Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

学会よりも出版やメディア

2014-03-20 | マスメディア批評
ダヴィド・ラマの登山映画を観に行く途上、いつもの夕方のラディオの座談会の話題は学術論文であった。学会と社会の関係を研究している教授らが先日来話題となっている理研の捏造事件をも扱っていた。

実験研究とは門外漢の我々でも論文の重要なフィギュアーである写真を編集して、それどころか違う条件での写真をコピーペーストすることのいい加減さは信じられないのだが、この教授もそれを挙げて、現在のネット時代の教育や影響などに触れていた。

1970年代には、原発開発とその環境に与える影響から、学術研究の結果が、それまで以上に何を重要視するかで見解が変わってきて、学術的な結論はより以上に重要視される中でその結論に対する疑念は更に高まってきたというパラドックスが語られる。

それは60年代の紛争の中での権威主義からの開放と同時に起こった博士号を取得し無いと言う時代がもはや過去のものとなり、指導層に博士号や教授資格が求められるようになったドイツ社会において、高等教育の大衆化で殆どの政治家が博士号を競って取得するようになって問題が社会化してきたのである。

その問題の筆頭に、ポストメルケルの筆頭であったツ・グッテンベルク大臣の「不必要な」博士論文が殆ど借用であったことからは博士号が剥奪されただけでなく、政界引退を余儀なくされたのであった。その後にもその種の博士号の審査が続き、博士号のその権威に大きな疑惑が掛けられるようになっているからこそのこの討論なのである。

教授の主張は、学術論文の意味合いがもはや嘗ての学会コミュニティーでの議論を前提としたものではなくて、理研で起こったように先ずはマスメディアを集めての華々しい発表ということになり、そこにはサイエンスオブネーチャーなどの出版社の営業があるというのである。要するにネーチャーで掲載されたということが学会での精査よりも意味を持つようになったという商業的な側面ということである。

そして今回のようなことが繰り返されるときに今度はまともな学会では誰もネーチャー掲載の論文に注目しないようになるということで、同時にその購読数も激減することになるのである。



参照:
手練手管の質やその価値 2014-02-21 | 数学・自然科学
福島一号機制御室の英雄たち 2011-03-26 | マスメディア批評
克服すべき倫理と回答 2007-06-12 | 数学・自然科学
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