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海の祭礼 吉村 昭 57

2019-08-04 | 吉村 昭
海の祭礼

「海の祭礼」(昭和64年・1989)は、幕末の嘉永の7年間を舞台に、日本初の英語教師といわれるラナルド・マクドナルドと、通司として開国の激動を生きた森山多吉郎(栄之助)、そしてぺリーの黒舟来航を軸に展開する長編小説である。

1800年に入り、日本は北はロシア、南はイギリスなどのヨーロッパ諸国の訪問に見舞われていた。
あくまでも長崎を居転移にオランダのみを窓口として鎖国政策を頑として採り続けていた日本。
その中で、両親にアメリカ人とインディアンを持つロナルド・マクドナルドは、その人種差別に耐えかね、日本への思慕を募らせる。そして、1848年・嘉永元年(ペリー来航の5年前)、24歳の時、捕鯨船の船乗りとして日本に近づき、単身で北海道の利尻島に流れ着く。当時の通例で9月に長崎へ移送。そこで通史の森山栄之助と出会う。

森山栄之助は、外国の日本への来訪や捕鯨船員の漂着などの日本を取り巻く状況の変化に英語取得の必要性を痛感し、同時に自分の非力さを実感していた。
緊張感の中で使命感に燃え、長崎で、マクドナルドがアメリカに帰る4月までの8ヵ月間、必死で英語を学ぶ。栄之助29歳であった。

そのような中、嘉永6年(1853)6月にペリーが浦賀に来航、翌年も再来航し、日米和親条約を結ぶ。その後、栄之助は通詞として、さまざまな幕末の外交交渉の前面に出て活躍、神経をすり減らすことになる。

吉村はなぜこの時期にペリーの来航があったのか。アメリカの日本への接触の背景に、当時の経済発展があったとする。
捕鯨は、17世紀中から始まっていたが、舞台を大西洋から太平洋へと舞台を移し、日本海沿岸もその渦中となった。その船団の基地としての日本。
そして、当時の綿紡績の貿易相手として中国を重要視した。アメリカは国土の西への拡張ともに太平洋を視野に入れることとなったため、ヨーロッパやロシア各国に対抗するための太平洋航路開拓であったとする。

その後、栄之助は、まさに激動の幕末の激務のためか、明治4年(1871)に51歳でその生涯を閉じ、マクドナルドは明治27年(1894)にアメリカでその一生を終える。

開拓精神に燃えたひとりの若者は、目的を果たすことなく人生を歩んだが、その蒔いた種は、幕末の日本を救うこととなった。しかし、その業務はひとりの若者をあまりにも過激に燃焼させ、早世につながった。まさに幕末の外交外史ともいえる一編である。


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