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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

高橋正衛氏著『昭和の軍閥』 - 4 ( 山縣公亡き後の明治憲法と軍人勅諭 )

2019-04-18 16:37:03 | 徒然の記
  「日本国憲法」は、占領下でマッカーサーに押しつけられたものだから、改正すべきという意見があります。占領国による、被占領国の憲法改正が、国際法違反であるということは、GHQも認識していました。
 
 これが、「憲法改正」に賛同する理由の一つでもあります。
 
 しかし憲法を「明治憲法」に戻せば良い」という意見には、賛成しません。天皇を絶対不可侵の存在と位置づけた憲法に、欠陥のあることが分かっているからです。
 
 「明治憲法」の解釈が、絶対不可侵の天皇に軍の「統帥権」を直結させ、内閣の手の届かない存在とした事実が敗戦の一因だと、近衛内閣の書記官長 だった富田健二氏が述べていました。
 
 「国務」と「軍務」という言葉も、今では死語となり、辞書では適切な説明が見つかりませんでした。
 
 富田氏の著書から引用しますと、次のようになります。
 
  国 務・・・   国政のうち、 軍事、立法・司法を除き、内閣の権能に属する政務の総称 
 
  軍 務・・・ 軍事に関する実務の総称。内閣から独立し、天皇の大権とされた軍の統帥事項全般 
 
  「今回の条約改正問題は、政治問題でなく、国家問題である。」
 
  「かようなことが、法律に触れるものならば、軍人はついに、無思想とならざるを得ないではないか。 
 
 前回紹介した谷中将の意見ですが、国務と軍務には一線が引き難く、個人の解釈で変わります。中将の頭の中では政治問題とは国務で、国家問題が軍務となっています。
 
 絶対不可侵の天皇に「統帥権」を与えた憲法に、欠陥があるという事実をもっと知るべきではないでしょうか。高橋氏の著作では、軍閥の萌芽を作った山県有朋公への説明があります。
 
  ・激しい権力意思に貫かれた彼の85年の生涯は、政治的人間の一つの形を示している。
 
  ・陸軍80年の歴史のうち実に50年の間、彼は個人として陸軍を支配したのである。
 
  ・桂太郎 、 寺内正毅、 田中義一といういわゆる長州閥で、山縣が陸軍の前期、ほぼ50年を支配した事実は、よく知られているところである。
 
  ・山県が日本最初の内閣である伊藤内閣に、内務大臣として入閣した時より、後年の陸軍の軍閥化が、始まると言える。
 
  ・内務大臣の権限はその言葉の通り、日本国内のすべてのことをつかさどるという、今日では想像を絶する強大なものであった。
 
  ・山県が内務大臣として入閣したことが、この後、軍と政治の力関係を決定したと言っても良い。
 
 私はこれまで、日本の「官僚制度の基礎作り」をしたのが山県有朋公と教わっていました。「軍の制度」も公が作り、50年も支配していたとは知りませんでした。
 
 「軍人勅諭」の原案を作ったのも公で、軍人の政治からの中立、いわゆる「兵権独立主義的差別主義」を確立したのも公でした。
 
 これについて、高橋氏が説明しています。
 
  ・日本陸軍の重大な「中立主義」は、山県その人によって、はじめから踏みにじられていたのである。つまり彼により、すべての政治問題が国家問題へ還元されていく。
 
  ・国家問題へ還元されたものは、最後には「統帥権」に収斂されていく。谷干城の新聞談話など、山県の政治行動から見れば、象と蟻の大きさの違いがある。
 
 山県有朋公は、個人的野望で行動したというより、元勲の一人として、列強に対抗するには、「富国強兵」しかないという信念の持ち主でした。軍があってこその日本と信じ、強力な軍を作ることに生涯を捧げました。
 
 彼がいる間、「明治憲法」は有効だったのでしょうが、元勲がいなくなった昭和になると軍閥の独走が止められなくなりました。
 
 平成の世はあと10日あまりで終わり、 令和の時代となります。どのような時代となっても、敗戦以来抱えている課題は変わりません。
 
   1.   皇室の伝統と文化を守ること。 
 
   2. 国の自主独立のため、軍を再建すること   この二つです。
 
 山県公が作った陸軍の間違いの一つを、高橋氏が指摘しています。
 
  ・軍人は政治に関わらずと戒めているが、そもそも陸軍の学校では幼年学校から陸大まで、政治に関する教育、授業は一度もないのである。
 
  ・大正の中頃までは、新聞、雑誌は、上司の許可なきものは、一切読ませない。世間に出るのは、外出を許可された日曜日だけである。これでは、惑わずどころか、世論のなんたるかが軍人に正しく理解されるはずがない。
 
  ・この学校を出たエリートたちが、全陸軍の政治的判断や行動を、軍の中枢で決めるのである。彼ら軍人は前記のように、まったく政治について教育を受けていないのである。兵権独立主義的差別主義の破綻は、ここにも見られる。
 
 海軍の学校では陸軍と違い、読書も討論も自由で、世に出た時軍人であると同時に世間に通用する紳士となるよう、教育されたと別の本で読みました。海軍と陸軍の思想風土の違いが、戦争遂行に大きな障害となったのではないでしょうか。
 
 情報を閉ざされた空間にいれば、優秀なエリートでも世間が見えなくなります。世間だけでなく、国際社会や、国際政治への判断も正しくできるのかと疑問になります。
 
 陸軍は満州・ソ連への戦略を優先し、海軍は米英との戦争準備に力を注ぎました。
 
 双方が一つになり戦略を立てれば、国力不相応な戦争への突入にも、別のやり方が生まれたのかもしれません。現在の防衛大学がどのようになっているのか知りませんが、「憲法改正」だけでなく、「軍人教育」につきましても、無関心でいてはならないという思いが強まります。
 
  238ページの本の、45ページのところにいます。どうやら私も、日本軍と同様、実力不相応な問題に首を突っ込んだのではないかと、たじろいでいます。
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高橋正衛氏著『昭和の軍閥』 -3 (「 軍人勅諭」と「明治憲法」の役割 )

2019-04-18 11:30:30 | 徒然の記
  本日は、『昭和の軍閥』の3回目になります。現在では聞き慣れない、「天保銭組」「無天」という言葉を高橋氏が説明しています。
 
  ・「天保銭組」とは、陸軍大学校出身者の別称である。陸大卒業生のみが軍服につけた徽章の形が、天保銭に似ていることから、この名称が起きた。これに対し、陸大を出ない将校を無天という。
 
  ・「天保銭組」の彼らは軍部の中枢、すなわち省部に座していた。
 
  ・省部とは、陸軍省参謀本部の略称であり、いわゆる幕僚である。軍隊及び国内へ及ぼす権限の強大化に伴い、この略称が、軍の権威の名称となり、やがて日本で、もっとも強固な組織体となり、幕府とさえ言われた。
 
  ・処遇が違う陸大卒と無天の差は、進級もさることながら、省部の重要職、つまり軍政をつかさどる陸軍省と、軍令をつかさどる参謀本部の要職は、すべて陸大出が独占する。
 
  ・まさしく軍部の中枢には、「天保銭組」が座していたのである。また、実戦単位の最高指揮官たる師団長、連隊長も、ほとんど、「天保銭組」によって占められた。
 
 陸大卒という、エリート中のエリート軍人が巨大な組織を支配し、ここまで徹底した「成績重視」の運用をしていたとは想像していませんでした。次の「教官」の章を読みますと、さらに軍の組織への理解が進みます。
 
  ・陸軍の学校では語学や物理、数学など、一般科目は文官が教官であるが、軍隊教育の中心である、兵器、操典、交通、築城などの科目は、 現役の軍人がこれにあたる。
 
  ・普通の学校では、大学に残り教授のコースを志望しない限り、生徒と教官は、卒業と同時に縁が切れ別の世界の人間となる。しかるに、陸軍ではそうならない。
 
  ・特に陸大の教官になる、少佐、中佐は、陸大出身の成績優秀な軍人が、1、2年やるのであり、この教官はやがて省部の重要職につき、中将、大将という、最高位に昇進する。
 
  ・従って、生徒と教官は陸軍に在籍する限り生涯の関係を持つ。
 
  ・陸大、陸士さらには、幼年学校という少年時代であっても、同様である。この教官・生徒という関係は生き続けて、時に、政治の動向を決する、重大人事を左右することとなる。
 
 教官・生徒という関係にあった軍人たちが、思想・信条に共感を覚え、いつしか仲間としてのつながりを、持つようになります。具体的に語られていませんが、「5・15事件」や「2・26事件」の萌芽が示唆されています。
 
 といって、政府が「軍人の政治的中立」について、無関心であった訳ではありません。むしろこれを防止するため、腐心していていた事実を氏が紹介します。
 
 それが明治15年の「軍人勅諭」と、明治22年に公布された「明治憲法」だと言います。こういう観点から考えたことがありませんでしたが、「軍人の政治的中立」がいかに重要であり、また困難事であったかが窺えます。
 
 明治天皇が、軍人に下賜された「軍人勅諭」には、次のように書いてあります。
 
 「世論に惑わず、政治に拘らず、只々一途に、己が本分の忠節を守り」
 
 この一節は、軍人はもとより政治家も常に口にして、とくに軍人にとっては絶対的な誓いとなっていました。
 
 軍と政府は、この思想を「兵権独立主義的差別主義」という言葉で、浸透させていました。
 
 氏の説明を続けます。
 
  ・軍人は国家に対して事実上の服務関係にあり、軍の統帥に服し、特殊な規律のもとに置かれる個人である。
 
  ・この個人と政治の関係をいかに規制すべきかは、欧米における国法と同じく、軍人を、参政の権利から除外している。政治に関する限り、請願権、言論、出版、集会、結社等の国務要求権や、自由権からも、除外し、高度の制限を加うる主義を取っている。
 
  ・その趣旨とするところは、軍人をして日常政治闘争の圏外にあらしめ、軍人の政治的言動により、政党・政派の反感と、国民の不安を招き、国民団結の象徴である軍と、国家を毀損する恐れ無からしむるためである。
 
  ・同時に、これによって生じる軍の内部抗争と分裂を防止し、もって軍隊の強固なる精神的団結を、確保せんとするものである。
 
 古めかしく、厳しい言葉が並びますが、明治の元勲達はこの政治的禁欲を軍人に課し、建軍の本義として日清、日露の戦争を戦い、やがて昭和となり巨大な力を持つ軍が出来上がったのだと、氏が説明します。
 
 明治22年に、大隈重信外相が、列強との「不平等条約」改正にあたった際、谷干城中将が東京新聞に反対の談話を発表しました。
 
  ・このため谷は、予備役に編入されるのである。陸軍大臣大山巌は、谷に対し、天皇の聖旨を伝え、現役を退くことを諭示した。
 
  ・谷は、反論して言う。
 
    「今回の条約改正問題は、政治問題でなく国家問題である。」
 
    「かようなことが、法律に触れるものならば、軍人はついに無思想とならざるを得ないではないか。」
 
 結末がどうなったのか説明されていませんが、「軍人の政治的中立」がいかに難しいものだったかが想像できます。
 
 幕末の混乱に乗じ列強が押しつけた不平等条約の撤廃は、政府だけでなく国民の悲願でもありました。国を背負って立つ軍人の一人として、意見を言わずにおれない気持ちも分かります。
 
 しかし谷中将は「軍人勅諭」を守り、新聞談話をしてはならなかったと思います。
 
 明治天皇がご健在で、明治の元勲が威を揮う時代であっても、血気の軍人の憂国の言を管理することの難しさを教えられます。軍の負の面ばかりを述べますと、「憲法改正」に反対しているように受け取られるかもしれませんが、そうではありません。
 
 国を守る軍人は血気にはやるものであり、だからこそ敵と戦い国土と国民が守られます。軍といかに抑制された組織とするかは、日本に限らず世界の国が工夫を凝らしています。
 
 敗戦となり、軍が戦争責任を押しつけられましたが、全てがそうでなかった事実も、明らかになっています。解体されたことを好機とし、さらに立派な軍が持てるように、私たち国民も知識を持つ必要があります。
 
 「戦争をするための軍でなく、戦争を抑止するための軍」という意見は、詭弁でなく正論だと、息子たちに伝えたいと思います。
 
 「何がなんでも、軍には反対。戦争にも反対。」
 
 「憲法九条さえあれば、日本は素晴らしい国」
 
  と信じる方々はブログを無視されて結構ですが、そうでない方々のため、明日も氏の著書と向き合います。
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