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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

またとない天頂の瞬間

2025-04-29 | 
承前)フランクフルトで座付き楽団でも普段馴染みのない楽曲となると慣れなければ駄目だということが語られた。当然のことながらベルリナーフィルハーモニカーにとっては演奏技術よりも如何に歌手と一緒に歌い表現するかの難しさがある。楽譜に如何に正確に書かれていても、そこに感情移入がなければ歌えないのは歌手も同じである。

現在のフィルハーモニカーはそこまでインスプレ―ションを膨らませて演奏する領域へと練磨している。

その点でも一幕終了の二重唱のところが楽日の頂点だった。初日の熱唱、抑えた二日目の蝶々さんのブルラットに対しては、特に演出面での女性陣からの批判が聞かれた。それは、絡みをさせた踊り子に対して、蝶々さんを前で一人で歌わせてとなるのだが、恐らくこの場面がこの制作での決定的な場面となっていた。

迫害場面に続く六拍子のアンダンティーノカルモからピンカートンの直情的なヴィエーニに至るまでの蝶々さんの心理則ちその音楽が最もこのオペラの音楽的鍵になる所で、実際のそこから幕までのブルラットの歌唱は今後ともイタリア語歌唱として聴けるかどうかわからない最高のものであった。歌唱でこれほど感動したことは今迄嘗てなかった。

それは舞台の助けを得ることでの奏者のそしてそのライヴでしかありえない熟練のペトレンコの棒捌きによるものであった。因みに日曜日に放送されたベルリンからの演奏会ライヴ中継オンデマンドでその部分を流してみたが、やはり到底叶うものではない。音響的な影響ではなく、何もかもがあの星の輝くようなハイライトを迎えることは決してない。

独語歌唱にはまたその深い響きや音楽にそうした瞬間が現れる。イタリア語にはその輝かしさと煌めきの瞬間がある。ここでのとても細やかな少女の心理表現は全く容易なものではなく、これだけ正確にそして声を制御しながらの歌唱は今まで録音等でも聴いたことがないもので、強いて言えばレナータ・スコットの歌唱に近いものがあった。勿論音楽性を持ち合わせた演奏がそこでなされなければ、より素晴らしい歌唱とはならない。そういう貴重な一瞬であったのだ。

プッチーニでそしてイタリアオペラでそういう瞬間を体験しなければその価値も決して知ることはないだろう。芸術とはそうした一瞬の輝きでしかない。

舞台では、星条旗の赤い部分を背にかけて舞台の漆黒へと歩んでいく蝶々さんで幕となる。ここでのピンカートンと蝶々さんとの描き分けは楽譜に書いてある。然し現実の舞台で、それを強調することなく音楽的にも歌い切って演じ切れるような演出は中々ないということである。

ネットの世界を重ねてみるとよく分かるかもしれない。どのような声も同じようにその力の強さによってのみ通り方が異なる。ここはこの作品の新制作の腕の見せどころであった。(続く)



参照:
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
歴史に定着する創造活動 2025-04-27 | 音

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