ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

2015/06/14 自分がしっかり生きることが社会にとってもよいこと

2015-06-14 23:59:41 | つれづれなるままに

昨日6/13(土)は、中学時代の友人との2年ぶりの会食とその後のサプライズもあって、何十年ぶりかで同級生やお世話になった先生とお会いできたり、電話がつながったりと、奇跡のようなことも起きて幸せな一日で終わるはずだった。
ところが寝る前に、また娘に裏切られていたということが発覚して寝つけなくなった。大学に行きたいのに行けないという精神不安定もあったのだろうが、買い物依存症が治らずに使い込まれてしまっていた。私の管理が甘かったことで自己嫌悪にさいなまれる。
娘の方からきちんと話を聞くことができたが、「お母さん、私に社会によいことをしろと言ってプレッシャーをかけないで」と言われてしまったこともショックだった。

私は「人様に迷惑をかけるな」と言って育てる日本の多数派の価値観には立たない。迷惑をかけることがあっても、自分らしく社会に役立つことができないかを考えて生きられるようになって欲しいと育てることが大事だと思っている。娘には「貴女が自分のことをきちんとできるようになってしっかり生きて行とは、単にプライベートなことなのではなく、そのことが社会にとってもよいことだと思っていいんだと答えた。
「私と一緒に暮らして引きこもって甘えた生活を続けることは、娘にとってプラスにはならない。なるべく早く、生活の訓練の場所での生活を始めてもらえるようにして、無駄なお金を使う余裕もなくさないといけないねという結論に至る。

今の日本は、弱者の社会的包摂のしくみが不十分すぎる。それを放置したまま、「強兵」のための「富国」政策をとる政権の暴走をとめなけらばならない。
日曜日の6/14(日)は午後から国会を取り巻く2万5千人の中の一人になった。ご一緒できる職場関係のお仲間6人で参加して、しっかり意思表示してきた。合流できなかったOBの方々の中には渋谷の若者集会にも参加してから国会に回ってきている方もいるとお聞きして、若い世代に共感できることが素敵だと思った。
そうして、娘を社会にきちんと包摂してもらえるような努力を続けなければと覚悟する。
それでも声を上げて泣きたいが、今のところは静かに泣ける時に泣くだけにしたい。

冒頭の写真は6/12に撮影した職場近くの外濠公園の紫陽花。紫陽花のいろとりどりの色は不思議だが、その多様性があることが好ましい。

2015/06/06 身内のことと同じように社会全体のことを考えられるか?

2015-06-06 23:59:54 | つれづれなるままに

冒頭の写真は4/30にJR四ツ谷駅前のロータリーの植え込みのツツジが色とりどりであまりに綺麗だったので撮影。記事アップが滞っていてご紹介できていなかった。季節は少々ずれているが、もったいないのでこちらでアップ。

疲れ切っているのに早く寝られず、寝ついて起きたら昼近く。娘はさらに昼過ぎても起きてこない。2日連続で欲しいものをGETしに外出し、昨日はその上にヘルパーさんが来て部屋の片づけを一緒にしたために相当疲れたらしい。
娘は、どうして自分では片づけができないのだろうとネット検索したらADHDとかADDとかに該当するのではないかと中学生ぐらいから思っていたと最近になって聞いた。それなら早く言って欲しかったなぁ。引きこもり症状の方ばかり着目して鬱病の治療だけしていたので、生活訓練が遅れてしまった。これからそれに取り組んでいくのだが、それにしても私が見ていられない。
昨日のおそうじでは出かける時に買ったPETボトルが4本出された。500、550、600、630mlと最近の商品が容量アップ競争になっているのがわかって面白かったが、それでもその先のごみ出しは私がやるわけで、全く嬉しくはない。

声をかけても起きそうにないので出かけてしまおうと、実家の母親に電話をして映画をみようと誘ったら出てくるという。JRさいたま新都心駅で待ち合わせをして、先にネットでシネコンのチケットを確保しておく。GWに連れてこようと思っていたコクーンシティだが、足の甲を捻挫していて先延ばしになっていたのでちょうどよい。

なんとか上映時間に間に合って観たのは「駆け込み女と駆け出し男」。井上ひさしの時代小説「東慶寺花だより」が原案で、歌舞伎でも染五郎を主演に舞台化されていたのを観ているので、予告編を見た時から見る気十分だった作品だ。ところが、母にはちょっと無理だった。駆け込みをする女の4~5人に焦点があたって同時進行する描き方がもう理解が難しかったようで隣席で「これはちょっと・・・」と声を出す。これが私にどんな気持ちにさせるかということには配慮はない。我慢!

その後、新しくできたコクーン2の中を散策したが、通路は広すぎるし、若い世代向けの店ばかり。食事ができる所も案内したが、私と娘が気に入っている「おぼん de ごはん」もオープンスペースで落ち着かないし、ボリュームが多いメニューから嫌と言い、デニーズにしようということになった。やっぱりね。

先週土曜日は仕事帰りに届け物もあったので実家に行ったのだが、それ以降の気分の落ち込みについての報告を聞く。週に3回、2箇所の通所リハビリに通っているが、火曜日の午後のリハビリを変えたいとケアマネージャーに申し出て、紹介された施設2箇所を見学してきたら、期待してはいずれもがっかりさせられて、好きな本も読みたくないほど鬱状態がひどくなったという。そこで月曜日の施設のスタッフで話ができる方に同じ施設で他の曜日で空きがないかを調べてほしいとお願いしたらしい。自分で納得するように頑張って交渉できるところは母のいいところだ。なんとか希望が叶うといいと思う。

その後の世間話の中で、「アメリカからオスプレイを買わされるのも中国に島をとられないようにするためには仕方がない」という人がいて、その人に私が反論した話をしたら、母が「私も島をとられるのはよくないと思う」と言い出してカッチーン。どうして領土問題で政府が言っているようなことに賛同する人が多いのかと嘆いている私の前でそういうことを言い出すのか?やはり、日本はアメリカに負けただけで、侵略戦争をしたことが問題なのだという共通認識が国民の中に形成されていなかったのだとまたまた痛感させられる。

「原発もなくすというのは電気料金が上がるからできないでしょう」とも言い出す。やはりマスコミの報道を鵜呑みにしている。以前、創価学会の地元議員が来て意気投合して投票に行ったと得々と私に話して激怒させ、その後また公明党もダメだとか言い出して、どこの議員もダメだとかわかったようにしゃべる姿に心底がっかりしたものだが、今日もまたがっかり。

誘ってくれて嬉しかったと何度も言ってくれるのはいいが、母の相手も相当な我慢を強いられた。そういえば、私が学生だった頃に母が「世界の人口が増えすぎないように戦争があちこちで起こるのも仕方がないでしょ」ともしゃべっていたのを聞いてあきれたものだった。自分が戦争を体験していっぺんに貧乏になってしまったことは嘆いているが、母は他の人には戦争で同じような思いをさせたくないとは思わないようだ。戦争で亡くなった身内がいないせいなのだろうか。

母は身内の心配をしていることで自分がストレスを受けていると言い募る。しかしながら、相手のことを本当に心配しているというよりは、心配している自分しか見ていないのだと思える。そのような心配の仕方だからこそ、社会全体のことを他人事のようにしか考えられないのではないだろうか。

それにしても、身内のことは気にかけても、社会全体のことを自分が責任をもつ立場として考えている人が少なすぎはしないだろうか。そのことが日本社会が成熟した国になっていないという問題の根っこにあると思える今日この頃。それでも自分だけで走り去ることはできないのだと覚悟するしかないだろう。