋人たちを並ばせたりもするのに仮面の身替りは興ざめだった。
あと、二幕目の冒頭のオーシーノー公爵の恋病みをなぐさめる宴席のシザーリオの踊りは長すぎて眠くなってしまった。けっこう話が長いし、場面転換でも時間をとられるのだから、踊りの途中からにするなど短くして欲しかった。
と、先に気になった点をつらつら書いてしまったが、ひとことで言うと堪能できた舞台だった。冒頭の満開の桜の木の下で、ローマ法王へ送られた天正の少年使節を思わせる少年たちがチェンバロの演奏で歌うところから室町末期のあでやかな世界にすーっと入ってしまった。いろいろな方のブログで評判だったチェンバロ、期待にたがうことはなかった。
奥の鏡と手前のマジックミラーを多用した舞台は美しかった。特に左右にも鏡を置いたので三面鏡のようになり、今日は奮発して2階東席で観たのだが、オーシーノー公爵の登場場面で本人と鏡2箇所に写った姿で3人の姿まだ見ることができたのはなかなか面白かった。とにかく客席までが写りこむ今回の舞台は、これまでも特設の対面の客席を作るのが好きな蜷川幸雄らしかった。海の場面でも波布プラス波を表現する照明で迫力満点。オリヴィアの屋敷の庭にある2つの橋も鏡で4つになり、そこを人物がわたってくるのも美しい。回り舞台による舞台転換が多い歌舞伎の奥行が半分になる舞台を鏡で効果的に奥行を倍にするという効果で「歌舞伎座の奥行のない横長の舞台」も自分好みに変えてしまった。
その回り回って時間のかかる舞台転換もチェンバロや三味線の音色の中で前の場面の余韻を楽しめる時間になった。ピアノと違って弦をはじくチェンバロの音色は三味線ともなじみがいい。舞台装置、照明、音楽、どれも斬新でよかった。
今回は蜷川幸雄の初めての歌舞伎演出だったが、今後もぜひ取り組んで欲しいと思う。今日お隣の席に座った方は蜷川幸雄の舞台がお好きで観にいらしたとのことだった。こうして歌舞伎座に普段いらっしゃらない方にも観ていただけたのだから、
勘三郎が野田秀樹とコラボレーションしたのと同様、これからも続いていって欲しい。そうそう『桜姫』のコメント欄での盛り上がりの中で書いたが『NINAGAWA桜姫』なんてどうだろう。舞台でなくて映画でもいいけれど。映画なら菊之助の姉の寺島しのぶなんてどうかな?などと勝手な企画をしてしまう。
さて、主要キャスト評。
菊之助
『源氏物語』の紫の上から観ているが、「兼ねる役者」として立派に成長してくれていて嬉しい。私はどちらかというと姫の扮装よりも若衆姿の方がきりりとしていて好きだ。さらに小姓として主の前にいるのに姫の本心がにじみ出てうっとりする場面は可愛らしさにあふれ、3つの役で表情、しぐさとも表現が自在で魅力的だった。口跡がいい上に3つの役で3つの声の使い分けもしっかりできているのもさすが。
時蔵
八重垣姫で初めて観て、先月の小万でかなり贔屓度をあげたが、今回も端正に美しい姫姿。気位が高いくせに年下の可愛い男に惚れると途端に可愛くなってしまう姫を十二分に可愛く演ってくれた。
信二郎
「子持山姥」の夫役で観たが、線が細い印象だった。今回はお髭姿で正統派の二枚目。時蔵との兄弟共演がこんなに美しく決まるとは予想以上だった。この3人の舞台写真を買ってしまった。
左團次
天衣無縫なキャラがぴったりだった。今まで観た中で一番好きだと思う。
松緑
ここまでの三枚目をやれば今後こわいものはないと思う。でも写真を売ってないのはこの姿をファンにいつまでもとっておいて欲しくなかったのかなあ。もっと開き直ってつきぬけてくださ~い。
亀治郎
コメディエンヌ?ぶりがすごい。こんなに活き活きと演じている姿を初めて観た。こういった役ももっともっとやってほしい。
写真はこの公演のチラシ写真(松竹のHPより)。
11月の新橋演舞場の『児雷也豪傑譚話』が早くも楽しみ。奮発しそうでこわい。