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だらだら日記goo編

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コレクターという人生

2005-02-21 20:06:54 | 日記・エッセイ・コラム
先週の週刊朝日の書評「ビニール・ジャンキーズ レコードコレクターという奇妙な人生」にうなづいた。
評者は言う「コレクターはたいていぼうだいなコレクションをもっている。残った人生のすべての人生を費やしても聞ききれない数のレコードを所有しているものなどざらだ」
そのとおりだ。これをCDと言い換えればまさに僕に当てはまる。
レコードだけではない。本も展覧会の図録も同じことだ。
いつ聞きたい、読みたいとなるかわからない。だから手放せないのだ。
処分してしまえばまた読みたくなったとき後悔する。だから処分もできない。
本やCDなど図書館で借りろといわれるかもしれないが、上記の理由で期限付きのものはだめなのだ。
森本哲郎さんがやはり学者との対談でおなじことを述べていていたく共感したことがある。
かくて家の中は集めたものでごった返す、整理しろといわれてもできない、性分なのだ。
だからといって同じ週刊朝日に載っていた「雑誌の山で生き埋め」になった人ともまた違う。
この人は週刊誌や写真集を七トンも溜め込んで床が抜けたそうだ。
しかし僕には「テレビガイド」や「アサヒ芸能」を溜め込む心理はわからない。
こういうものは、必要がなくなったら捨てればいいと思う。
だけど本やCDは必要がなくなるということがない、だから頭いたい。


東大を歩く

2005-02-19 22:09:54 | 日記・エッセイ・コラム
今日は冷たい雨、休むはずが電話で起こされ人と会うことに、東大の赤門で待ち合わせる。
喫茶店で用件を済ませて、僕は久しぶりに東大の中を歩いてみた。
大学時代は、自分の所属する文学部と食堂と、書籍と図書館くらいしか用もないので行かなかった。
今になって農学部から工学部、文学部、図書館、赤門を経て総合研究博物館まで歩いてみた。
東大病院や浅野地区の先端施設までは行く余裕がないが、ともかく広い、いい運動になる。
それに民間施設も多々あるので、一般の人も特にとがめられることなく自由に闊歩しているのがいい。
東大移転など騒がれるが、これだけの広さの中にある膨大な建物の移転など金の無駄遣いとつくづく感じる。
歩いた後は総合博物館へ。ここにははじめていく。
「メディアとしての建築」の特別展、江上波夫のコレクションなどやっているが展示数に物足りない。
博物館ボランティアに話を聞くと、在校生はほとんど博物館に関心ないという。僕みたいに卒業してから戻ってくる人が多いとか。
正直な話、在学中は美術にまったく関心なかった、本郷から上野まで近いのに惜しいことだ。
展覧会図録は赤門のすぐそばにできたコミュニケーションセンターで売られているがまたここも客がいない。
それにしても地下鉄南北線に東大前という駅ができ、地下鉄大江戸線も本郷に駅ができてアクセスは格段に良くなった。
入試も近いがこのだだっ広いキャンパスで迷子になるなよ、受験生。
さてせっかく東大行ったのだから学問的なことも。
「メディアとしての建築」に関係して、その複数形がmediaならぬmediumsになる場合のmediumの意味は巫女、霊媒だとか。
この展覧会企画をあたためている間、企画者はこの世とあの世をつなぐものとしての媒体のイメージがあったという。
Ouroboros、東大総合研究博物館ニュースからの引用でした。
なお展示は物足りませんが、この図録はとても充実していることを付け加えておきます。


総論賛成各論反対

2005-02-16 23:11:16 | 日記・エッセイ・コラム
成城墨岡クリニックの入り口にいつも警備員が立っている。
近所の店からの要請という。
階段で待ったり、たばこを吸うといった些細なことが問題となったようだ。
当たり前だが反社会的な行動をする患者は措置入院となるから通院してくるのは見た目ではそれとわからない患者ばかり。
問題も起こるはずはなく、警備員さんは退屈だから患者の靴を並べるのが仕事になっている。
わざわざ警備員が必要とは感じないが、近所の人にとってはこのクリニックは「脅威」に感じるのだろう。
それにしても思うのは警備員を要請するような近所の人の心理だ。
こういう人もテレビの街頭インタビューなどでは「こういう世の中ですからねえ、心を病む人も多いですよねえ」などとさも精神科に理解あることを言うに違いない、しかし実際に精神科や病院が近所に作られると反対する。
以前書いたゴミでもゴミ置き場の必要性は認識しても、いざ自分の家の前にゴミ置き場を作るというと反対する。
人間なんて所詮そんなものなのだろう。それがいいとか悪いとかではなく身勝手なものなのだ。
なかなか自分を捨ててということはできない、僕だってそうだ。
イエスを始め偉大な宗教家というのもただの人間だが、自己を「無」にすることができた、そこが凡人の僕らとは違うと思う。
警備員さんは今日も暇だから靴をそろえていたに違いない。こんなんで給料もらえてありがたいとおそらく思いつつ。


死ぬということ

2005-02-15 20:26:26 | 日記・エッセイ・コラム
前の家で金魚を飼っていた。
はじめのうちは面白くて水草をやったりいろいろしたがだんだん飽きてきた。
いつの間にかえさもやらず水も変えず、まあ死ぬのを待つようになった。
しかし金魚のなかにはしぶといというか、なかなか死なないものもいた。
こちらは早く死ねと思っても、何を食べているのか全然死なないし弱らない。
つくづく生命力というのは不思議なものだと感じた。
人間もそうだ、死にたいと思ってもそうやすやすと死ねない。
僕もうつがひどいとき自殺しようとした。
ビルから飛び降りようとしたが、暗黒の中に吸い込まれるようでとても死ねなかった。
電車に飛び込もうとしたが、ホームにいる人の視線が気になってとてもできなかった。
そんなこというと、日本中で自殺者は何万といるといわれそうだ。
刃物で殺される人、交通事故で死ぬ人、いろいろいるといわれそうだ。
おそらくそれぞれの人の死ぬときというのはあらかじめ決まっているのであろう。
神様が決めたのか何か知らないが、かつて旧約の詩人も歌ったように「死ぬに時あり」ということだろう。
一歳で殺される子もいる、認知症の末期でもなかなか死ねない人もいる。
仕方がないのだろう、死ぬ時が定まっているのだから。
結局いつ死ぬかは神ならぬ人にはわからない、だから今日を懸命に生きるしかないのだろう。
死ぬときは安らかに死にたい、神のもとに帰るわけだから。
勿論僕に特定の信仰はない。しかしこういう考えが宗教的といわれればそうともいえよう。
哲学者カントだって、ただ神を求めた人生に僕には思える。第二批判の中でカントは「大いなる存在ーそれを通してわれわれは実存する」と語っている。
哲学は結局宗教に帰着する、人は生かされて定めあるときを生きるという平凡な結論に達すると思う。


一本の梅ノ木

2005-02-12 20:28:34 | 日記・エッセイ・コラム
世田谷では今梅祭りが開かれている。
病院の帰り、そのポスターをみて思い出した、一本の梅の木のこと。
ここの家に大学時代に移る前にすんでいたところに一本の梅の木を植えていた。
猫の額ほどの狭い庭だったがともかく植えていた。
僕が小学校に入学するときにもらった梅の苗だ。
それを植えて、たいていの家ではすぐかれたようだが、僕の家ではなぜか育った。
僕の成長と同じくどんどんおおきくなり、花を咲かせ、とうとう大樹になった。
今思えばあの梅の木は僕の人生をずっと見つめていたのだ。
受験、失恋、心の病、その他もろもろ常に側には梅の木があった。
僕の部屋から良く見えるところに植わっていたのだ。
新しい家を建てるとき、その梅も取り除いてしまった。
そして新しい家に移ってから何というかろくなことが起こっていない。
父の肺がん、バブル崩壊による僕自身の就職失敗ー。
もしかしたらあの梅は僕の守り神だったのかもしれない。
もう取り戻せないけど、また梅の木を探してみたくなった。
明日は目黒の庭園美術館に行こう。ちょうど梅の花が満開と書いてある。
また新たな出会いがあるかもしれない。
できれば小さな梅の苗を買ってきて、また植えてみたいなと思う。