ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

08/08/05 玉三郎座頭の七月大歌舞伎を貫いたもの・・・

2008-08-05 23:58:11 | 観劇

昨日も今日も関東を局地的で強烈な雷雨が襲う。日本は亜熱帯になりつつあるという異常気象の現われ。環境に傲慢な人間への報いではないか。今日などは職場の窓から稲光が射し、間もなく地響きを立てる雷鳴におののいた。

一昨年の七月大歌舞伎で玉三郎の鏡花作品一挙上演について考えた記事を書いたが、今回も反芻しながらいろいろと考えが浮かんでくる。
今回は夜の部だけ鏡花作品だが、昼の部を狐忠信の通し上演としたこととの関連もなんとなくイメージが湧いてきた。
手がかりのひとつは今回の公演のゴールドの方のチラシだ。その前のシルバーのチラシは篠山紀信撮影の玉三郎・海老蔵のツーショットのスチール写真(「吉野山」「高野聖」)を両面にした贅沢なもの。ゴールドの方はその2つの写真を下の方に小さく入れて上には深山幽谷の墨絵のようなモノクロ写真を入れている。
今回の演目はいずれも深山幽谷を舞台にしている作品だ。そしていずれも人間界を離れた存在が支配する世界が繰り広げられる。

「義経千本桜」では狐忠信。「夜叉ヶ池」の主の白雪姫、「高野聖」の女。そしてその異界の者たちの見せる「純心」が胸をうつ。その「純心」は異界の者でも持っているというところがインパクトを強めている。

「義経千本桜」では狐ですら肉親への情愛があるのにそれに恵まれない人間=義経の悲劇が際立つ。
「夜叉ヶ池」の百合も背中に鱗が8枚あったのを見たとされている。その人間離れした美しさで心の美しい晃を村にとどめて鐘楼守にしてしまったというところにある程度の超能力を持った存在だったことがうかがわれる。「夜叉ヶ池」の主・白雪姫の恋情の激しい噴出から神との約束を破る暴走を抑えることができたのが百合の子守唄だということからも、白雪は百合への同族的シンパシーを感じたのだろう。人間が昔々の約束を忘れ果てて、鐘を鳴らさなかったことで夜叉ヶ池が決壊。その洪水で人々は死に絶えるが百合と晃は新しくできた鐘淵の主とされる。こうしてふたりの純心は永遠の愛の生活を保障された。

玉三郎のコメントにもある今回の鏡花作品はいずれも洪水の前と後という上の句と下の句の関係という指摘もさらにイメージを膨らませる。白雪と百合と「高野聖」の女はいずれも元は人間の女であり、それが水の力で異界の存在に生まれ変わったり、異界の力を身につけたりしている。白雪と百合は決然と自死した身体を水につけることで永遠の存在になった。
一方、「高野聖」の女は医者の娘であった時から持っていた超能力が、洪水で村が死に絶えた中を生き残り、新しくできた流れに身を浸すことで呪わしい力までを身につけてしまったのだ。「聖女か魔性の女か」というよりは「魔人」の域に入ってしまったのだと思えた。

その魔人は美しく、孤家に迷い込んだ男たちが劣情を抱けば即座に動物の姿に変えてしまう。それは誇り高かった女がそれまでに抱いてしまった「男というものはどうせそういう醜い存在」という思い込みを確認するや否や、その魔力で与えてしまう罰に違いない。蝙蝠や蟇や猿にした者たちに対して「お前たちは生意気だよ」と一喝する態度で推測できる。洪水から一緒に生き残った白痴の次郎と親仁はそういう劣情を抱く男たちではないので共同生活が送れるのだ。

馬に買えた薬売りを追って現われた高野聖の宗朝のような男には、女は会ったことがなかったようだ。親仁もすぐに動物にされるとたかをくくっていた宗朝を、女も当初そのように見ていただろう。宗朝のおばさんくらいの年の女に敬意を込めて「嬢様」と呼んでくれたことから、魔人の本性はなりをひそめ、人間だった頃の「純心」が呼び覚まされる。できればここで一緒に添いたいという気にもなるが、宗朝の煩悩と闘う志の強さを見てとって、きっぱりと送り出すのだと思った。

別れてからしばらくして女を救いたいという気を起こしていた宗朝の姿を親仁が見つけて思い切らす。
宗朝が「白桃の花、魔人の姿」と一言もらし、じっと彼方を見つめての幕切れ。石川耕士の台詞なのか、非常に心に残った。
このお話も修行中の僧侶の見た煩悩の夢なのかもしれないという。それであれば、まさに「夢幻能」的な作劇である。
異界の者の「純心」を描いた世界から再び目覚めての打ち出しとなった。

写真は公式サイトより今回の公演のチラシの画像。
7/26昼の部①「鳥居前」
7/26昼の部②竹本のみの「吉野山」
7/26昼の部③「四の切」
7/31千穐楽夜の部①「夜叉ヶ池」
7/31千穐楽夜の部②「高野聖」魔人の純心