
(承前)キリル・ペトレンコがバーデンバーデンへの置き土産としたのは何か?この指揮者がベルリンのシェフへの就任演奏会プログラムに選んだ曲が第九であった。その時はベルクの「ルル」組曲が前半に演奏された。然し今回はこの一曲だけであった。祝祭期間中に容易に演奏する曲はなかったものと思われる。二月頭にキャンセルとなり月が替わって演奏される「田園」交響曲の予行練習も兼ねなかった。
抑々就任当時に語っていたプログラミングへの意志とそのような時にはどうしても九番という発言をここでも受け止めた。ルツェルンの音楽祭でベルリンで二回、ザルツブルクに続いて都合三回目の演奏を聴いて、その時の感想を今読んで思い起こす。
合唱が先ずあって、その構想から全て創作されて行ったとあるが、今回の演奏はまさしくそこでその意味合いを明白にしていた。外界から閉ざされた楽聖は自らに問質すと同時に我々にそれを投げかけている。後期の作品として四重奏曲で有名なMuss es sein?とされる作品があるが、その意味は必ずしも自省的な自閉での問いかけではない。
そのことは先日亡くなったソヴィエトからの亡命者だったタタール人のグバイドリーナ女史に、これまた一月のベルリン定期でバーバーのアダージョに続いて演奏された「神の怒り」へと引き継がれていた。そのように第九においても楽聖自身を含めて我々に問うている。
それはよりによって1824年の王政復古において、シラーの歓喜に寄せてのテキストの合唱をつけた第九交響曲を決断した楽聖をして、二年前に亡くなった作曲家アリベルト・ライマンは、「政治的動乱とその悲惨の時を自ら体験したベートーヴェンは、その後この作品の終わりで以て、兄弟愛、喜びと歓喜、世界平和のユートピア、戦争も破壊もない世界への憧憬へのアピールとした。」と評価している。
今回の復活祭のプログラミングでは、「蝶々さん」においてもその権力が取り分け大きな主題となっていた。その初日におけるあまりにも厳しい響きが山伏の登場に奏でられていて音響的なクライマックスとなっていたのだが、一回目の第九演奏においても既述したように同じように厳しい響きがカタストロフそのものを表していた。
山伏のそれは、まさしくペトレンコの家庭がソヴィエトの崩壊において、ユダヤ人として迫害されていく環境にあったことが重ねられているからに違いない。少なくともそうしたイメージ無しにはそうした激しい表情の指揮は出来ない。そうした重圧が圧し掛かるほどの対極がそこに用意されている。
既に楽聖もその当時は、「ミサソレムニス」も教会での演奏を拒否されるなどして、より社会的に孤立していたのであり、仏教への傾倒を示していたとされている。歴史的なトルコ人のヴィーン包囲など、モーツァルトのそれから引き継いだような文化的な意匠としてもそこで利用されている。所謂パシフィズムとされる平和主義の声である。
それゆえに、楽聖はこの交響曲で人々への訴えとして、どのような形でそれを表現しようとしたのか。既にテキストはある。そこで創造が為されるのは音楽でしかない。(続く)
参照:
adagio molto e cantabile 2019-09-06 | 音
諮問されない音楽事情 2025-04-24 | 文化一般
抑々就任当時に語っていたプログラミングへの意志とそのような時にはどうしても九番という発言をここでも受け止めた。ルツェルンの音楽祭でベルリンで二回、ザルツブルクに続いて都合三回目の演奏を聴いて、その時の感想を今読んで思い起こす。
合唱が先ずあって、その構想から全て創作されて行ったとあるが、今回の演奏はまさしくそこでその意味合いを明白にしていた。外界から閉ざされた楽聖は自らに問質すと同時に我々にそれを投げかけている。後期の作品として四重奏曲で有名なMuss es sein?とされる作品があるが、その意味は必ずしも自省的な自閉での問いかけではない。
そのことは先日亡くなったソヴィエトからの亡命者だったタタール人のグバイドリーナ女史に、これまた一月のベルリン定期でバーバーのアダージョに続いて演奏された「神の怒り」へと引き継がれていた。そのように第九においても楽聖自身を含めて我々に問うている。
それはよりによって1824年の王政復古において、シラーの歓喜に寄せてのテキストの合唱をつけた第九交響曲を決断した楽聖をして、二年前に亡くなった作曲家アリベルト・ライマンは、「政治的動乱とその悲惨の時を自ら体験したベートーヴェンは、その後この作品の終わりで以て、兄弟愛、喜びと歓喜、世界平和のユートピア、戦争も破壊もない世界への憧憬へのアピールとした。」と評価している。
今回の復活祭のプログラミングでは、「蝶々さん」においてもその権力が取り分け大きな主題となっていた。その初日におけるあまりにも厳しい響きが山伏の登場に奏でられていて音響的なクライマックスとなっていたのだが、一回目の第九演奏においても既述したように同じように厳しい響きがカタストロフそのものを表していた。
山伏のそれは、まさしくペトレンコの家庭がソヴィエトの崩壊において、ユダヤ人として迫害されていく環境にあったことが重ねられているからに違いない。少なくともそうしたイメージ無しにはそうした激しい表情の指揮は出来ない。そうした重圧が圧し掛かるほどの対極がそこに用意されている。
既に楽聖もその当時は、「ミサソレムニス」も教会での演奏を拒否されるなどして、より社会的に孤立していたのであり、仏教への傾倒を示していたとされている。歴史的なトルコ人のヴィーン包囲など、モーツァルトのそれから引き継いだような文化的な意匠としてもそこで利用されている。所謂パシフィズムとされる平和主義の声である。
それゆえに、楽聖はこの交響曲で人々への訴えとして、どのような形でそれを表現しようとしたのか。既にテキストはある。そこで創造が為されるのは音楽でしかない。(続く)
参照:
adagio molto e cantabile 2019-09-06 | 音
諮問されない音楽事情 2025-04-24 | 文化一般
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