Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

西欧の視座を外から再確認

2011-02-19 | 文化一般
ユルゲン・ハーバーマスが、自由ベルリン大学で名誉博士号を授与された三島憲一教授の業績を詳しく紹介している。丁度先日のエジプト騒動の話題の続きである。要するに近代化が伝統的な社会にどのように伝えられて近代化をなすかであり、それは現在のイスラム問題や中華主義問題に共通しているものであり、こうした学術的な解析が注目される所以である。それ故に今回の授与が日本学の範疇を大きく超えることになるというのは理解できる。

日本の明治維新やそれ以前の三つの教えの伝播については今更繰り返す必要が無いと思われるが、そこで求められる解釈学的な歴史認識を以った三島氏の論は、もちろんハーバーマス氏らが係わっていたような合衆国で六十年代から盛んになる前からのマックス・ヴェーバーの資本主義論の日本での展開を土台にして推敲されているという。つまり、「プロテスタンティズムの(資本主義への)影響」のその対象を宗教的社会から文化的社会へと視座を変換させてしまうと、その(近代)文化の内包する本来は広範な政治文化から切り離すことの出来ない過激性が、こともあろうに支配機構を補充するとする説である。言い換えると、ヴェーバーらが示したような古い西欧の文化的信条の背景無しに、近代化の支配的構造の導入が十分に受け入れられるかという疑問に集約される。

そこから氏の社会学セオリーは、閉じられた統合性の中で文化的な伝播があまりに大きく羽を広げ過ぎないかという危惧にあるらしい。これは、同時にポスト植民地主義の影響を如何に解決していくかという近代化に伴う最も厄介な問題であるが、現在のグローバル化の世界は幾つもの共通の座標系に立脚することから、各々独自の文化的な源泉を廻るその近代化と伝統との議論において、どのように自己投影されて行くかが、三島氏の研究課題となっている。つまり、文化を導入する側が自己解決する問題としても、そうした像は他者に投影されることで初めて確認されるのであろう。

そうした視点のあり方として、当然の事ながら、戦後の否定的弁証に顕著なような「西欧的な啓蒙」は自己中心文化主義と見做され、それ自身が矛盾を導いていることを指摘して、日本は植民地化されていないにも拘らずそうした影響下に陥っているとする見解である。そこでは、「勝者を真似た視座」でそれが正しかろうが誤りだろうが行動することが要求されてるということである。現実には、自己喪失と自己主張が綯い交ぜになったところに日本の西洋化が反照されているとなる。

軍事力と帝国主義が、文化的、宗教的な自意識と世界観への不均衡な形で影響して、それが底の浅い上っ面なものとなったことが現在も課題となっているというのである。それは本年百五十周年を迎えるプロシア帝国と日本との関係においても考察されるのだろうが、そこでは「欧州の」と同様に「他者のアイデンティティー」への捉え方が、上記の視座となっているというのである。

その視座への疑念は、なにも日本にだけ向けられているのではなく、ドイツ連邦共和国が誕生した1945年に遡って問いかけることで、初めて「全体の閉塞」を避けられるということになる。要するに、ポスト植民地主義の後遺症に対する処方箋としてだけでなく、戦後民主主義の強烈な洗礼を被った日常を再確認することであるとされる。

トーマス・マンばりの母国語であるドイツ人が出来ないような正確なドイツ語を駆使する三島氏には1982年に初めて訪れた不案内な国での五週間の滞在でお世話になったと、その異文化交流の仲介の業にとても感謝して、今回の名誉博士号の授与に親密かつ精妙な賛辞を送っている。



参照:
Er zeigt auf unseren blinden Fleck, Wie Kenichi Mishima die Welt bewohnbarer macht, Jürgen Habermas, FAZ vom 18.2.2011
Habermas's Laudatio for Ken'ichi Mishima (Political Theory - Habermas and Rawls)
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