荒松雄著「ヒンズー教とイスラム教」(昭和52年刊 岩波新書)を、読み終えた。
荒氏は、母と同じ大正10年の生まれだから、存命なら93才だ。中学生の頃から、インドでは二つの宗教が併存すると聞いていたが、無宗教に近い私は、神秘の国には神秘な宗教があると、その程度の理解しかない。
三頁開いたところで、アーリアン人と出て来た。次の頁には、南アジア、西アジアとでてきた。これが正しく分からないと先へ進めないから、インターネットで調べた。こんなことをしているため、薄っぺらな新書が、読み終えるのにひと月かかった。ブログで一人前にあれこれ書いているが、他人様から見れば、そんなことも知らないのかと、笑われるのだろうが、その通りですと恥じるしかない、浅学非才だ。
紀元前1500~1300年の頃、アーリア人の間でヴェーダ(初期ヒンズー教)が生まれ、バラモン教へ発展し、やがてヒンズー教となる。
多神教のヒンズーは偶像崇拝をするが、イスラム教は一神教でアッラーの神以外は認めず、偶像崇拝も拒否する。祈りと礼拝の方法も異なり、イスラムのモスクは、神殿でもなく神社でもなく、単なる礼拝の場所である。ヒンズーのマンデルは、神が祀られる寺院で、婦人の姿も見られる。女は自分の家で礼拝すべしという、イスラム教のモスクには、女性がいない。
更に大きな違いは、人種や社会的地位に拘らず、神の前では皆平等というイスラム教と、身分制を持つヒンズー教が、最下層の民シュードラを、マンデルに入らせないというところだ。
ヒンズーの身分制はカーストと言われ、バラモン(聖職者)、クシャトリア(戦士 日本で言えば武士)、ヴァイシャ(農・商の庶民)、シュードラ(召使い、奴隷)に区分され、今でもこの制度は生きているらしい。
輪廻転生、因果応報という考え方が、ヒンズー教から来ていることを初めて知り、ここでやっと、現在の自分に繋がるものを見つけ、親しみを覚えた。前世、現世、来世とのつながりを信じ、この世での行いが、来世の自分を決めるというのだから、なじみ深い仏教の教えと重なる。
それでもインドでは、カーストの身分制が今も残ると知れば、親しみが半減する。何時ものことながら、本に向かい、心を開いたり閉ざしたり、こうした忙しい読み方しかできない自分は、きっと心の狭い凡人であろうと、自覚させられる。
イスラム教はと言えば、前世も来世もそんなものはなく、あるのは現世のみだ。戒律を正しく守っておれば、神の最後の審判が正しく下されると、こういうところはキリスト教と重なる。
八百万の神を信じる日本人は、原理・原則のない人間の集団であると、かってそんなことを言い、国民を馬鹿にした学者の本を読んだが、こんなに矛盾する宗教を共存させるインド人だって、負けず劣らずでないかと、本当に驚き安堵もした。きっとあの学者は、戦後の日本に溢れている、自虐史観の反日日本人だったに違いない。
今でこそインドは統一された国だが、イギリスの植民地になる前は、沢山の王国の集合体だった。イスラム教の王様に支配されるヒンズーの民や、ヒンズーの王様に統率されるイスラム教の民など、複雑に入り混じった国家群だったらしい。悲喜こもごもあっただろうに、500年も1000年もの間、インドの人びとは反発し融合し、殺したり愛したりを繰り返し、生きて来たのだ。
そこから学び取れる尊い教えは、「たかだか戦後69年でないか。なんの焦ることがあろうか。」「自虐史観だの反日・売国のマスコミだの、政治家だの、」「中国だろうが、アメリカだろうが。そんなもの小さい、小さい。」・・。
どんな本を読もうと、結局こんなところに行き着いてしまう。だから私は心が狭く、度量の広い、大人物の足下にも及ばない、凡人なのだろう。
「みみず」は、今日もこうして、自己認識し、自戒する。反日・売国の日本人たちも、少しは私みたいに、自己認識し、自戒してみたら、どうなのだろう。