Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

教養講座のような内容

2021-04-22 | 
注文したCDが届いた。ずっしりとした印象で、なぜかなと思った。全てウニヴァ―サルの二種のレーベルのもので一つ一つの製品が重い。ブックレットも三カ国語でパージ数も標準だと思うが、最近はプラスティックケースも珍しくなったので、またCD自体も印刷が分厚い。デザインはLPなどのそれに準拠したものはそれなりの金が掛かっている。

先ずは早速3.99ユーロの価値を確かめるためにポリーニのスケルツィの音出しをした。久しぶりにずっしりとしたしかし若干籠ったようなピアノの録音を聴いた。1991年にミュンヘンのヘラクレスザールで録られている。9月であるから演奏会の前後なのかもしれない。

ジャケットの写真も当時のポリーニで白髪がぼちぼちの壮年期のもので、このピアニストの頂点の頃だと思う。籠った音の意味は録音の技術や会場だけでなくて、現在のショパンコンクール出身者との差で余計にそのように感じるのかもしれない。とても興味深い。

続けて、ジュリーニ指揮の「死者の為のレクイエム」を流す。とても素晴らしい録音でベルリンの教会で録られている。そしてフェストヴォッヘンの86年でなくて三年後に録音されていることに気が付いた。その年に再演されたかどうかは知らないが、演奏はやはりとても素晴らしいもので、遅れて録音された背景をカラヤンの権力の弱体化との関係で推測が出来る。これだけの演奏だから録音させなかったのだろう。カラヤン時代に聴いたフィルハーモニカーの演奏では出色だったからだ。

二年前の同じ楽団でのムーティ指揮のそれと比較すると、やはりジュリーニ指揮の楽想の彫塑が全く異なる。これもポリーニの演奏と後継者らとの比較ではないが、技術的には二十年前よりも明らかに良くなっているのだが、これだけの音楽を引き出している人は中々いない。

放送でベルリンからメータ指揮のブルックナー第九とヴィーンから「パルジファル」の双方とも無観客公演が流れた。偶々前後したのでとても面白かった。

先ずはメータ指揮がヴィーナーフィルハーモニカーを振る時よりもよりヴィーナーな演奏になっていて、ブルックナーにしては柔らか過ぎるぐらいに感じた。なぜだろうかと思っていたのだが、ヴィーンでのフィルップ・ヨルダン指揮を聴いていてその差がよく分かった。

ベルリナーフィルハーモニカーがメータ指揮で演奏すると独特のバランスで鳴るという事なのだが、それが彼のスヴァロフスキー門下のアナリーゼの細かさだと改めてヨルダン指揮を聴いて理解した。ヴィーンの伝統と言ってもいいのかも知れないが、フィリップ・ヨルダンの事細かでとても素晴らしい30分程のガイダンスを観て、逆にそこに欠けているものがとてもよく分かった。

教養講座のようなとても懇切丁寧な内容なので改めて紹介したいと思うのだが、楽曲の全体構造とその動機の扱い方、そしてオーケストレーションのミックスにも言及していて、この新音楽監督の楽譜の読み方がよく分かる。新聞評でもヨルダン指揮ヴィーナーフィルハーモニカーは評価されていたので、その歌手への批評と共に真の核心は何処にあるかを指摘しないと駄目だと思う。

まさしくメータの指揮がある種の伝統を受け継いでいるのはそこだと思う。嘗てフルトヴェングラーが自らの論理で楽曲の有機性を追求して新たな響きを創造した様には当然のことながら容易にはならない。

ヨルダンの読み方は父親の残した楽譜の書き込みとチューリッヒかどこかでの本当に基礎的なアナリーゼに立脚したものだろう。それでも調べてみるとそこら中でこの舞台神聖劇を振っていて、それどころかバイロイトでも振っている。

今迄この作品を立派に振った指揮者は殆どいない。ジュリーニの弟子のネゼセガンもとても苦労していた。そしてスイングさせていた。しかし二幕の花の少女たちのリズムはアメリカ風にという楽匠の指示があったというのをヨルダンが語っていた。これは取り分け面白い話しだった。



参照:
脱コロナへの分岐点 2021-04-19 | 文化一般
首が座らないやつら 2019-04-28 | 雑感
コメント
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