ねこ庭の独り言

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『日本史の真髄』 - 118 ( 両立しない忠孝 )

2023-06-17 19:59:37 | 徒然の記

 〈  第二十一闋 朱器臺盤 ( しゅきだいばん )  「保元の乱」の複雑な内幕  〉

 「複雑な内幕」続きに戻り、渡辺氏の解説を紹介します。

 「それでも鳥羽天皇は、璋子 ( 待賢門院・たいけんもんいん ) に男子 ( 後の後白河帝 ) を生ませたが、祖父白河法皇がなくなると、中納言・長実 ( ながざね ) の娘得子 ( なりこ・美福門院 ) に寵愛を移した。極め付きの美人だったという。

 「それで鳥羽上皇は、自分と美福門院 ( びふくもんいん ) の間に男子が生まれると、崇徳帝を退位させて三歳の息子を即位させた。これが第七十六代近衛天皇である。」

 権力者である祖父白河法皇から下された妻との間にできた子より、自分の寵愛する皇妃にできた子の方が可愛くなるのは、摂政・藤原忠実が長男忠通より次男の頼長を偏愛した姿と似ています。義理で連れ添う妻よりも、愛する伴侶との間に生まれた子が可愛くなるのは、自然な人の情です。人倫の道に外れた政治を是とした結果、崇徳帝の不幸が生まれ、「保元の乱」の萌芽が生まれます。

 「しかし近衛帝は、十七歳で亡くなられた。当然皇位継承者の問題が起こる。」

 自分の意に反し若くして退位させられた崇徳帝は、当然のこととして自分が復位するか、あるいは自分の子の重仁 ( しげひと ) 親王を即位させるかのどっちかだと考えられます。

 ところが帝位は、崇徳帝の弟の後白河帝に移ります。この理由の複雑さを氏が説明していますが、文章より項目に分ける方が理解しやすい気がします。

  ・後白河帝は早く妻を亡くされたため、その長男を美福門院 ( 得子・なりこ ) が養育していた

  ・美福門院 ( 鳥羽上皇の寵愛する女性 ) は、この少年が可愛くてたまらず、この子に皇位が行くことを願うようになった

  ・このためには、その父が皇位につく必要があり、後白河帝が誕生した

  ・軽躁 ( 軽はずみで考えが足りない ) で、人気のなかった親王が即位することとなり、これが後白河帝だった

  ・やがて美福門院の希望通り、彼女の可愛がっていた少年が後白河帝の跡を継ぎ、二条天皇となった

 氏の説明では、鳥羽上皇が美福門院のわがままを聞いただけの話になりますが、私は別の解釈をします。崇徳天皇と後白河天皇は母璋子 ( 待賢門院・たいけんもんいん )を同じくする兄弟ですが、父が違っています。

 ・長男である崇徳天皇の父は、白河天皇である

 ・次男である後白河天皇の父は、鳥羽天皇である

 兄弟のうちいずれかを皇位につけるとしたら、鳥羽天皇は自分と血のつながりの近い後白河天皇を選ばれたのではないか。まして「叔父児 ( おじご ) 」としてうとんじらていたとすれば、なおさらではないでしょうか。渡辺氏の次の解説は、事実の半分しか述べていないという気がします。

 「ところが不満なのは崇徳帝である。自分は鳥羽帝の長男 ( 少なくとも公式には ) であり、皇位は人気のある自分の子重仁 ( しげひと ) 親王に行くべきであると確信した。」

 「かくして鳥羽法皇がなくなると、たちまち兵をあげることになる。これが保元の乱であるが、崇徳上皇が挙兵するにあたっては、藤原氏の方の争いが組み合わされていた。」

 朝廷の「複雑な内幕」にここで一区切りをつけ、氏の解説が再び藤原忠実 ( ただざね ) 親子の「複雑な内幕」に移ります。ここからやっと、頼山陽の詩の解説に近づきます。

 「近衛天皇の時、藤原頼長は〈 内覧 ( ないらん ) 〉 を欲した。内覧とは、太政官や殿上 ( でんじょう ) から奏下 ( そうげ ) される文書をあらかじめ内覧し、万事を取り仕切る行為のことであったが、いつの間にか官職のようになった。つまり、実質上の摂政関白太政大臣みたいな役である。

 「忠実はこの内覧を頼長に与えたかった。それで忠実は関白太政大臣であった長男の忠通を呼んで、〈 内覧を頼長に譲るように、そうすれば将来頼長はその職を、お前の子に与えるだろう。 〉と言った。」

 忠実の意図は摂政関白の職を空洞化し、実権を左大臣の次男頼長に渡そうというものでした。忠通が黙ったまま返事をしなかったので、忠実はこのことを鳥羽法皇から忠通に伝えてもらったと言います。この時忠通は、鳥羽法皇に文書で次のように答えたそうです。

 「弟の頼長は資性凶暴であり、幼い天皇を補佐すればその災危は天下に及びます。しかし父忠実の言うことを聞かなければ、父は怒るでしょう。だがこれを聞けば天皇のためになりません。忠孝が両立しないため、私は黙然としておりました。そもそも内覧は公 ( おおやけ ) のものであり、私が譲るとか譲らないとか言う性質のものではありません。」

  忠ならんと欲すれば孝ならず

  孝ならんと欲すれば忠ならず 

 有名な平重盛の言葉ですが、彼以前に同じ苦しみを味わった人物がいたと知るのは意外でした。彼の苦しみを知る人間が周りにいなかったことが、乱の発生を早めてしまいます。

 思案に余った鳥羽法皇は、愚かにもこの文書を忠実に見せてしまわれました。果たして忠実は怒り、ここから頼山陽の詩が始まりますが、「複雑な内幕」を紹介するにはスペースが無くなりました。続きは次回といたします。

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