平成28年12月14日、 渡部昇一氏著『東條英機 歴史の証言』を読み終えた。同時に、叔母から譲り受けた叔父の蔵書をすべて読了した。
著者である渡部氏にはもちろんだが、この本を残してくれた叔父にも感謝する。神道から仏教、禅宗、中国や韓国の政治家たちのことなど、叔父のお陰で、貴重な知識を与えてもらった。
見習いたいのは、沢山の知識を持っていながら、寡黙に生涯を終えた叔父の姿だ。
常に笑顔で人と接し、百姓として生き、知足安分の庶民として叔父は生を全うした。私もそのように生きたいと願うが、叔父との違いが一つだけある。日常生活では目立たない庶民だが、ブログの世界での私は自己主張する、というところだ。
「和をもって尊しとなす」聖徳太子の教えを大切にし、日々は隣近所との諍いを避けているが、ブログの世界では、「ご先祖を大切にする日本人の一人」として、遠慮なく意見を述べている。
残り少ない人生だから、ブログの世界では我慢をせずに生きたい。
率直な印象を言わせていただくと、申し訳ないことながら渡部昇一氏は、林房雄氏に比べると、今一つ、何か足りない気がした。日本を愛する気持では、林氏に劣らないが、読者を感銘させる文才がないのか、氏の叙述に心を動かされなかった。
むしろ古武士のような昔言葉で、とつとつと語る、東條元首相の『宣誓供述書』の方が、胸に響いた。時として読みにくい語り口にも、迫るものがあった。ブログでは渡部氏の解説を省略し、読みづらい元首相の言葉を多く紹介した。
と言って、氏の仕事を軽く見ているのではない。この大作が世に出たから、元首相の言葉が世間に広まり、平易な氏の解説が多くの国民の無知を開いた。
前回で終わるつもりだったが、『宣誓供述書』の最後の部分を読み、心境が変化した。東條英機というタイトルのため、ブログを読んでくれる人が少なくなっているが、それでも私は、『宣誓供述書』の終わりの言葉を書き残さずにおれなくなった。
戦勝国の裁判官たちが、まともに聞くはずがないと知りつつ、真摯に語り続けた本意を探れば、これは私たち国民へ向けた、遺言であると思った。静かに読めば、迫ってくる愛国の情があり、反日左翼の人々はそうならないと思うが、私は涙がひとつ、ふたつこぼれた。
氏の最後の言葉を紹介する。
・終わりに臨み、・・恐らくこれが、当法廷の規則において許さるる、最後の機会でありましょうが、私はここに、重ねて申し上げます。
・日本帝国の国策、ないしは当年にその地位にあった官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。
・また適法に選ばれた各内閣は、それぞれ相受けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い、一歩は一歩より進み、これを処理して行きましたが、ついに我が国は、彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。
・国家の運命を勘案する責任を持つ我々としては、国家自衛のためにたつということが、ただ一つ残された途でありました。我々は、国家の運命を賭しました。しこうして、敗れました。しこうして、眼前に見るがごとき事態を惹起したのであります。
・戦争が国際法上より見て、正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題は、明白に分別できる、二つの異なった問題であります。第一の問題は、外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。
・私は最後まで、この戦争は自衛戦争であり、現時承認せられたる国際法には、違反せぬ戦争なりと主張します。
・私は未だかって、我が国が本戦争を為したることをもって、国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、敗戦国の適法なる官吏たりし者が、国際法上の犯人となり、条約の違反者なりとして糾弾せられるとは、考えたこととてありませぬ。
・第二の問題、すなわち敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は、私はこれを受諾するのみならず、真心より、進んでこれを負荷せんことを、希望するものであります。」
昭和二十二年十二月十九日 於東京 市ヶ谷 供述者 東條英機
叔父にもらった本書を携え、年内に靖国神社を訪れ、東条元首相だけでなく、すべてのご先祖の御霊に、心からの感謝と哀悼の意を捧げたい。参拝のできない天国の叔父の代理も兼ね、靖国の大鳥居をくぐるとしよう。