Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

即物的な解釈の表現

2006-03-23 | 文化一般
エルンスト・ルートヴィック・キルヒナーのダヴォースでの作品を続けて見てみよう。そこでは1919年の作品群である1920年代までの主観的な印象を集約させた表現主義とは異なる表現が、その後の1925年の作品「冬のダヴォース」のような作品群に見る事が出来るだろうか。特に後年のオスカー・ココシュカの作品を思い出させるような不自然な色使いや取り巻く環境への視点が面白い。

1919年の7月に画家は書き込んでいる。「頭を空っぽにして画き込んで、そして没頭して画き込むと言う二つの制作過程がある」。印象の表現から即物的な解釈の表現への移行は、一般的に山奥の生活での精神の安定と捉えられる事が多いようだ。

ここで注目して良いのは、第一次世界大戦後から1920年代、そして1930年代にかけての思潮の変遷であって、文学・建築・芸術などにも如実に固定されている。嘗てベルリンを画いた芸術家が、山間の町ダヴォースで見たものは、已むを得ず よ り 距離を置いて見た世界観でなかったのだろうか?

画家より九歳若く、ここダヴォースのサナトリウムで育った映画監督ファンク博士の作品を思い出すと、その集中した即物的な表現は必ずやある冷めた別の視点からの観察に曝されている。それは、映画の協力者であった画家より15歳下のマイン河畔の同郷者ヒンデミットの音楽にも特徴的に現れており、デフォルメした 非 現 実 的 で即物的な表現は、同時に乾いたユーモアによって影の様に絶えず付き纏われている。

先日記した1929年のダヴォースの町での20世紀哲学の分岐路と呼ばれる会談とキルヒナーの初期の1919年のダヴォースでの印象を強調した風景作品が、「魔の山」の1924年出版やファンク博士の山岳映画自主制作を期間的に挟んでいる。それはそのまま1920年代の出来事である。

ダヴォースでの1925年の作品「教会のある夏のダヴォース」の世界観は、プロテスタント教会の天を貫く鋭塔を中心として整然と纏められた町並みと右上にある少数派のマリエンカトリック教会は各々異なる色彩を持った背景を以って画かれている。

キルヒナーの山岳風景画は、どうも誤解されているようだ。本人が写した白黒風景写真も多い。しかし実際に何処かで風景絵画を鑑賞した事があっても、こうしてみるとその多くを見逃して仕舞っていたのではないかと思う。奥行きの喪失や非現実的な不思議な光景は、ダヴォースの折れ曲がった谷の風景そのものであり、生きた閉じられた風景でもある。

画家本人は、ダヴォースの喧騒を避けて暮らしているにも関わらず、名作の多くは谷の下から自己の住居方面を望む観察点へと態々移動して、谷の風景をお気に入りのダヴォースのマッターホルンことティンツェンホルン背景に町を含めて映し込んでいる。(谷間の町の閉塞感 [ 歴史・時事 ] / 2006-03-22 より続く)


写真は、クロスタースからダヴォース方面を眺めている。これはキルヒナーの「クロスタースの山々」に相当する。



参照:
81年後の初演(ベルリン、2004年12月9日)[ 音 ] / 2005-01-15
オペラの小恥ずかしさ [ 音 ] / 2005-12-09
非日常の実用音楽 [ 音 ] / 2005-12-10
目的に適ったマニュアル [ 文化一般 ] / 2005-12-04
150年前の近代的キッチン [ 歴史・時事 ] / 2005-05-11
駒落としから3D映像へ [ 雑感 ] / 2005-10-19
北の地で血を吸った大斧 [ 文化一般 ] / 2005-10-27
コメント (10)
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