拘置所に一年4月もいると、あれこれ考える。
一体自分の人生何処から間違えたのだろうと?
どうも、博士課程を中退して、就職しようとしたけど、皆面接で断わられた。
ああ、こいつは使えない、とわかっていたのだろうな。
しかし、こっちは、東大出て、何でこんなことになるのか?という思いがあった。
でもって、この歳で自閉症スペクトラム障害などと診断された。
万引きを繰り返すなんて、誰でも不可解に思うだろう。
万引きは当然に犯罪である。百も承知だ。
でも何故かやめられない。
しかし、皆さんも考えてもらいたい。
貴方は、そんなに高潔で、崇高な人間ですか?
俺は犯罪はしない、開き直ってるあんたと違うよ、と返されそうだ。
しかし、それは、たまたま機がなかっただけではないですか?
人を殺しません、しかし、何かあったら、千人殺しているかもしれない。
犯罪者になるか、ならないかは紙一重のように思う。
自分はなんか一角の人間だと思っている人も多い。
他からしたら大したことないのに、自分を大きく見せようとしてる人の何と多いことよ。
結局、愚に還る、ということだと思う。
私は愚か、何も知らない。
宇宙は、ビッグバンから始まったという。
すると当然、その前に何があったかという話になる。
何もないところから何かが始まるという不思議。
キリスト教徒なら、神の一撃、というかもしれない。
しかし、カントがいみじくも見抜いたように、神そのものが自問する。
私は何処から来たのか?と。
ここで、万物は沈むと。
例え、神なるものがいるとしても、では、その神なるものと、宇宙の別のところに住んでいる知的生物が信じる神は同じものなのか?とか疑問はどんどん膨らむ。
つまり、私たちは、何故私がここに居て、死んだらどうなるかは分からない。分からないけど、とりあえず生きている。
分からないなら、わかったふりするんではなく、分からないというところから出発するしかないように思う。
悪いことしたら、地獄に落ちるよ、などという。
しかし、世の中、そう良い人もいないように思うから、地獄の閻魔さまは大忙しだろうと。
親鸞がいうように、弥陀の本願、ひとえに親鸞一人が為なり、という言葉が何となく分かる気がします。
一体自分の人生何処から間違えたのだろうと?
どうも、博士課程を中退して、就職しようとしたけど、皆面接で断わられた。
ああ、こいつは使えない、とわかっていたのだろうな。
しかし、こっちは、東大出て、何でこんなことになるのか?という思いがあった。
でもって、この歳で自閉症スペクトラム障害などと診断された。
万引きを繰り返すなんて、誰でも不可解に思うだろう。
万引きは当然に犯罪である。百も承知だ。
でも何故かやめられない。
しかし、皆さんも考えてもらいたい。
貴方は、そんなに高潔で、崇高な人間ですか?
俺は犯罪はしない、開き直ってるあんたと違うよ、と返されそうだ。
しかし、それは、たまたま機がなかっただけではないですか?
人を殺しません、しかし、何かあったら、千人殺しているかもしれない。
犯罪者になるか、ならないかは紙一重のように思う。
自分はなんか一角の人間だと思っている人も多い。
他からしたら大したことないのに、自分を大きく見せようとしてる人の何と多いことよ。
結局、愚に還る、ということだと思う。
私は愚か、何も知らない。
宇宙は、ビッグバンから始まったという。
すると当然、その前に何があったかという話になる。
何もないところから何かが始まるという不思議。
キリスト教徒なら、神の一撃、というかもしれない。
しかし、カントがいみじくも見抜いたように、神そのものが自問する。
私は何処から来たのか?と。
ここで、万物は沈むと。
例え、神なるものがいるとしても、では、その神なるものと、宇宙の別のところに住んでいる知的生物が信じる神は同じものなのか?とか疑問はどんどん膨らむ。
つまり、私たちは、何故私がここに居て、死んだらどうなるかは分からない。分からないけど、とりあえず生きている。
分からないなら、わかったふりするんではなく、分からないというところから出発するしかないように思う。
悪いことしたら、地獄に落ちるよ、などという。
しかし、世の中、そう良い人もいないように思うから、地獄の閻魔さまは大忙しだろうと。
親鸞がいうように、弥陀の本願、ひとえに親鸞一人が為なり、という言葉が何となく分かる気がします。