Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

屈曲した懺悔のデリカット

2012-03-21 | 
春分である。週末には夏時間に替わるが、朝日がとても明るい。昨日のアーモンドは六分咲きであった。月曜日は八分くらいまで行くか?何時もの12分コースを10分で登った。残りの1分強で次のカーヴまで駆けた。何百メートルあったろうか、その最後の大きなカーヴを回り込めば、峠への最後の上りも見えてくる。峠まで同じ調子で走れるようになれば長距離も本格的であろう。走り始めは胸の上部に違和感を感じたのだが、恐らくインフルエンザの後遺症が残っていたのだろう。最初から呼吸を意識せねばならなかったことと、途中で犬の散歩で降りてくる人と擦れ違ったのが記録に結びついたようだ。お陰で完全に痰も切れて全快である。

承前)マタイの福音によるバッハの受難曲オラトリオ、第二部の最初のイエスが囚われてからのソロとコーラスの掛け合いの36番「ああ、いまイエスは連れて行かれる」の微妙さなどは、そうした村芝居からは測り知ることの出来ない音楽的なデリカットである。そしてその次の41番のテノールによるアリア「ただ耐え忍べ」も自省的なものでなければこうした曲の価値がない。そうした内容をあたかも舞台の真ん中でスポットを浴びた国王のアリアにしてしまっても詮無いことなのだ。主観とか客観とかの問題以前である。敢えて言えば、そのようにしなけらば内容を読み取れない大衆へのショーとしての音楽家の配慮としか思われない。要は金儲けである。ブランデンブルク協奏曲を書いた作曲家バッハは、福音のテキストを朱で書き込んだ強い職業意識が、その学識が、そのような受けを狙ったとは考えられない。

ベートヴェンが語ったように心より出でて心に返るには、そのように情感を揺さぶりまるでイタリアオペラかなにかのようなスタイルをバッハの受難曲に充てても致し方ない。アイロニーの強い51曲「わたしのイエスを返せ」のバスの歌う謝礼を受け取った後悔もそうした書割の中で歌われると演奏家が職業意識を逸脱して金を取ってこうして受難曲を演奏しているのを懺悔しているようで殊更面白い。

圧巻は61曲「わたしの頬の涙が」の嘆きの屈曲の吐露であるが、この内容を如何に客観的な鑑として映せるかどうかにそのスタイルが顕著に現れる。つまり当日はまさしくストコフスキー編曲の節回しそのままに効果を与える音楽として屈曲の節回しが繰り返されると、もはや付け加えることがないであろう。流石にここは女声ではなく右側に位置したカウンターテナーで歌われたが。

既に触れたように、こうしたオラトリオの構成自体が叙唱に続いてのダカーポアリアの繰り返しなどまどろこしく更にこのマタイ受難曲は楽団合唱が二団に別れているなどの複雑さが、余計にそのような印象を齎す。そうした意味合いからオペラと割り切ってしまえばなるほど分りやすいのであるが、問題はその表現にあるのは言うまでもなく、そのテキストのレトリックを調べるだけでこうしたいい加減な音楽表現になる訳がないのである。もしそこで主情的な表現に重点が置かれるならば、もしかすると西洋音楽史上の金字塔であるかもしれないこの受難曲もゴミに等しくなってしまうであろう。

古楽の楽器を幾ら使ってもああした合唱の付け合わせならばそうしたテキストの妙を表現できる筈がなく、そもそもそうした楽譜の読みがないのだからどうしようもない。今回のこうした演奏実践のお陰でこのバッハの創作の核心を確認できたのはとても幸いであった。同時にあれほどまでにリュリのオペラの高い趣味と知性を表現する音楽家が、どうしてこうなるかを考えると、改めてリュリの作品を詳しく観察しなければいけないと感じた。

それにしてもイエスの死に接する72曲「わたしがいつかこの世を去るとき」のコラールにおけるテムポの遅さは一体なにだろう。もはやこうなればフォーレのレクイエムにおけるオッフェントリウムである。そして終曲の前のレチタティーヴォでは各々が一節づつ歌う正しくオペラブッファのフィナーレのようなのであるが、こうした演奏実践だからといって、流石にそのような山を築くでもない。(終わり)



参照:
Matthäus-Passion BWV 244 -
10. Buß und Reu,
33. So ist mein Jesus nun gefangen,
35. O Mensch, bewein dein Sünde groß,
36. Ach, nun ist mein Jesus hin,
41. Geduld,
51. Gebt mir meinen Jesum wieder,
61. Können Tränen meiner Wangen,
72. Choral: Wenn ich einmal soll scheiden;
La Petite Bande, Gustav Leonhardt,
English Baroque Soloists, Gardiner,
Münchner Bach-Chor & Orchester, Richter,
Bach Collegium Stuttgart, Rilling,
Saito Kinen Orchestra, Seiji Ozawa,
Collegium Vocale Gent, Philippe Herreweghe,
Gabriel Faure (1845-1924): Requiem op. 48,
Transkriptionen - Stokowski's Symphonic Bach II (jpc-Schallplatten)
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