Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

コン・リピエーノの世界観

2005-12-15 | 
週末のヘンデルの「メサイア」の公演の感想を書き留めておく。最近は音楽会で思弁的な感想を抱く事が多いが、充分に感応出来る演奏会であった。それは、演奏解釈の勝利でもあるのだが、250年程前に没した作曲家の人間性に負うところが多い。

バロック音楽も他の音楽同様に、その和声と通奏低音の関係を社会のヒエラルヒーとして捉えられる事が多い。しかし、それでは余りに大雑把過ぎて、世界観の一部すらもまたその世界の一部すらも表すことが出来ない。

有名なハレルヤコーラスの後に続く第三部にだけでも、この作曲家の創作の妙を知らされる。その全体のテキストは、バッハにおけるピカンデルのようにチャールス・ジェネスが受け持って、イザヤ記、ハガイ書、マラキ書、マタイ、ルカ、ゼファニア書、ヨハン、詩篇、哀歌、ヘブライ人の手紙、ローマの信徒への手紙、ヨハネ黙示録、ヨブ記、コリントの使途への手紙がバイブルから適当に抜粋されているために、教会からは批判を受けた。第三部にあるようなこれほどの慰めの音楽は、かの世のパラダイスを通したこの世の希望に満ちた世界観であって、近代の認識であるアダム・スミスの楽天的な国富論に通じる。これは現在も世界の経済活動の根本をなすアングロサクソン文化圏における其れである。

今回の公演では、ダブリンでの初演とは比較にならない22人のソリスツと合唱に2人のトランペット、2人のオーボエ、ファゴット、ティンパニ、6人の両ヴァイオリン、4人のヴィオラ、2人のチェロに2人コントラバスなどと、楽譜はダブリン版に近いようであったが、編成は切り詰めてある。そして、チェンバロを殆んど使わずに装飾風なハープと通奏低音のオルガンが気の効いたな音色を演出する。

合唱と通奏低音の呼応が基本で、其れもチェロが雄弁に語ることで、合唱と器楽双方の装飾の面白さを示す事が重要と予てから考えていた。其れは、例えばハレの生家でのフェスティヴァルなどで経験した通奏低音付きのトリオソナタなどにも顕著であって、永い演奏の歴史の中で疎かになって来たものなのだろう。しかし、最近は優れたオペラの上演だけでなく、古楽器の奏法が安定してきた事から、思い切ったアーティキュレーションが取れるようになって、装飾音だけでなく通奏低音へのイメージが大分変わって来ている。

此れに似た感想を、初演後にロンドンでメサイアを聞いたであろう同時代の地質学者エマニュエル・スヴェーデンボリが夢日記に書き添えているのを改めて読むと、まるでこの会を批評しているようで驚く。合奏する・させる作品の素晴らしさは、その音楽構造の和声だけでなくて、かのベートーヴェンが言った様な「心から心への」創作者と演奏者、演奏者と聴衆、聴衆と創作者の間の感応にある。スヴェーデンボリの言葉の「経験」はまさに此れを表しており、聴衆が会同することでもある。それを実現させたのが、このヘンデルであって、オラトリオの形式を教会から解放して大都会の市民に直接訴えかけるのに大成功したこの作品である。

そのような演奏によってこそ初めて、この曲がハレルヤ合唱でのみ名曲になったのでは無く、全編を通じて作曲家の熟練した筆運びから生まれた愛情に満ちた至福感と慰めへの会同した聴衆の感応・共感があるのを実感出来る。

故に今回のように、それが有機的な曲の構築を示すような解釈になると、遥かに楽曲への理解が深まるだけで無く、永遠の課題である声楽と器楽の合わせ方を堪能出来る。声楽と器楽の装飾における協調がその功を奏する。このような演奏が出来るのならば、ヴァチカンでヴィーナーフィルハーモニカーとモーツァルトを歌わないかと誘われても躊躇する必要も無かったのだが。

そしてそのモーツァルトが既に、例えば息の長いボーイングなどの、古典派風のヘンデルの編曲に手を染めており、その様な古典派以降の影響から逃れる事こそが、バロック以前の音楽において甚だ重要となる所以である。管弦楽においてもヘンデル自身がセンツァ若しくはコン・リピエーノと記しているように、切り詰められた弦楽部で演奏されるだけでなく、室内学的にソロ楽器がコムニケートするのに対して、必要なところだけを合奏が補強する方法が今回も採られていた。

ハレに生まれ、ハノーファーから世界へ旅したヴァイタリティーに満ちたコスモポリタンな作曲家が、興行師としての辛苦を舐めた後に辿りついた人生観は、第一級の演奏家と演奏の現場で得られた信頼関係に立脚した、職業的成功を導いた肯定的なものであった。それは、彼の遺書が語るのにもまして、彼の音楽の書法が物語っている。

今回功績のあった演奏家は、トーマス・ヘンゲルブロック指導のバルターザー・ノイマン合唱管弦楽団で、フライブルクのその出身母体を芸術性で凌いでいるようだ。この楽団には、あまり興味が無く何度も会に欠席したが、その秀逸を今回遅まきながら確認した。そしてヘンデルが終生ドイツ訛りの英語を話していたのを発見しただけで無く、古楽器楽団も機能的に合わせる事が重要視されてくるようになると、こうした本来の価値を失う例が余りにも多いと認識させられる。それは、1742年初演の曲が示唆する、自己と宇宙と言う脈々と続く「音の調」の楽天的な呼応関係でもある。

スヴェーデンボリの言葉を、「真実なものに 立派なものに 良きものに」のスローガンの掛かるアルテオパーの待降節の風景に重ねて、引用する。

「管楽器は、善 き も の への憧れを表現して、弦楽器は、 真 実 な も の に結びついている。」

それでは立派で美しいものは?

「全ての管弦楽は、天国的で精神的な感覚と感応する。詩を歌うようにである。 響 き は、言葉よりも精密な方法で経験を表現する。 響 き は、言葉の助けを引きずる言語を乗り越えて、ある言語を成す。」。



参照:
ヘンデルの収支決算 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-20
微睡の楽園の響き [ 文学・思想 ] / 2005-02-22
バロックオペラのジェンダー [ 音 ] / 2005-02-20
賢明で理知的なもの?![ 歴史・時事 ] / 2005-02-25
コメント (12)
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