「軍閥」の変化について、氏の意見を紹介します。
・周知のごとく西南戦争以後、陸軍の主流は薩摩から長州に移り、西郷の弟である従道が、陸軍中将から海軍中将になった。
・陸軍が長州の陸軍となったことは、その発祥を考えれば、ある程度仕方のないことである。
・しかし軍が段々大きくなり、全国から人材を集め出すと、陸軍イコール長州というのは、内部の軍人にとって耐えがたいものとなる。
・「一夕会 ( いっせきかい ) 」における、東條英機の長州に対する激しい怒りを込めた発言が出たのも、これまたよく知られている。岩手県出身の東條の父、東條英教中将が晩年、長州閥によりいじめ抜かれたことが起因している。
「一夕会」というのは、長州閥の横暴に疑問を抱く軍人の私的な集まりにつけた名称で、東條英機のほか、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次がいました。
「一夕会」と同じ時期に「双葉会」が作られ、双方に顔を出すメンバーもいましたが、氏の説明によりますと、林銑十郎、荒木貞夫、真崎甚三郎、宇垣一成の名前があります。彼らは皆、陸大卒のエリート軍人あり、天保銭組です。
・「一夕会」と「双葉会」が目指したのは、陸軍の人事を刷新して、諸政策を強く進めることである。人事の刷新とは何か。つまりメンバーである彼らが、陸軍を支配する重要組織を抑えることである。
・こうすれば過激な手段を取らずに、陸軍内で合法的に、自分たちの主導権が確保できるというものである。
昭和7年の荒木陸相の頃は、省部の要職、師団長、旅団長はすべて「天保銭組」が占めるようになります。これが「長州閥」の次に生まれた新しい軍閥で、氏は名前をつけていませんが、私は仮に「天保銭組閥」と名づけました。
・この時期は、陸軍が軍事課、軍務局を中心に重要国策を案出し、参謀本部が国防・国策の改定を進めていく過程である。「満州事変」、「満州国承認」、「在満機構改革」という重要問題も、ほとんど軍部の独走に終始している。
「天保銭組閥」も二つでは収まらず、橋本欣五郎中佐を中心とする、「桜会」が生まれます。「桜会」の綱領は過激で、項目が複数ありますが最初の二つを紹介します。
1. 本会は、国家改造をもって終局の目的とし、これがため要すれば武力を行使するも辞せず。
2. 会員は、現職将校中にて、階級は中佐以下、国家改造に関心を有し私心なき者に限る。
桜会は、「3月事件」と「10月事件」と呼ばれる、クーデター計画を実行しようとしますが、大胆な動きが事前に察知され未遂に終わります。両事件とも、国民にひた隠しにされて、軍の内部では関係者の処罰に意見が分かれ、結局は不問にされます。
これを機に軍の上層部に、有名な「皇道派」と「統制派」といわれる人脈が生まれます。どうやら氏は、これらのすべてをひっくるめ、「軍閥」と総称しているようです。「天保銭組閥」などという、小さな名称を使わなかった理由が分かりました。
陸軍は満州、海軍は南方アジアへと、それぞれ異なる戦略を抱いていることが、これまでの説明で分かりました。なぜ陸軍が、強硬に満州戦略に固守したのか、氏が説明しています。
・軍人は、国家の自給自足のための経済要請や、軍事上の見地からして、満蒙を国防の第一線、生命線だと考える以上に、満州に特別の関心があったのである。
・日本陸軍の発展の元である日露戦争は、満州の野で、日本軍将兵が血を流して勝利したという事実から、「満蒙領有」というよりは、満州と日本との一体感が、軍人にあったのである。
・そもそも満蒙への日本軍部の根強い思考は、西郷隆盛の征韓論以来、「大陸問題」、「満蒙問題」といわれる一貫して変わることのなき、伝統的な陸軍最高の基本政策であった。
氏が当時国際的に承認されていた、南満州鉄道守備隊の軍歌の一節を紹介しています。
ああ十万の英霊の、静かに眠る大陸に、残せし勲を受け継ぎて
十万の英霊とは、日露戦争の戦死者のことです。氏はさらに、宇垣一成が書いた大正時代の日記の一部を、紹介します。
・満州における日本の基礎は、鮮血をもって書かれたる歴史の有することを、常に念頭に持ちて仕事をすること必要なり。
「東京裁判」以来、戦後はずっと満州に関して「軍部の独走」ということが語られ、日本を破滅に導いたのは「陸軍の暴走」と、学校で教わりました。2年前の平成29年の6月に『岡田啓介回顧録』を読んだとき、私は次のような書評を書きました。
・当時の満州は日本防衛の最前線であり、希望の開拓地でもあり、未開の荒野でもありました。
・満鉄では右だけでなく、左翼の社会主義者も加わって満州の未来図を描き、それこそ日本中が沸き返っていました。
・他国の領土であることも忘れ、無数の日本人が、思い思いの夢を語っていました。反対意見を言う者に対し軍人が刀を抜き、ひどい時には斬殺したり、そうした軍人の横暴さには我慢がならないとしましても、なにもかも、陸軍だけが悪かったと結論づけるのは正しい見方でないと、そう思えてなりません。
・「満州事変」の時、元老の西園寺公が第一に考慮したのは諸外国、とりわけ、欧米の反応でした。もしも日本軍のやり方が、途方もない暴挙だとしたら、公は頭から否定したはずです。
・公が異を唱えたのは、軍部の拙速な手段に対してであり、満州の統治そのものには言及しておりません。
・つまり当時の国際情勢では、日本の満州進出を何が何でも非難・攻撃するという風潮が、表立ってなかったということでしょう。
・財界も学界もマスコミも一般庶民も、満州開拓の熱に浮いていたのに、陸軍だけを悪者にし、責任を転化して、過去の歴史を済ませようとするのは、戦後の日本人の自己保存エゴだと、そう言わずにおれません。
・善か悪か、戦後から見た単純な基準でなく、もっと多くの視点から自分たちの過去を見つめ直さなくて、どうするのでしょう。軍人だけを悪者にし安穏としているようでは、日本人の誇りが泣きます。これは、今でも私の気持です。
息子たちに言います。
日本が再軍備するためには、高橋氏が指摘している軍の仕組み、憲法のあり方、国民の思考が、時代に即して変化しなければなりません。
なんでも反対の野党は勿論のこと、自称保守の自民党の議員諸氏も、お花畑の国民も、そして私のような庶民も、過去の事実から逃げてはいけません。
本は97ページで、やっと3分の1を過ぎたところです。続きは次回といたします。