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CH47がやってきた

2014-04-07 20:55:45 | 日々

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我が家にCH47が届きました。ハンス・ウェグナーが1965年にデザインしたダイニング・チェアです。

ずっと使い続ける相棒のような椅子をどのようなものにするか、ずっと考えてきて最終的に選んだのがこれでした。ハンス・ウェグナーがデザインしたことそのものよりも、やはり椅子そのものの在り方が、ぼくにとってとても魅力的に思えたのでした。

シェーカー家具をベースにしたような朴訥としたデザインの雰囲気でありながら、その木の曲がり方などに優美さも感じられます。そしてとにかく、座面の幅が広くとってもゆったりと座れるのが気に入りました。通常のダイニングチェアに比べると、少し座面が沈んで感じられるのも、落ち着きがでてよいところ。

座面の材質はハンス・ウェグナーお馴染みのペーパーコードで、長年の間に擦り切れて張り替えの時期もくるでしょうが、しっかり手作業で張ってある感じが気持ちいい。

木の材質はオークのオイルフィニッシュ。即物的に飛び出た脚の上面も少し丸く削られていて、座りながら手のひらでぐりぐりと撫でたくなる感じが、愛着がわきそうです。

次第に黒ずんできて味がでてくるのを楽しみに、毎日使っていこうと思います。身の回りのものを、いかに愛着がもてるか、という尺度で選ぶと、日々の暮らしがぐっと楽しみを増すように思います。

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開店前のレストラン

2014-03-30 22:25:58 | 日々

自宅の近くに、好きなフレンチレストランがあります。気軽に入れるお店ですから、ビストロとよぶのが正しいのでしょうか。初めてそのお店を見つけたのは偶然でした。自転車に乗って走っていると、「気配に呼ばれる」ようにして、いったん通り過ぎたのを店の前まで戻りました。

少し古いマンションの1階の店構え。小豆色に塗られた壁にシンプルに窓が横長に開けられ、そのなかには、真っ白なクロスが掛けられたテーブルに、カトラリーが印象的に鈍く光っていました。時間はまだ朝、開店前でした。客席には電気はまだ灯されず、朝日がそっと忍び込む室内は時間が止まったようで、どこか神秘的で、そう、シャルダンの静物画を観るような思いでした。

「発見」からしばらく経って、それでも気になって食事に行ってみた時に、はじめて壁・天井がすべて真っ白に塗られ、いたってこざっぱりとしたシンプルなインテリアであることがわかりました。ちょっと狭い店内で、テーブル間隔もやはりちょっと狭め。でもそれが心地よく感じられるような、ちょうどよい案配でした。

低く吊り下げられたテーブルランプ。使い込まれたカトラリー。親密なスケール。美味しい料理。それ以外の余計なものはいらない、と言わんばかりの体裁は、むしろ今まで経験したことのないものでした。要素が少ない分、そのひとつひとつの存在が際立っているようでした。

ある朝から、そのお店の窓にはカーテンが閉められたままになってしまいました。開店前のひっそりとした人気のない時間に、朝日がそっとさしこんで、清潔なテーブルクロスと美しく光るカトラリーを観るのが好きだったのに。この10年間で数度しか行かなかったけれど、思い起こすと心が温まるような時間と空間でした。

でもそのような場所がひとつ、なくなってしまいました。

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冬の庭

2014-02-03 20:54:53 | 日々

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職住一体の生活をしている私は、1階の事務所から2階の住居へ行き来するとき、いったん外に出て、庭を通ってまた別玄関から入り直す、ということが習慣になっています。ずっと室内で根を詰めて仕事をしていてもよくないでしょうから、外の空気をすって、庭を通るほんの少しの時間が、ちょっとしたリフレッシュにもなります。

庭の日頃の手入れは、近所の女性の植木屋さんが合間をみつけては手際よくやっていってくれます。こちらからいつ来てください、ということもほとんどないし、向こうから、いつ行きますよ、というのもなく。

留守にしていて挨拶もできないときもあれば、在宅していたのに気付かないことだってあるぐらい(笑)

それでも、あ、来てくれたんだ、とすぐにわかるのは、少しさっぱり、ぱりっとした雰囲気に庭がなっていることと、ちょっとしたサインがあるからです。

イングリッシュガーデン風の、少し野趣のある庭のそのなかに、鉄製のバードバスがあります。そこに水がはられ、庭で採れたなにかの草花が活けてあります。今日は昼食時に庭を通ったとき、この写真の光景に出会いました。何が活けてあるかも、一期一会。だからとても新鮮な印象です。

植木屋さん。

造園家。

庭師。

ガーデナー。

どれも同じ職業を指すようでありながら、なにかニュアンスが違う。それだけ、仕事の内容に幅があるということでしょう。

建築。

建物。

家。

これもそれぞれニュアンスが違う。私がふだん仕事として手がけているのは、やはり家というのがしっくりくるような気がします。講師を務めている学校で、「建築というのは・・・」という出だしで話をするのは、なにか自分の心に反して構えすぎているような気になるときがあります。

家と庭。

そんなシンプルで柔らかい言葉で表現される空気感を大切にしたいなあと思います。

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真鍮のドアハンドル

2013-12-31 17:17:36 | 日々

今年の春にオノ・デザインのアトリエを新設し、まだ1年も経っていませんから、室内のいろいろなものがまだ新しさの名残があります。そのなかで、アトリエの玄関のドアハンドルが率先して、古びた雰囲気を放つようになってくれています。

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このドアハンドルは真鍮でできていて、新しいときは金ピカです。それが、手に触れたりすることを通して酸化し、黒ずんで独特の古びた雰囲気が出てきます。アトリエができあがった頃はまだ金ピカ具合が「異彩」を放っていましたが、半年ほどをかけて徐々に黒ずんだ味わいが出てきてくれました。堀商店製のこのハンドルは握り心地もよく堅牢であることも有名で、ガチャリと閉まる手応えも気持ちよいのも嬉しいところ。

ドア本体はラワンの木でフレームができていて、濃色に塗装を施しました。落ち着いた色調のドア枠を背景に、金ピカのハンドルは黒ずんで、これみよがしな主張をすることなくなりましたが、ドアの開け閉てをするたびにちょっと嬉しくなるような、そんな充実感をもたらしてくれるようになりました。

派手ではないけれど、それがあることが嬉しくなるような、満足するような、そんなものごとの在り方を大切にしたいと思います。

そんな家になるよう、来年もひとつひとつの家を磨き上げるようにして設計していきたいと思います。

どうぞよいお年を。

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阪急電車を観ながらヴァルター・ベンヤミンを想う

2013-11-13 23:38:11 | 日々

映画「阪急電車」を観る機会がありました。阪急今津線を舞台に、幾人かの登場人物の日々の断片をとらえながら物語は進行します。今と、遠い昔の思い出と。それらがふとした瞬間に出会ったりすれ違ったり・・・。言葉にしてしまえば取るに足らない個々人の日常をモチーフにした物語は、きわめて淡々と、穏やかに進行していきます。起承転結の無い、断片的な物語。そう言ってしまうと、とてもつまらない映画に思えてしまうけれど、観ながらなんとも言えないほっこりとした安堵の気持ちと、懐かしさに満たされました。

それはきっと、ぼく自身が京都で生まれ育ち、高校で故郷を離れて寮生活を始めるまでの間、阪急電車は「都会」に行くための「とっておき」の交通だった、ことにもよるのかもしれません。

茶色いボディーの、どれだけぶつけても壊れさなそうな無骨な金属の内装材。烏丸から乗って大阪へ。ぼくにとっての大阪や神戸は、なぜだか阪急を抜きには語れない、という感じがあります。

個人的な記憶が、街を、歴史を、語るうえで、客観的な事実よりもむしろ雄弁であり得ること。普遍的な言葉でものごとをとらえてしまうのではなく、個人的な記憶の一断片から覚醒してくるイメージを、大切にすること。ヴァルター・ベンヤミンの著作を少しずつ読むようになってから、そんなものごとのとらえ方に、興味がわくようになってきました。

ちくま学芸文庫「ベンヤミン・コレクション3」の解説に記された、翻訳者 浅井健二郎氏の言葉の引用。

「いまだ批評ではない、しかしすでにその萌芽をはらんでいる、なんらかのイメージ、すなわち心象、あるいは思考像 ― ひとつの面影、ひとつの名、ひとつの瞬間、ある表情、ある匂い、ある手触り、歩行中のちょっとした閃き、記憶に蘇ってきた風景の、また忘却を免れた夢の断片、ある作品のほんの一行、映画の一シーン、成就されることのなかった希望、など。」

阪急電車について述べようとするとき、その車体や路線図について説明することは間違いではないのだけれど、映画「阪急電車」に示されたような個々人の日常の断片を語ることで、はじめて開かれる「阪急電車」像もあるのかもしれません。もちろんあれは架空の物語ではあるけれど、ぼくが暮らしているこの近辺の沿線にはない情趣が込められていて、ぼくのなかの記憶とあわさって、阪急電車が何たるものか、浮かび上がっているように思いました。

まあ、阪急とベンヤミンを並べて話すなんて、とんでもない話ではあるのだけれど、ベンヤミンの難解な散文も、ハンキュウと並べることで初めて、地べた感のある親しみやすいものになるのかなあ、と(笑)

ぼくが住宅を設計するとき、斬新でカッコいいものをデザインしようという願望よりもむしろ、古くからそこにあったものであるとか、記憶のなかの引っ掛かりのようなものをよりどころにしようとしてしまうのは、一種のクセのようなものかもしれないのですが、その根本の理由を探っていくとまさに、上で書いたようなものごとの把握の仕方に、心惹かれるからなのかもしれません。

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