東大総長南原繁氏が、学内に 「憲法研究委員会」を設けた経緯は前回説明しました。同「研究会」で、GHQに協力した反日左翼教授と変節した教授たちの名前も紹介しました。
そして学者たちが残した厄介な遺物の一つの例として、公益社団法人「自由人権協会」が公開している「憲法制定の経緯」を紹介しました。
「罪を憎んで人を憎まず」・・誰が言った言葉なのか知りませんが、「ねこ庭」の今の心境を表しています。
「日本国憲法」の制定に協力した、反日左翼教授と変節した教授たち個々人は憎みませんが、彼らが犯した罪は「憎み」ます。つまり彼らが残した「厄介な遺物」そのものは、「憲法改正」が達成されるまで許してはいけません。
今回はその「厄介な遺物」のもう一つの例として、令和6年6月3日の共同通信社の記事を紹介いたします。
「ねこ庭」はNHKと共同通信社と朝日新聞を。日本の反日左翼マスコミの筆頭と考えています。彼らへの憎しみは「心境の変化」以来捨てましたけれど、「怒り」は捨てていません。
古い記事ですが、新聞のスクラップを止めたので、切り抜いたまま捨てられずに机の横の台に放置していたという、それだけの理由です。
「識者評論」というのが同社のシリーズ記事で、毎回反日左翼学者や評論家が登場して高説を述べます。同社が全国の地方紙に配信する記事ですから、千葉日報新聞も当然掲載します。
何度指摘しても同社が改めない恥知らずな姿勢が、「識者評論」のコラムに、自分の会社の記者を登場させる厚かましさに現れています。
「実るほど、頭の垂れる稲穂かな」と、日本には古くから、知識の高い人ほど謙虚になるという、戒めというか教えというのか、そんな言葉があります。自分の会社の人間を「識者です」と紹介され、首を傾げない読者がいないとでも思っているのでしょうか。
本人の顔写真入りで7段組みの大きな記事ですから、同社が重要視しているコラムです。読者への遠慮が多少あるのなら、「識者評論」でなく、「弊社記者の意見欄」と、別のコラムを作れば良い気がします。
「ねこ庭」の住人である私は、実るほど知識のある識者でなく、学徒ですから、頭を垂れる謙虚さが不足して放言をします。
しかしブログ名を「ねこ庭の独り言」とつけているのは、反省と恥じらいを知っているからです。
今回の識者は阿部茂記者で、記事のタイトルが次のように書かれています。
「地方自治法改正案」「武力攻撃事態を想定か」「" 再考の府 " は廃案検討を」
・地方自治体に対する国の「指示権」を拡大する、「地方自治法改正案」が衆議院本会議で可決され、参院へ送付された。
これが記事の書き出しで、次の行から阿部記者の意見になります。
・政府は今国会成立を目指すが、改正案は分権改革の流れに逆行し、憲法がうたう「地方自治の本旨」を損なう恐れが多い。
分権改革の流れがどこにあるのか、「ねこ庭」は耳にしたことがありません。どうやら氏は、「日本国憲法」の条文を指して分権改革の流れと拡大解釈をしているようです。
・武力攻撃事態などを想定した集権化が狙いだとの指摘や、自民党が憲法改正で目指す、緊急事態条項の先取りだとの見方もある。
ここまで読めば分かりますが、反日左翼メディア共同通信社の、反日左翼記者が「憲法改正反対論」を述べていました。切り抜いた記事が捨てられずに持っていたことが、こんなところで役立ちました。
南原氏が作った「憲法研究委員会」で、反日左翼教授と変節した教授たちが残した「日本国憲法」が、「厄介な遺物」として今も生きている例の一つとして紹介できます。
左翼系の学者や評論家は、「日本国憲法」絶対論者で、世界一の憲法だと神様のように崇拝しています。日本には、信仰の自由と言論の自由ありますので、氏の意見も自由です。
ただ「ねこ庭」が今回確かめようとしているのは、次の2点です。
1. 阿部記者の意見は、国民の常識に沿っているのか
2. 「識者評論」に相応しい意見なのか
息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に氏の意見を紹介しながら、2点を確かめ、ついでに「厄介な遺物」だと確認できたらと考えています。
・「再考の府」「良識の府」の参院には、自治体や市民の懸念に耳を傾け、廃案を検討するよう求めたい
何を根拠にして氏が語っているかについて、次の行が説明しています。
・現行法では国は、「災害対策基本法」など個別の法令に根拠規定がなければ、自治体に対し、従う義務を伴う「指示」をすることができない。
・ 平成12 ( 2000 ) 年施行の「地方分権一括法」が、国と自治体の関係を上下・主従から、対等・協力に変えた成果だ。
「ねこ庭」の知らないことを教えてくれる人物は、反日左翼でも先生です。そういうことだったのかと、敬意を表します。
敬意を表したところで、スペースがなくなりました。氏の話のどこが「厄介な遺物」となるのか、学徒としての好奇心のある方だけ「次回」にお越しください。