NHK「爆問学問」に坂本龍一がゲスト出演していました。坂本龍一がトーク番組に出演しているのはあまり観たことがないのですが、もっと啓蒙的な(?)ムズカシイ話をするかと思っていたら、まったくの想像違いでした。よく笑い、平易な言葉でいろいろなことを表現しようとする雰囲気が素適でした。音楽は芸術でもあるけれども、一方で、人々の心に直に触れてくるもの。音楽をあらかじめ芸術の土俵に上げて、「これが自分にとっての音楽だ」として難解(風?)な音楽をつくるのは簡単だ、と語る氏。続いて、優しく切ないような既視感のあるメロディをピアノで奏でながら、これなら人の心に伝わるじゃない?でも人の心に伝わり、かつ、自分自身でも良いと思えるものをつくるほうがムズカシイんですよ・・・という主旨で話していました。
建築も、見方によれば芸術でもありますし、一方で実用品であるということもできそうです。もちろんこれらをミックスした捉え方もあるでしょう。どのような立ち位置で捉えるかは、発行されている建築雑誌とその編集方針の多様さに表れていますし、建築の教育現場にも表れています。言ってしまえば、答えのない世界。そのなかで何をなそうとするのかが、大事なのでしょう。
子守歌のように、言葉も音楽も芸術も分かれる以前のもの。そこに含まれる豊かさ。そんな風な内容のことを坂本龍一は話していました。ものごとが分かれる以前のもの。それはたしかに魅力的であり、同時に、作為的にはなかなか超えられない大きな壁です。アフリカのプリミティブアート、イコン、ロマネスクの愛くるしい彫刻や、形式のはっきりしない山奥の教会。ものごとと芸術が分かれる以前の、純粋で素朴なもの。日本人的な好みの話かもしれませんが、僕自身はそのようなものにとても惹かれます。
今、目の前にある、ある住宅の製作途中の模型。内外をのぞきながら時には壊して作り直し、そうするなかで、観念的なものにとどまることなく、人の心の機微にしっかり届く、純粋で美しいものになっているかどうか。あらためて心してかからねばなりません。僕にとって、ものをつくる、というのは、そういうことでありたいと思っています。
対象を分析するにはどんどん分けていかなきゃいけないけど、分析できるものを並べても全体は見えてこないような気がするし。
ものをつくるってすごくあいまいな作業だと思う。そのあいまいさこそが分けていく作業の反対の行為、全体をつくりだそうとすることなのかなと思いました。まだよくわからないけど。
ものごとを分析した果てに見つけた言葉なりを使って、概念のはっきりしたコンセプチュアルなものをつくろうとすればするほど、それは個性的なものになりそうだけど、同時に、いろいろなものを置き去りにしていきそう。きっとそれは、知的で面白い一方で、人の心に直に触れるものにはなりにくいのかな、と思います。