千葉日報の記事というより、共同通信社の記事なので、本日からそのように書きます。同社は、日本最大の通信社であるだけでなく、世界でも指折りの巨大通信社です。
一説では美智子様を通じて皇室との関係もあり、マスコミ界で大きな力を持っていると言われています。日本世論の誘導や情報操作も、その気になればやれますし、国際問題についても、国民の知らない多くの事実を知っている組織です。
それだけに私は、「在日コリアン」の記事にこだわります。両論併記をせず、片方の意見だけを大きく報道する姿勢に疑問を呈します。在日コリアンは、日本でずっと差別されただけの存在だったのか、被害者だったのか。
日本が敗戦となったとき、多くの在日朝鮮人たちが、共産党とともに武装蜂起しました。火炎瓶闘争という激しい暴力闘争が頻発し、治安に当たる警官と衝突し、多数の負傷者が双方に出ました。暴力革命を目指していた共産党は、左翼信奉者の日本人だけでなく、差別されていた朝鮮人も利用しました。
代表的な争乱が、「吹田事件」と呼ばれているものですが、こうした争乱への朝鮮人の参加数は、30万人だったとも言われています。各地で騒動を起こす彼らを、政府は治安維持のためにも朝鮮へ戻そうとし、吉田茂総理はマッカーサー元帥に相談しています。
しかし朝鮮が南北に分かれ、戦争状態にあったため帰還作業は困難を極めました。
在日朝鮮人の多くが共産党の党員であったり、その親派でしたから、反共を国是とする韓国が受け入れるはずがありません。かといって国交の無い北朝鮮とは、交渉する手段がありません。GHQを動かし国際赤十字の協力を得て、やっと実現したのが北朝鮮への帰還事業でした。
最近になり、事実が世間に出るようになりましたが、これを見ますと、日本政府のというより、彼らの国である韓国と北朝鮮に責任があります。もっと言いますと、マルクス主義を信じた彼らが韓国に拒否され、自分たちも韓国行きを拒否したのですから、すべて自己責任でしょう。
それなのに戦後の日本国内では、事実に反する意見が広がりました。
こういう状況がなぜ続いたのかは、「温故知新」の読書が教えてくれました。敗戦以後、岩波新書をはじめとして日本の出版界は、左翼主義に傾きました。反日左翼・グローバリストたちが、洪水のように著作を出しました。社会主義を人類の理想と信じる彼らは、ソ連や中国や北朝鮮を素晴らしい国と賞賛しました。
軍国主義の日本は、国民を困窮のどん底に落とした酷い国だと批判し、彼らの著作が多くの国民に読まれました。変節した一流の学者の意見をマスコミが取り上げると、本や新聞が売れて儲けになります。反日で商売になる日本が、こうした流れで生まれました。
息子たちに言います。
在日韓国・朝鮮人たちの実態が世間に伝わらなかったのは、反日学者とマスコミのせいです。政府が都合の悪い情報を隠していると、国会で野党が追及していますが、戦後73年にわたり、彼らが国民に隠してきた事実と発信した「大嘘」に比べたら、どっちもどっちです。
在日コリアンが、日本から差別されたと騒ぎますが、息子たちのためもっと昔の話をします。明治の初めに溯り、当時の政府の努力を説明しなくては、公平な意見になりません。
イギリスがインド、オランダがインドネシア、フランスがインドシナを植民地としていた時代の話です。明治政府の元勲たちは、列強の侵略から日本を守るためには、中国や朝鮮との連携が不可欠と考えました。
・明治元年、日本は対馬藩を介し、朝鮮に新政府発足の通告と、国交を望む交渉を行いましたが、朝鮮側に拒否されました。
・明治3年、明治政府はさらに使節を派遣しましたが、相手にされませんでした。
・更に明治5年に、旧対馬藩主を外務卿として派遣しますが、朝鮮は頑として応じず、
・逆に明治6年以後は排日の風潮が強まっていきます。
・政権を握っていた大院君が、布告を出しました。
「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん。」
「我が国人にして、日本人に交わるものは死刑に処せん。」
この意味は、「日本人は未開の民族で、鳥や獣と同じである。」「日本人と交わった者は死刑にする。」でした。
当時釜山にいた、明治政府の外交官たちは、この布告を見て怒り、ここから政府内で「征韓論」が沸騰しました。
ご先祖様たちが礼を尽くして接しているのに、韓国の大院君はこういうあしらいをしました。在日コリアンの人々に、「差別を始めたのは、どっちだ。」と言いたくなります。
しかし過去の事実を知らない多くの日本人は、在日の大嘘にうなづくばかりです。
もしかすると共同通信社の社員も歴史の知識がなく、在日の大嘘を信じているのでしょうか。鷹揚なのか、お人好しなのか、馬鹿なのか、しっかりしろと言いたくなります。
長くなりましたが、気の毒でもある千葉日報社への苦言です。なんの解決にもなっていませんが、本日で終ります。