日曜日に歩いたとき、ある村の話となった。今でも靴職人が集まる町で、当時から象徴的に百パーセントのカトリック率を誇っているである。そして1938年の選挙で、ドイツ労働者国家社会主義党に百パーセントの支持をした。その功績により、今でもベルリンにこの小さな村の名前がついた道が存在して、村にはヒットラー総統直々のその素晴らしいを賞賛するレリーフが存在するらしい。
そこでは突っ込まなかったが、カトリック信教とナチの支持とは必ずしも合致しないので、そのの職業などの過去からの特殊性がそうした背景にあったのだろう。そこには、戦後の連邦共和国の視点やまた逆になにか若干タブーめいたものを感じるのは私だけであろうか。だからそれ以上は話題としなかった。
視点の相違が、見えている光景を変えてしまう例では、フリードリッヒ王に因む雑食砂岩の岩峰を写しての写真の結果にも良く表れている。私などはどうしてもルート取りが気になって、日陰のルートに焦点を合わせるものだから、絞りが開いてしまって逆に光が入ってしまって醜くなる。
友人が写したそれは、逆にコントラストが奇麗に出て、素直にその場所の感じを上手く伝えている。話していただけでは全く分からないのだが、こうして写真を比較すると、その人其々に全く視点が異なっていることを改めて確認して面白い。
同じようにエジプトでの民主化運動は、そうした様々な世界中の視点が今やインターネットの発達によって、一挙に比較対照かできることが、こうした動きに繋がっている。今や、庶民の程度において、こうした行いが容易となって来ていて、先ずはそうした視点の相違を実感することで、その次には比較対照もしくは対話という統合的な視野を得られるようになっている。我々が想像していたよりも遥かに早く民主化というグローバル化は加速して達成されるに違いない。
そこでは突っ込まなかったが、カトリック信教とナチの支持とは必ずしも合致しないので、そのの職業などの過去からの特殊性がそうした背景にあったのだろう。そこには、戦後の連邦共和国の視点やまた逆になにか若干タブーめいたものを感じるのは私だけであろうか。だからそれ以上は話題としなかった。
視点の相違が、見えている光景を変えてしまう例では、フリードリッヒ王に因む雑食砂岩の岩峰を写しての写真の結果にも良く表れている。私などはどうしてもルート取りが気になって、日陰のルートに焦点を合わせるものだから、絞りが開いてしまって逆に光が入ってしまって醜くなる。
友人が写したそれは、逆にコントラストが奇麗に出て、素直にその場所の感じを上手く伝えている。話していただけでは全く分からないのだが、こうして写真を比較すると、その人其々に全く視点が異なっていることを改めて確認して面白い。
同じようにエジプトでの民主化運動は、そうした様々な世界中の視点が今やインターネットの発達によって、一挙に比較対照かできることが、こうした動きに繋がっている。今や、庶民の程度において、こうした行いが容易となって来ていて、先ずはそうした視点の相違を実感することで、その次には比較対照もしくは対話という統合的な視野を得られるようになっている。我々が想像していたよりも遥かに早く民主化というグローバル化は加速して達成されるに違いない。