ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

映画「メソポタミア」を見て

2015-01-18 14:33:20 | 徒然の記

 中学2年生(14才)の時の日記に書いている、映画の感想文を発見した。

 57年前の作文だ。あの頃は、生徒が一人で映画を見ることを、学校が許さなかったから、きっと文部省推薦の映画を、学年全体で見に行ったのだと思う。映画の中身はすっかり忘れているが、下手な字で丁寧に書いているから、一生懸命綴ったものに違いない。

 くどい部分を少し省略するが、なるべく原文のまま写し取ってみたい。「イスラム国が、なぜ無謀なテロを起こすのか。」・・。もしかすると、それを解く鍵の一端が、拙い日記の中から発見できるような気がする。


 「かっては、バビロニア王国やペルシア大帝国を作り、」「世界文明の先端を走ったこの国の人々が、今では文明に見放され、」「昔ながらの不便な、そして愉しみの少ない生活を黙々として続けている。」「便利な暮らしも娯楽も、なぜか彼らは欲しがらない。 

 「ただ熱心に宗教を信じ、宗教に頼っている。」「荘厳で美しい大寺院の中で、冷たい大理石の床に座り、」「まるで、自分たちの悲しい運命に、愚痴でも言っているように呟きながら、」「いつまでもいつまでも祈る彼ら。」

 「彼らは祈りによって、生活の悲しみや苦しみを忘れ、」「明日からの暮らしに備えている。」「なんという不思議な民族なのだろう。」
「石油と言う、自分の国の莫大な富は、」「欧米人を肥え太らすためにでも、あるかのようだ。」「彼らは、自分の国の富を自分で開発しようともせず、」「欧米人に、わずかの金をもらって、使われている。」

 「昔ながらの、活動的でない服装、不潔な暮らし、」「少ない愉しみ。それでも、彼らは、満足している。」「彼らは、前進することを忘れているのだろうか。」「本当に、自分を知らない人たち、同情すべき人たち。」「何が彼らをそうさせたのだろう。」

 「荒れ果てた砂漠に麦を撒き、水を引く農民の親子。」「畑に流れ込む泥水を眺めながら、彼らは何を思っているのだろう。」「貧しい暮らしも、荒れ果てた砂漠も、」「どうにもできない運命と、諦めているのだろうか。」「それとも、今年の豊作を祈っているのだろうか。」「こう思って心配している私をよそに、彼らの空ろな目は、流れる泥水をじっと見ている。」

 「映画を見て思った。」「この可哀相な人たちの心に、世界文明の先頭にいた昔のような、強く前進する心や勇気を、」「奮い起こしてやる人は、いないのだろうか。「つくづく思った。」「あるいは、これは、私たちの仕事なのだろうか。」

 これは私たちの仕事なのかと、まるで出光佐三みたいなことを書いているが、大言豪語する癖はこの頃からあったらしい。たかだか中学生でも、言うだけならいっぱしのことを言うと、一方では呆れもする。

 当時は百田氏の本もないし、新聞が、石油メジャーのアコギな行為を報道するはずがないから、私に深い洞察があるはずもない。

 だが、日本の中学生でも、同情せずにおれないほどの暮らしを、すでに中学生でなかった、心ある当時のアラブ人たちは、どういう思いで眺めていたのか。自国の富を、欧米人に奪われ続けていることへの、怒りや、正しい対価を払わない欧米への憎しみや、そんなものが蓄積していても、不思議ではない。

 イスラム国の残虐なテロを、是とする気はさらさらないが、報道機関のひとつくらいは、こうしたアラブの歴史を語ってもらいたいと考える。

 何時までも欧米の国が正義で、途上国の人間が無知蒙昧で乱暴だと、そのような語り口を、そろそろ改める時期ではないのか。フランスでの諷刺漫画への報道ぶりにしても、私には合点が行かない。イスラムの人々が大切にしている人物を弄ぶことが、どうして「表現の自由」とか、「言論の自由」という言葉で庇護されるのか。

 あんな醜悪な漫画は、ただの悪意と、品位のない悪ふざけの産物でしかない。
フランスでは伝統的に、時の政治家や権力者がこうして諷刺されたと、弁護する者もいるが、自国の政治家や権力者なら、いくらやろうとフランス国内での話だ。歴史も文化も違う、外国の指導者を、同じ調子で愚劣な漫画にするなど、思い上がったフランス人の独善でしかない。

 あまり言いたくないのだが、ようするに根底にあるのは、白人が持っている有色人種への差別意識だ。彼らが持つ、優越感以外の何ものでもあるまい。そんなことには考慮せず、わが日本では、マスコミや政治家、文化人などが、フランスを真似、「表現の自由」とか、「言論の自由」とか言い募り、日本の歴史や文化を破壊している。

 イスラム国のテロは犯罪だから、処罰されなくてならないが、イスラム国を発生させた背後の事象については、もっと伝えられていいと思えてならない。そこがなされない限り、単純で、まっすぐで、愚昧な若者たちは、即座に燃え上がり、テロに走るのではなかろうか。

 中学生の私ですら感じ取った事実を、語らず、究明せず、アラブの過激派の攻撃だけをするのだとしたら、火に油を注ぐばかりだと心配でならない。

 「なに、そのうち。反日なんて収まりますよ。国民が豊かになったら、自分の暮らしを楽しむ方に向いていきますから。」

 邱永漢氏が、反日暴動で荒れる中国の若者を、楽観視していたが、国民を苦しめ、卑屈にし、反逆せずにおれなくするのは、結局「貧しさ」なのだ。単なる貧しさでなく、目に余る「極度の貧困」と、言ってもいい。

 砂漠の国々で、貧富の格差を、平然と看過して来た欧米諸国は、自らの過去を反省する時でもある。同時にアラブの国々の指導者や国民も、自己の利益より、国全体の利益を優先する考えを、持たなくてなるまい。

 陸続きの大陸では、常に異民族がせめぎ合い、対立し、殺し合いをしている。こうなると、大陸の国の人々の、自己防衛本能から来る利己主義を、はたして彼らは克服できるのか、という話に、つながる。

 「みみずの戯言」を語るしか出来ない自分には、大き過ぎる課題であり、身の程を知れと言う声も、心の内から上がってくる。中学生ではないし、言うだけで済ますという身勝手もできまい。

 これ以上は、手に負えませんと、正直に白状することも、大事な節度ということだろう。だから、中途半端でも、尻切れとんぼでも、何でも、本日はこれまでだ。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする